元旦の遠吠え

文字数 2,477文字

 今、ペル・ウブの"Sentimental Journey"を聴きながら、とりとめなく考えている。パンクは「何者でもない者として叫ぶ」音楽だと思う。その対極にメタルがあり、メタルは「神話的に何者かであろうとする」音楽だと定義されるだろう。ここで思うのは(またもや!)ジャニー喜多川と松本人志のことだ。

 何者でもない者が、何者かであろうとすること、その端的な神話的モデルが芸能界とかお笑いの世界なのだろう。一方で芸人の世界は何者でもない者たちの野蛮なユートピアとしての顔を持っており、一方でそれは何者かであろうとすることによって権力構造に取り込まれる。野蛮にして権威という二重構造。ヤクザのシノギにして国家の補完勢力という二重性が芸能界を規定しており、そこにおいて陰惨な暴力または暴力の陰惨さが遺憾なく発揮されることになる。この陰惨さは戦場で暴走する下級兵士を自己肯定せしめる何かとたぶん一緒のものだ。

 我々もまた、何者でもない者でありながら、何者かであろうとする、どっちつかずの混合物だったりする。その我々が、そのままの我々でいながら、芸能界のアンモラルと権威主義という双頭の鷲を討ち果たすことはできまい。せいぜい内輪でブツブツと道徳的なおしゃべりをするくらいが席の山だ。それが嫌ならパンクを聴こう!ペル・ウブを!レインコーツを!ザ・ジャームズを!フリッパーを!

 ここに、名もなき者のアナーキーな野蛮さか、警官や兵士の権威主義的なガサツさか、という、暴力における二者択一が存在するわけだ。もちろんこの二者は、実際に生起する暴力において、常に混じりあっている。だが、にも関わらず、この二者は本質において決して交わらない。これこそ真に考えるべき「トロッコ問題」だろう。生涯において、殴り合いの喧嘩を一度しかやったことがなく、しかも惨敗した私があえて言う。人間は暴力から逃れられない。その逃げ場のなさにおいて、野蛮さとガサツさのどちらに立つかを常に考えよ。

 補足すると、権威主義的暴力と、そこから得られる快感は二種類に分かれる。一つは権威に従う下っ端の警官や兵士が享受する直接的暴力の快感、もう一つは他人を己の権威に従わせる快感だ。後者は必ずしも己の手を暴力で汚す必要はない。下々の者たちが暴力をふるい、ふるわれるのを高みから見下ろす快感だ。秋元康はこの快感がたまらないからAKBとかやってるのだろう。メンバーとファンの織りなす狂騒は蜜の味だと思われる。一方松本人志はお笑い界に「君臨」してるようで、一匹のチンピラから抜け出ることができずにいるように思う。彼が体現しているのは野蛮のふりをしたガサツさ止まりなのだ。この態度が彼の人気を支えているのだろうが、ここに彼のホンネ主義の限界があり、彼がたけしを超えられない所以がある。たけしが映画監督として優れた才能を示しているのは、彼が暴力構造に対して超越的な視線を持っているからだ。一方松本は映画監督としての才能はゼロだ。まあ彼は下っ端のイデオローグなのだ。その点ジャニー喜多川は怪物で、自ら性暴力の下手人でありながら権力の主でもあった。これがチャイルドマレイスターというものなのだろう。彼は今、地獄で、我が生涯に悔いなしと高笑いをしてるだろう。

 ま、こういう奴らが俺らの敵なのよ。

 災害時に好き勝手言うと、原発の作業員を狩り集めるのもヤクザのシノギなのだろう。我々の国家が、というか我々自身が、これを黙認しており、それによって我が国の「安全」が日々キープされている。ここで、ヤクザに依存し、彼らにピンハネされてる人々に依存している原発事業を批判することは可能だし、すべきでもある。だが、ヤクザの存在自体を完全に否定できるか。これは芸能界の因習的な部分も一緒の話だ。

 で、トロッコ問題なんだが、私はトロッコ問題は考えるに値すると思う。
 ただし、ネトウヨの言うトロッコ問題とはフェイズが異なる。彼らの持ち出すトロッコ問題におけるテーマは「生存」だ。そこでは、どっちに転んでも良心がダメージを負う極限的な物理的状況が設定される。ちなみに正しい答えは「出題者をぶん殴る」ではない。こうした悪意に満ちた誘導尋問にこそ、我々人権派は、とことん愚直に答えるべきなのだ。模範解答はこうだ。「人間は弱いものだ。今、何を考えようと、今、想像の中でいかに自分を鍛えようと、いざその場になったら何の役にも立ちはしない。よって、その状況になったら自分はどう行動するか、なんてことを想像する暇があれば、そうならないように、今から全力を尽くすべきだ」
 一方、今の時点で考える価値のあるトロッコ問題は確かに存在する。テーマは「生存」ではなく「倫理」だ。つまり、どう生き延びるか、ではなく、究極的にはどう死ぬかが問題になる。これはあくまで個人の問題であり、パニック的な状況とは関係がない。よって、常日頃からシミュレーションしておいても無駄にはならない。
 暴力は、我々の生きている微温的な環境から遠ざかるにつれて、剥き出しの姿を晒す。我々の生活を快適にしている制度やテクノロジーは、ガザという地理的な外縁や、技能実習生や原発労働者という社会の只中にある階層的な外縁において、全く別の顔を見せている。芸能界の中にも飛び地的な治外法権区域が存在するが、しかしそこは無法地帯というよりも、権力の庇護下にある、いわば「天領」なのだ。そこにおいて行われる暴力がガサツさと呼ばれるものだ。ガサツさに対して良心は無力だ。せせら笑われるのならまだいい方で、中途半端な良心は時にガサツさを補強し、肥え太らせてしまう。端的に、良心で芸能界は斬れない。ここで要請されるのが野蛮なのだ。真の野蛮さによって、偽物の野蛮たるガサツさを圧倒し、恥じ入らせる以外に勝利の道はない。中間的な妥協点などは存在しないのだ。我々は、いつでもモヒカンになれる覚悟をしておかなければならない。DV野郎どものチマチマしたお笑いを、荒野の笑いで圧倒せねばならない。つまり愛で。
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