第1話

文字数 1,273文字

 それは2年前、夫、昭夫が営業部長に昇進し、人生の春ともいうべき4月のことだった。
53歳の働き盛り、友人が集まって小さな宴を開いてくれた。
ところがその最中、昭夫は突然意識を失い、倒れてしまう。
すぐに病院に運ばれたが、特に異常は見つからず、過労が原因だろうということで2~3日の休養と精密検査を受けることになった。
しばらくして、ごく初期の胃がんが見つかり、すぐに手術を受けることになる。
幸い早期発見だったので、2週間程度の入院で事足りた。

 それまで昭夫は『仕事第一』の真面目人間。
身体に自信を持ち健康に無頓着だったが、退院後、人一倍気を使うようになった。
薬やサプリメント、食べ物、運動、民間療法に至るまで、ありとあらゆるものを暇があれば熱心に研究した。
何があっても散歩は毎朝1時間、仕事帰りには週3回のジム通い、薬とサプリメントの数は数えきれない程山盛り。朝晩一回分のサプリメントが一度に飲みきれないので、数回に分けて飲んでいるほどだ。
仕事上での付き合いも好きだったお酒も止め、飲み物といえば黒酢と青汁。
油や醤油や砂糖にも気を配るという徹底ぶりで、健康食品の店にも頻繁に通うようになった。

一方私はと言えば、根っからの肉食派。
以前から食べ物に全くこだわりがなく、油っこいものや辛いものが大好き。
最近食事の味付けが濃い薄いで夫婦喧嘩になったこともある。
行き過ぎた昭夫のこだわりぶりに、私は友だちに彼の話をする時『健康オタクの夫』と呼ぶようになった。

 しかしそのかいあってか半年位たつと、昭夫は見違える程健康そうになった。
顔の色つやは勿論、筋肉が付き、お腹も引っ込んで、肥満気味だった体型も今では標準体重をキープしている。
流行りの細いパンツやカジュアルなシャツも似合うようになり、会社でも「若返った」と評判になった。
すると益々やる気が出てきたようで、知人にも公言するようになった。
世の中には同じような仲間がいるらしく、情報交換の友だちも増えた。

 2年を過ぎても、いっこうに昭夫の『健康オタク』は留まるところを知らず、益々加熱するばかり。先月は健康雑誌から取材を受けて、小さなサークルの講演を依頼されるほどになった。
私も今では「趣味がなかった夫が趣味といえるものを持つようになって良かった」と思う。なぜなら友だちの旦那は、飲み過ぎが原因で肝臓を悪くしたり、運動不足で足腰が痛いと嘆いているから・・・

 ある晩、いつものように昭夫が薬とサプリを飲もうとした時、喉に詰まらせてむせた。
「あなた早く、早く、水を飲んで・・・」
あわてて私の差し出した水を多目に含むと、余計にむせた。
悪循環は悪循環を呼び、あれよあれよという間に苦しみながら、息ができなくなった。

 救急車も間にあわず、昭夫はあっけなくあの世に行ってしまった。

 それから私はポカーンと広い居間にひとり、毎日毎日送られてくるサプリや健康雑誌を前にため息をついている。

「あの薬やサプリさえなかったら、もっともっと長生きできていたのに・・・」
お仏壇の写真が何かモノ言いたげに私を見ている。

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