第13話

文字数 4,921文字

【まえがき】
 ご覧くださりありがとうございます。
 しばらくゴフマン社会学についてのお話が続くのですが,私自身,社会学が初めての方にも,また,もう少し詳しく知りたいという方にもお楽しみいただきたいという思いが強く,

会話文では初めての方でも分かりやすくお読みいただけるような内容を,そして,地の文の合間には,より踏み込んだ内容について解説を加えております。

 全文に目を通していただけましたらもちろんとても嬉しいですし,「ちょっとそこまで詳しい話は……」という方は,ストーリー部分と会話だけでもお楽しみいただけましたら幸いです。

 それではどうぞ,カンナギのセリフから始まる13話をご覧ください。

――――――――――――

「まずはイメージしやすい身近な話題から入ろうか。
 ゴフマン社会学の考え方に基づいて言うなら、人間関係は人々の役割演技によって維持されているといえる。友だち関係だって例外じゃないぞ。友だちらしいコミュニケーションをお互いに演出し合って、それぞれの役割を演じているんだな」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 演出とか、役割を演じてるとか、友だち関係が演技で維持されてるなんて何よそれ……私は別に、ずっと演技なんかして人を騙すようなことはしてないと思うんだけど……」

 カンナギの口から語られたショッキングともいえる内容に、愛はつい反応してしまう。

 少し前、カンナギからの質問に対しては「楽しくないのに楽しいフリ」をすることがあるとは答えたが、それは友だち関係を円滑にするための気配りや一種の社交術のようなものであって、決して自分を偽り続けているとか、ましてや相手を騙そうとする意思なんてない。

 人とのつながりが演技によって維持されているなんて(にわか)には信じがたく、愛には受け入れがたかった。

「あ! 僕も、久野さんの言っていることと同じような感覚を受けたんだよ」

 そう言いながら蓮はノートの付箋部分をすぐさま開くと、事前にまとめてきた内容を読み上げた。

「人はそれぞれ〝親〟〝教師〟〝学生〟〝店員〟といった『役割』を『演じる』ことで他者とのコミュニケーションを行っている――それはゴフマンが、人間の行為を『演技』として捉えたことによって生まれたユニークな指摘だと思うんだけど、僕も『演技』って言われちゃうと、なんか引っかかるというか……。もちろん、僕を含め、人間が『演技』をしていること自体否定しないし、納得できるんだけど、ちょっと抵抗したくなっちゃう感じもあって」

 愛は蓮の言葉に夢見心地のような表情を見せている。蓮が自分と同じように感じていた、という事実に嬉しさを隠しきれていない。
 カンナギはそんな愛の様子を目の端で捉え、「本当に顔に出やすい人だな」と内心微笑ましく思いながら二人が覚えた「違和感」と「抵抗」に答える。

「うん。たしかに、日本語で『演技』っていうと、どうしても〝本当は違う〟といったニュアンスが強いかもしれない。実際、辞書には〝いつわりの態度〟とか〝本心を隠して見せかけの態度をとる〟なんて書かれていたりするくらいだし」

 蓮と愛は同意を示すようにカンナギの言葉にうんうんと頷いた。

「そもそもゴフマンは、人びとの何気ない日常生活を演劇論の観点から分析しようとしたんだ。ゴフマンの研究対象や関心については、後で詳しく説明するとして。
 で、この演劇論を用いた手法を『ドラマトゥルギー』っていうんだけどね。どういうことかというと、日常を舞台に見立てて、そこに生活する人々が周囲に与える印象に気を配りながら、まるで舞台俳優のように演技していると捉えたんだよ」

 言いながら、カンナギはゴフマンが採用した画期的ともいえるアプローチ――ドラマトゥルギーについて脳内整理を行う。

 ドラマトゥルギー自体は、もともと戯曲の創作や構成のついての方法論、および演劇に関する理論や法則などの総称をさしていたのだが、ゴフマンが相互行為の「表現」の部分に注目して人々の相互行為を記述・分析する際に採用したことから、社会学的な手法としての「ドラマトゥルギー」が誕生したのである。

