第1話 良くない話

文字数 1,834文字

 人生とは、苦労九割楽しい事一割と考えるなら現状は苦労九割に入るのだろうか。
哲学的な悩みに該当するかはわからないが吐き気を催す臭いは嫌でも楽しくない現実を警告していた。
辺りを見渡せば、ずいぶん立派な石造りの牢屋である。
これは間違いなく人生の苦労九割であろう。
だが自分の手を見れば……。
これも苦労九割なのかもしれない。
「なぁ、いい加減無視しないでくれる?」
声の方を向けば薄汚れた姿のにやけた男が汚い床に座り込んだまま話しかけてきた。
「このまま牢屋で朽ちていくかと思ったら別嬪さんと同室とは、すばらしい日々の始まりだ」
月明かりがわずかに降り注ぐ牢屋の中、私は自分の美しさの持つ意味を再確認していた。

 理由はわからないがある時から私は私になっていた。
異世界転生とかゲームのバグとかいろいろな考えを思い浮かべてみたが結局理由はわからない。
誰の案内も無く説明書も無く放り込まれた人生の転換点である。

「別嬪さん。せっかくだから微笑んでくれよ」
馴れ馴れしく話す男とは、体感時間三時間の知り合いである。
「しっかしなんであんたほどの別嬪さんが牢屋に放り込まれたの?」

 私が聞きたいくらいだ。
これが何かのゲームの導入ならクソゲー確定である。

「まぁ捕まったもの同士仲良くしよう」
先ほどから何回も握手して来ようとする男を無視している。
「いくら別嬪さんだからと言って、無視は酷くない?」

 私は、この男が嘘を言っているのが理解できた。
少なくとも敵ではないが軽薄な態度で隠していることが多すぎる。
もう一度冷静に現状を考えよう。
私は何故か牢屋に閉じ込められている。
それも女性なのに軽薄な笑みを浮かべている男性と。
私ではない私の記憶は、私の美しさと強さを私に繰り返し記憶の上書で理解させようとしてくる。

「ねぇ、仲間同士知り合おうと思わないの?」
思わずため息がでる。
「……さっすが別嬪さん。ため息も色っぽい」
男の言葉は、今までと違い無意識にこぼれていた。

 私は、悪臭漂う牢屋の中をずかずかと男に近づく。

「ついに俺に惚れたの?モテる男はつらいね~」

 私は、男の前に立つと胸ぐらをつかみ軽々と右手だけで男を持ち上げた。

「ちょっと苦しい苦しいよ!?

 なるほど。
私の記憶が教えるように、私は人間ではないようだ。

「吸血鬼のお姫様相手にナンパのテクニックで懐柔しろなんて最初から無茶なんだ!?

 男の言葉に、私は納得した。
ずいぶん無謀なことを命令されたものだ。

「知っていることを話しなさい」
私の声は私が知っている声ではなく可憐な女性の声だった。

「知ってるのは、どこかに封印されていたあんたを復活させて禁断の秘術ってのを聞き出せって命令されたことだ!」

 苦しそうに叫ぶ男を、私はゆっくりと優しく地面に降ろす。
こうして男を正面に立たせてみれば、私の身長も低くないと実感する。
男の胸ぐらをつかんでいた手を離すと、男は飛んで逃げるように牢屋の壁際まで距離を取る。

「すぐに応援が来て吸血鬼のお姫様だろうが反撃もできないように拘束するぞ!」

 男の虚勢ではないだろう。
だからクソゲーのようなこの世界での正しい対応法を考えた。
 牢屋をもう一度見渡す。
石造りの不衛生な牢屋には頑丈な作りに見える木の扉と採光と換気用の隙間が天井近くの壁に手のひらを横にして差し込めるかどうかのわずかな隙間を晒していた。
 男の言葉と私の記憶が正しいと仮定すれば、私は吸血鬼のお姫様なのだろう。
この牢屋を脱出する方法は、私の記憶を参考にするなら三つになる。
頑丈な作りに見える木の扉を破壊して正面突破。
石造りの牢屋の壁か床を破壊して最短距離で脱出。
霧のような姿に変化して天井近くの隙間から静かに抜け出す。
 だが、問題は逃げ出した後の情報が無い。
さすがに土地勘も無く地図も無く案内人もいない状態……。
 私の視線は、自然と虚勢を張って私に何か叫んでいる男を視線にとらえていた。

「そんな目で見つめられても怖くないぞ!?

 案内人ならここに居るではないか。
私は、再び男に近づき正面に立つ。

「今なら俺に惚れたということで許してやるぞ!」

 私は、男の目を見つめると男は黙った。

「吸血鬼の秘儀かはわからないけど、一つ教えるわ」

 私の言葉に男は明らかに怯えていた。

「いったい何を……」

 男のおでこに右手の人差し指で素早く文字を書く。
絶対服従の力を込めた文字を。

「一緒に逃げましょう。これからの案内をお願いするわ」

 やっぱり人生とは九割の苦労と楽しい事一割なのかもしれない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み