第379話 母として5

文字数 4,111文字

 抱きしめていた星をゆっくりと離すと、自分の顔を見上げる星に向かって九條が笑顔で言った。

「でも、まずは髪を洗わないとね」
「……あ、はい」

 今まで忘れていた髪を洗うということを思い出し、星は絶望したような表情で小さく頷いた。

 途中だった体を洗い終えると、プラスチック製の椅子に座った星は、緊張した様子で肩を強張らせている。そんな星の背中にシャワーから出たお湯が当たり星の体がビクッと跳ねる。まあ、前にもこんなことがあった気がするが……。

 星は頭から掛けられたお湯を瞼をしっかりと瞑って耐えると、九條の手に出されたシャンプーを付けて頭皮を優しく洗っていく。

 髪をわしゃわしゃと洗いながら九條が呆れたように呟く。

「やっぱり。相当汚れてるわね……髪がベタベタよ? これじゃブラシも通らないわよ。二回は洗わないと完全にベタつきは取れないわね」
「そんな――」
「――はい、喋らないの! 洗い流すわよ!」

 不満を口にする星の言葉を遮るようにシャワーのお湯で髪の毛に付いた泡を落とすと、再び手の平で拡げるようにしたシャンプーを星の長くて黒い髪に絡ませていった。

「女の子は髪を大事にしないとダメよ?」

 再び指の腹で頭皮をマッサージするように髪を洗う九條。

 そんな彼女に星が疑問をぶつけた。

「んっ……なんでですか?」
「なんでって……大きくなっていっぱいおしゃれして、素敵な男性と恋に落ちて、付き合って結婚する為――ひとりぼっちは寂しいからね……」
「まだおしゃれとかは分からないですけど……最後のひとりぼっちが寂しいのは分かります……」
「それだけ分かれば大丈夫……それじゃ、流すわよ―」

 星の返事を待つことなく九條は再び髪に付いたシャンプーの泡を洗い流した。そしてリンスを手に取りシャンプーの時よりも丁寧に髪に馴染ませる様に塗り込んでいく。
 
「リンスが髪に馴染むまで少し私の昔の話をしようかな……」

 九條は星の黒い髪から手を放すと、ゆっくりとした口調で話し始めた。

「さっき、私にも娘が居たって話をしたわね……私の旦那は科学者だったわ。その旦那は娘が生まれてすぐに死んだ。そして、事件が起きたのが娘が3歳の時だったわ……旦那の死後。カリフォルニアに家を買ってそこに住んでいた私達親子は、ある日普通にスーパーの帰りに運転していたら煽ってきた大型のトラックに接触されて、そのまま道路脇に生えた木に衝突した時に私はこの場所に枝が刺さって動けなかった……頭から血を流していた娘は私の目の前で息を引き取ったわ……」
「…………九條さん」

 九條が話し終えるとしばらくの間、浴室内に沈黙が流れた。

 星はなんて声を掛けたらいいのか分からずにただただ俯くばかりだった。もしも自分が同じ思いをしたら……そう思うと言葉が喉から出てこない。

 沈黙の中で九條はシャワーのノズルを手に持って星の髪に馴染ませたリンスを洗い流す。そしてそれが終わった直後、星は徐に立ち上がると後ろを振り返ってつま先立ちになり九條の頭を包み込むように抱き寄せた。

「ちょ……星ちゃん!?」

 驚く九條の頭を優しく撫でると、優しく語りかける様に言った。

「大丈夫――大丈夫です……こんなに優しい人がお母さんだったんだから……きっと娘さんも幸せだったと思います。だから、大丈夫ですよ……」
「――――ええ、ありがとう……ありがとうね……」

 抱きしめてそう言った星に、九條は涙を流しながらお礼を言う。
 抱き合う2人だけのいる浴室内には淡々と流れ続けるシャワーの音と、微かにすすり泣く九條の声だけが響いていた……。

 向かい合って湯船に浸かった2人は互いに笑顔を見せる。その様子から以前よりも星と九條の絆は強くなったのは間違いないだろう。それは浴槽内の星と九條の会話からも分かった……。

「九條さん。胸の傷は痛くないんですか?」 

 星は指の先でゆっくりと胸の下にある古傷を撫でた。

 心配そうな星の視線を受ける九條はにっこりと微笑みながら、そんな星の頭を優しく撫でながら言った。
 
「大丈夫よ。傷跡は残っているけど、痛みなんかはないわ」
「そうですか……良かった」

 それを聞いた星は微笑み返してほっとしたような表情になる。

 ほっとした様子の星を見て九條は笑みを浮かべながら言った。

「貴女はいつも誰かの心配をしているのね。今朝も私の為に寝床を作ろうとしてくれたんでしょ?」
「えっ? は、はい。6月でもまだ冷えますから、それで…………」

 頬を微かに赤らめた星がそういうと、九條の手の平がそっと星の額に触れた。

「ふふっ、優しいのね星ちゃんは……でも、人の心配をするのもいいけど自分を蔑ろにしたらダメよ? ぶつけたおでこはもう大丈夫?」
「はい! もう痛くもないですし、大丈夫です!」
「そう。良かったわ」