 ドラマトゥルギーの観点に基づくなら、相互行為を行う自己と他者は演技をする「パフォーマー」であり、同時に相手のパフォーマンスを見る「オーディエンス」でもある。一方が演技をしているとき、他方は相手の演技を観る観客であり、この立場は交互に入れ替わってゆく。

 相互行為をする自己と他者はそれぞれ好き勝手に振る舞う訳ではない。意識的あるいは無意識的に、自分達が居合わせた場所、状況に応じたお互いの「役割」に基づいて演技を遂行するのだ――演劇論の手法なのだから、「演技」という言葉が採用されてもおかしくはない。

 しかし、蓮と愛の指摘もわかる。言葉に対して敏感であることは大事だ。文化や価値観、考え方などの違いを踏まえるなら、元の言語と翻訳語の間に意味のズレが生じることは決して不思議ではない。むしろ、翻訳語が必ず元の言語の意味や細かなニュアンスをそっくりそのまま捉えていると考える方が危険なのだ。とくに、そもそもが難解な用語や概念の邦訳ともなれば、その作業は困難を極める。

 ――待てよ? 邦訳の難しさ……そうだ! カンナギはふとある重要な点を思い出した。 

 ゴフマンがドラマトゥルギーの発想を提起した『The presentation of self in everyday life』(1959年)は、1974年に邦訳版が出版されている。そのタイトルは『行為と演技 ―日常生活における自己呈示―』だ。

 〝行為と演技〟とあるけれど、原書タイトルだけを邦訳すれば「日常生活における自己呈示」となる。このあたりの事情については、邦訳を担当した石黒毅氏によるあとがきに記載されていたはずだ。

 一度思い出してしまえばこっちのものだとばかりに、カンナギはさらに自身の記憶を引き上げていく。

 石黒氏は、表出的な意義のみを強調して訳語をあてることはできないとして、ゴフマンが用いた中心的用語である〝performance〟を『演技』ではなく、カタカナ表記で『パフォーマンス』としている。

 演劇論的手法を採用しているからといって、ゴフマンが真に日常生活は舞台とイコールであると主張しているわけではない。それはメタファーである。
 実際、ゴフマン自身も、著作の結論部分で自らの試みがレトリックであり、戦術であったことを告白しているのだ。

 ――さて、どうするかな。
 カンナギはどういう順番で話せばより良く伝わるかを考えつつ、再び説明を試みる。

「ゴフマンの分析手法である『ドラマトゥルギー』が演劇の用語ということも関係しているのか、『演技』という言葉が使われがちだけど、ゴフマンが使っていたもとの言葉は、〝performance〟なんだ。〝パフォーマンス〟を日本語で紹介するときに『演技』とされることが多かったんだな。もちろん、『演技』が間違っているということではないんだけど、久野さんや蓮が言ったように、必ずしも人を欺く目的で遂行されるわけではないから、もし、『演技』という言葉に抵抗があるなら、『演技』より『表現』と捉えた方がしっくりくるかもしれない」

「なるほど、〝表現〟か」
 蓮が感心したようにつぶやいたあと、すぐさまノートに書き留めた。愛は小さく頷いている。
 二人が納得してくれたらしい様子を確認したカンナギは、さらに補足を加える。

「そう。つまり、人とコミュニケーションをとるとき――言い換えるなら、人に何かを伝えようとするとき、僕たちは何かしらの『表現』をしているんだ。相手が自分の意図していることを誤って受け取らないような『表現』の工夫をね」

「表現の工夫?」
 愛が訊ね返した。

「うん。えーと、僕ばっかり話してるのもあれだよな。蓮、さっき読み上げていたノートの感じからすると、〝表現の工夫〟が何を指しているのかについて、おそらく答えの見当はついてるんじゃないか?」

