文字数 1,024文字

 振り返ると、例の老人が立っていた。
「旦那、生きてここから出られませんぜ」
 牢獄の中で、ボロボロの着物に下帯だけの老人が言う。
(今ごろになって登場か)と思ったが、黙っていた。
「旦那、庄屋が名主を訴えりゃ、是非もなく、庄屋が勝つ。庄屋の方が身分が上だからだ。また、藩にとっちゃ、このごたごたを幕府に目をつけられて、藩を潰す口実にされかねない。誰かを犯人にしてこの話の幕引きを早くしたいのさ」
「わかっておる。今は、〝四民平等〟ではないからな。だから、儂はいい。儂は、与茂七が打ち首になったことをすでに知っている。儂にとっては、このことは過去のできごとだ。しかし、茂蔵にとっては、まだ見ぬ未来なのだ。未来は変えられるはず。茂蔵だけは救いたい」
 言い伝えによれば、与茂七は死罪。茂蔵は死刑だけは免れたという。ただし、どのようにそうなったか彼は、伝え聞いていない。そこで、彼がとった行動は、以降、与茂七として、取り調べでは役人に悪態をつき、自らの印象を悪くした。また、茂蔵と接触を断ち、目も合わすこともしなかった。共謀しているという印象を与えないためだった。与茂七は、とにかく自分が主導したのであり、茂蔵は、自分の指示でついて来ただけである。茂蔵になんの罪もない。自分だけが罰せられるべきだ、と牢獄の中で訴え続けた。
 三ヶ月後、代官の審判は、与茂七を打ち首、獄門としたが、茂蔵の命は助けられることとなった。与茂七は安堵した。今、身分制度をひっくり返すことはできない。やれるとしたら、明治の代議士、大竹貫一としてだろうと覚悟を決めた。この理不尽な判決を告げられた時、与茂七は、じっと代官を凝視した。代官は、与茂七と目を合わすことはなかった。
 時を待たずに、与茂七は、城下の刑場に引っ立てられた。大勢の人々が見守る中、与茂七に打ち首の刀が下ろされた。その一瞬、目の前が、真っ赤に染まった。与茂七としての一年半あまりが走馬灯の様によみがえった。その奥に、あの老人のすまなそうな顔が見えたような気がした。

 次の瞬間、与茂七の意識が途切れ、気がつくと、温かな布団の中に自分がいた。頭に手をやると髷はない。与茂七ではなく、貫一になっていた。
「はたして、夢だったのか……」
 打ち首の恐怖は去り、生き返った様な、不思議が感覚であった。しかし、与茂七として過ごした日々の出来事とその間に考えたことがしっかり頭の中に残っていた。
 彼は、布団から抜け出し、襖を開け、外気を吸った。
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