第1話 君といつまでも

文字数 2,973文字

「おまえは年をとっても毛がきれいだねえ。ママなんてもうボロボロだよ。白髪染めで痛んじまって。うらやましいねえ」
 ママが体を撫でる。
 気持ちいい。腰のあたりはとくに気持ちいい。俺にとって至福のときだ。
「こうやってノラを撫でてるときが一番だよ」
 ママにとってもそうらしい。うれしい。
「むかしは王子様はどこ~なんて、くだらない男のケツばっかり追っかけてたのに、私も年とっちまったねえ」
 ママは最近としのことばかり口にする。少しうっとおしい。
 ノラはごろりと体を反転させる。
 反対側もママに撫でてもらうためだ。その狙い通りママは手を止めない。
「あんたがうちにきて、もう八年か。そりゃあ、私も年とるねえ」
 八年前、俺は縄張り争いの喧嘩が元で足にケガをした。大したことないと思っていたケガはあっさりと悪化し、三日ほどすると、俺はまともに歩けなくなった。
 ひとけの少ない、日当たりの悪い歩道で、ある午後に俺はママに拾われた。
「あんた、大丈夫?」
 ママはそういって俺を抱きかかえ、病院に連れていき、自宅へと伴った。
「ケガは一週間もすれば治るって。良かったわね」
 俺はママに出してもらった猫ミルクを必死に飲んだ。
 そんな俺の体を撫でながら、ママは続けた。
「病院の先生が言ってたけど、あんた、猫で8歳、人でいったら48歳ぐらいなんだってね。私も48。奇遇だね。なんか運命感じちゃったよ。いい男だし。一緒に暮らそうか。フフフ」
 俺はおかわりを求めるためにできるだけかわいらしい声をひねりだす。
「おかわりね。待っててね。おいしょっと」
 ママが年相応に肉のついた体を揺らしながら室内を移動する。
 あれから八年、俺はこの家にママと一緒に住んでいる。

 ママの王子様というやつは三人ほどいた。
 実際はもっといたのかもしれないが、この家に一緒に住んだ男は三人だった。
 どいつもこいつも腹の決まらないろくでなしばかりだった。
 それでも優しい奴もいた。
 シンジという、若い男だ。
 シンジはママとの暮らしが長くなるほど、外出しなくなった。
「あんたもヒモになる気。もう、やめてよねー、私、ヒモ製造機って言われてんだから」
 ママは怒り口調で言ったが、本気では怒っていない。
 俺がママが買ったばかりのソファで爪とぎしたときや、三日ほど一人にさせられた腹いせにテレビに向かってしょんべんしたときより、声がだいぶ甘いからわかる。
 ママのあの声は鋭角にとんがっていた。
 ママはシンジが可愛くてかわいくて仕方ないようだった。
 俺が嫉妬したかって?
 まさか。いつも猫かわいがりされてた俺は、ママから解放されたことに心底ほっとした。
 そりゃあ過剰にあったものがなくなったんだから、少しは寂しいっちゅうか、ぽかんとしたしたときもあったけどよ。
 そんなときはシンジが相手してくれたしな。
 だからシンジとはウィンウィンの関係だった。それに、あいつのブラッシングはママより繊細でずっとうまかった。
「次のバイト決まってるから大丈夫だよ。ねえ、ノラ、ママはいつもうるさいねー」
 シンジはそう言いながら俺に頬ずりした。
 若いシンジの肌はつるつるで、ママがそれに執着する気持ちもよくわかった。
 若い時に無意識にもっていて、中年になって失くしたときにその存在の大きさに気づくものが確かにある。
 ママがシンジを手元に置いておきたいのは、”それ”に対する執着があるからだ。
 男より女のほうが”それ”を恋しがるし、懐かしがる。
 かわいそうなもんだ。そんなものに振りまわれて。
 愚かだなと思いながら、俺はママを慰めるために、ママの足元に体を寄せ、こすりつけてやった。
 すると気持ちが伝わるのか、ママは決まってご褒美に猫ミルクを出してくれるのだった。
 
 ある晩、シンジが帰ってこなかった。
 シンジが何個めかの新しいバイトに出かけて行った夜だった。
 ママは予感があったらしい。
「あいつのとこに行ったか」
 ママはそう言いながら、俺の体を撫でた。
「バカな男だねえ。こんないい女を捨てて。ねえ、ノラ」
 明るい口調で言ってるが、ママの声は泣いていた。
 俺はせいいっぱいの同意をこめて声をあげる。
「だよねえ。あんただけだよ、私の理解者は」
 そう言って俺を抱きしめたママの体からは、すっかり染み付いて抜けなくなった煙草と安っぽい化粧の臭いがした。
 ママの体が小刻みに震えだす。
「ごめんね」
 誰に言っているのだろう。
 俺に? シンジに?
 ママとシンジが体を重ね合う三十分ほどの気まずい時間がなくなったことはうれしかったが、シンジが居なくなったことは俺にとっても損失だったから、いつもは強く抱きしめられたら逃げる俺だったが、このときはママにきっちりを身を寄せて小さくなっていた。
 俺は、みんなが思っているよりずっと、みんなのことを知っているんだ。

 そして、自分のこともわかっている。
 中年だった俺がこの家に来て八年、猫の16歳は人間でいう80歳にあたるそうだ。
 同じ年だから運命感じる~なんて喜んでいたママは、年のことばかり愚痴ってるがまだ56歳。
 すっかり年下になっちまった。ママなんて言って年上ぶってるが。
「あんたもブチの部分が濃くなったり広くなったりしてるねえ。昔はもっと白い部分が多かったのに。シミとかくすみみたいなもんかねえ。ほんと、私と一緒だねえ」
 体を撫でるママの掌は厚くなり、水気を失っていたが、温かだった。
 昔はもっと肉が薄く、冷たかったのに。
「私と一緒のおかましちゃって、ごめんねえ。でも、長く生きるにはそうしたほうがいいって先生も言うから」
 それは別に気にしていない。
 最初は違和感があって、どうやって歩くのかわかんなくて悩んだこともあったけど。
 助けてくれたママに頼みこまれたんじゃ断れなかったし、さんざんヤンチャはしたから子孫はたくさん残したはずだ。
 この間も窓から下を見てたら、通りを俺にそっくりな柄の若い男がいきがって歩いてた。
 俺の昔に生き写しだったね。
 ああやって引き継がれていく。それでいい。俺は引退だ。
 でも、ママは誰に引き継ぐんだろう。
「でも、長く細く生きるのがほんとに幸せなのかねえ。私もそんなふうに生きちゃってるけど。二丁目なんてノンケに侵されてすっかり雰囲気変わっちまって、私なんて時代遅れのおかまママって笑われてるよ」
 ママがふっと寂しそうに笑う。
 そんなママは髪はぱさぱさ、肌は皺皺なのに、どこかかっこよかった。
 人間を感じさせた。
 この一瞬だけは、いろんなことを気に病んでちっぽけで愚かに感じる人間のことがでかくみえる。
 負けたと思う。
 やっぱりママが好きだ、一緒に暮らしてきて良かったと強く思う。
「さあ、それでも店を開けないと食っていけないからねえ。行くよ。ちゃんと帰ってくるから、待っててね」
 ママは鼠色のスウェットをひらひらの安っぽいドレスに変えて、町へと出かける。
 行ってらっしゃい。頑張って。
 俺は三人よりずっと多くの男がママと重なって汗やらなにやらを沁み込ませたソファで身を丸め、ゆっくりと目を閉じた。
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