 メモをとるのに必死で手を動かしていた蓮が、カンナギから急に話を振られて驚いたように顔を上げた。
 授業中にいきなり生徒を当てる先生みたいになってしまったなと若干の申し訳なさを覚えたカンナギが「急にすまないな」と言いかけたところで

「ええと、多分……『自己呈示』と『印象操作』かな? ちなみに『印象操作』は『印象管理』とも言うんだよね」

 自信はなさそうだがしっかり正解を弾き出すところはカンナギの期待通りだった。
 
「やっぱりさすがは蓮だ。ありがとな。で、久野さん」

 愛が身体をびくっと震わせる。隣に座っているので表情こそ見えないが、おそらくとても嫌そうな顔をしているに違いないとカンナギは思った。いや、そこまで身構えなくても、とって喰うわけじゃあるまいし、と心の中だけで苦笑いして問いかけた。

「想像してみて。家、学校、そのほか久野さんが日頃活動している場所……それぞれの場で、そこにいる人たちに対して、〝こんなふうに見られたい〟っていう『自分』はある? あったとして、具体的にどんなことを実践してる?」

 あるに決まってる。声には出さず、愛は即答した。 
 家では、「良い娘」でいたいから、下のきょうだいたちの面倒も率先してみている。

 学校では――思い返そうとして、胸のあたりがちくりと痛んだ。

 そう、デビューしようとしたんだ。地味で目立たない私じゃなく、華やかで存在感のある私になりたくて。話し方、振る舞い、持ち物、全部変えた。いわゆる「陰キャ」から「陽キャ」に転向したのだ。「陰キャ」や「ぼっち」では、見下される。一度見下されれば、「友だち」にはなれない。ただの空気として扱われるか、最悪、ストレス発散のはけ口やおもちゃにされることだってある。
 校則では化粧厳禁だが、今いるグループから浮かないように、愛はぎりぎりを狙ってほんのり色づくリップをつけ、まつ毛を上げている。

 ――ぜんぜん、思うように報われてないけど。
 愛のまなざしは無意識のうちに蓮へと向けられる。しかし、向かい合って座っていても蓮との視線は交わらない。思案に耽っているようなのだから仕方がないといえばそうかもしれないが、それでも、愛には目の前の想い人がひどく遠く感じられた。

 いっぽう、カンナギから直接問われなかった蓮も、その問いに対する解――これまでの自己呈示や印象操作の数々――を振り返らずにはいられなかった――

 いつしか、あらゆる場所で期待される「自分」を演じ、演出することが当たり前の日常になっている。どういう表情をすれば、どういう仕草をすれば、目の前の相手が喜ぶか、自分に対し不快な感情を抱かないか、敵意を向けられないかを瞬間的に察知して、その通りに振る舞う。本心はいつだって置き去りだ。

 本当の自分なんてもうどこにもないし、そもそも必要とされていないんだと諦めかけている。皆が望んでいるのは「人気者」もしくは「優秀な跡取り」としての自分で。

 本心を言ってもどうせわかってもらえない。分かろうともしない。そんな諦観が心を覆い尽くしていることを、最近ようやく自覚したところだ。それは、カンナギに出会ったからで――――めまぐるしく流れる蓮の思考を止めたのはカンナギの声だった。

「その表情から察するに、おそらく〝印象づけたい自己像〟もしくは〝伝えたい自己像〟があって、久野さんなりに色々な『演技』および『表現の工夫』をしていると思うんだけど、それがまさしく『自己呈示』と『印象操作』なんだよ」

 カンナギの言葉に、愛は納得したような声で「ああ」とつぶやいた。
 また、カンナギには蓮も自身が行ってきた自己呈示や印象操作について想像したに違いないという確信はあったものの、ここではあえてふれずにおいた。きっとそうした方がいいとの確信もあったからだった。

 咳払いを一つはさんで、カンナギは解説を続ける。

――――――――――
主要参考文献
 E.ゴフマン(著),石黒剛(訳)『行為と演技 ―日常生活における自己呈示―』1974,誠信書房.
 日本社会学会ほか(編)『社会学事典』2004,丸善出版.
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