 力強くそう言った星に九條は微笑んで頷いた。

 お風呂から上がると、九條は椅子に座る星の髪をドライヤーで乾かしながら九條が星に言った。

「星ちゃんが良ければ、ゲーム内での出来事を教えてくれると嬉しいわ……」

 そう尋ねた九條だったが、その声はどことなく弱く震えている感じに思えた。しかし、それも無理はない。

 世紀の大事件であり。その被害者である星にゲーム内の状態を聞くのは、事件の被害者に事件当時の状況を尋ねているようなものなのである。同じ当事者同士ならばまだいいが、九條は完全なる部外者であり。しかも、その未曾有の被害者を出した開発者の星の叔父でもある人物の関係者だ。

 そんな彼女に被害者である星が事件の内容を教えてくれることはありえない。しかし、あえて九條がそれを星に尋ねたのは今の自分と彼女との信頼関係を確認する為である。

 もしも、これを尋ねたのが九條ではなく星の母親だったら、星は何の迷いもなくゲーム内で起きていたことを話してくれるだろう。逆を言えば、星からその当時の状況を聞けるということは、星の母親までとは言わなくてもトラウマであろうことを打ち明けてくれるまでには信頼関係を構築できているというなによりの証しである。

 だからこそ、九條はこんな踏み込んだ質問を星に投げ掛けたのだ――。

 九條のその問いに星は笑顔で言葉を返した。

「いいですよ?」
「……えっ? いいの?」
「はい!」

 意外にもあっさりと教えてくれた星に少し驚いた様子の九條を見せた。そんな彼女に星も少し不安になったのか、不思議そうに首を傾げている。

 それに気が付いた九條が慌てて笑顔を作ると、首を横に振った。

「違うのよ。ただ、本当にいいの?」
「はい。でも、長くなりますよ?」
「ええ、それは大丈夫! でもまずは髪を乾かしてしまわないとね」

 そう言って笑う九條に星も微笑みながら「良かった」とほっとした様子で胸を撫で下ろした。

 乾かし終わると、星の長い黒髪は本来の艶を取り戻して光を反射してキラキラと輝いていた。動くとふわっと柔らかく揺れる髪を見て、九條は「よし!」と星の頭をポンポンと軽く叩いた。
 
 寝ていた期間が長かったせいか、ベタついた髪がサラサラに戻って少し上機嫌になっているのか嬉しそうにソファーの方へと駆けていく。

 ソファーに座った星が隣をポンポンと叩いて九條を呼ぶと、九條も星の横に腰を下ろして星の方を向いて笑った。
 そんな九條に星も微笑むと、ゆっくりとゲーム内での出来事を話し始めた。ゲームを開始した時に始まりの街のマイハウスやエミルとの出会いやゲーム内で始めての戦闘。

 狼の覆面を付けた男にゲーム内に閉じ込められたこと。
 エリエとデイビッドとの出会い。オカマイスターのサラザと富士のダンジョンでマスターとカレンを加えてがしゃどくろと戦ったこと。
 犯罪まがいなことを行うブラックギルドのダークブレットに捕まった時のこと。
 エクスカリバーを使って星が狼の覆面の男が操るルシファーと戦って始まりの街を守り切れずに千代の街に移動したこと。
 そこで深く知ることになった千代のトップギルドのギルドマスターとサブギルドマスターのメルディウスと紅蓮。そしてそのギルドのメンバー達とメルディウスと紅蓮と同じ四天王と呼ばれるデュランとバロン。そしてその妹のフィリスと仲良くなったこと。
 街を防衛するためにルシファーや様々なモンスターと戦ったこと。星の実の姉との出来事とそして太陽の様に巨大な赤い鱗のドラゴンとの最終決戦のこと。

 それを話し終わった頃には窓の外が微かに明るくなってしまっていた。

 九條が時計を確認すると、時計の針は4時を越えている。大量の情報を全て出し切った星は、集中の糸が解けて疲労が一気にきたのか九條に凭れ掛かったまますやすやと寝息を立てている。

「全く。だから今日一日で全て話す必要ないって言ったのに……」

 そう言って微笑みを浮かべた九條が眠っている星を起こさないように、ゆっくりと彼女の体を持ち上げると部屋のベッドへと星を運んだ。ベッドの上に星を下ろすと、すやすやと眠っている彼女の体に布団をかけた。

 眠っている星の顔を見下ろしながら微笑みを浮かべて優しい表情を向けている。そしてしばらく星の寝顔を見ていた九條はゆっくりと歩き、ドアノブに手を掛けると徐に星の方を見返して微笑みを浮かべたがすぐに表情を曇らせた。

 部屋を出た九條は昨日片付けた部屋に入り、掃除して使えるようになったベッドに横たわった。

「まさかこんなに早くベッドで眠れるとは思わなかったわね。星ちゃんには感謝しないと……でも困ったわね。ミスターに何か起きたのは事実だけど、ここのマンションの住人の殆どはミスターと深くから付き合いのある上に戦闘においても手練れ揃い。もうしばらくはここでも大丈夫だとしても、このままじゃいけないわ。数で押し切られたらあの子を守りきれない……」

 ベッドに仰向けに横たわったまま表情を曇らせ天井を見上げている九條が息を大きく吐き出して呟く。

「考えても仕方ない。今はまだ相手も行動を起こしていないし、私はあの子との信頼関係を構築するのが最大の準備。敵には随時、臨機応変に対応していくしかないわね」

 覚悟を決めたような表情に変わった九條はそのまま瞼を閉じて眠りに就いた。
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