(三十三)はーばーらいと駅

文字数 3,728文字

 まっ暗な夜市駅を出てしばらくすると、列車は街の灯りがぽつりぽつりと灯る場所に出た。列車は穏やかに進んだ。わたしは車窓に映っては流れ去るほのかな街灯りをぼんやりと眺めた。車掌がわたしのシートを通り過ぎる。その姿が列車の窓に映った。わたしは車掌へとゆっくり声をかけた。
「きみ」
 わたしにはどうしても尋ねたいことがふたつあった。ひとつは線香花火駅から走り出す列車へと飛び乗った時ちらりと目にした車掌の顔。もうひとつは巡洋艦へと積まれた荷物について車掌がつぶやいた『はちがつの、しょうねん』という言葉の意味。
 わたしの声に車掌は足を止めた。わたしに顔を向け、帽子に隠されたその顔の表情が不安そうに怯えているのがわかった。どうしてそんなに怯えるのだ?わたしが恐いのか?わたしはもう質問などどうでもいいと思った。逃げたければ逃げればいい。わたしはそれでも構わないと思った。答えたくなければ何も答える必要などないのだ。わたしは何も言わずただ黙って車掌を見つめた。すると立ち止まったまま車掌もまたわたしを見つめ返した。時が止まったような沈黙だった。
 そして車掌は静かに答えた。
「もうすぐ、わかりますよ」
「え?」
 わたしは言葉に詰まった。そうか、きみはわたしの心がわかるのだね。わたしは微笑んだ。すると少しだけ車掌も笑った気がした。帽子で車掌の顔など見えないはずなのに。不思議な微笑みだった。
「そうか、それなら結構だ」
 わたしはゆっくりと答えた。
「次は、はーばーらいと駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」
 そして車掌は静かに歩き去った。

 ザー、ザー。
 何処からか微かに波の音が聴こえた。波?遠くに一艘の艦の影が見えた。暗い夜の海の中に。海?
 いつのまにか列車は海まで来ていた。しかも列車は海の上を走っていたのだ!そういえばさっき車掌は次ははーばーらいと駅と言ったな。しかしまだ港の灯りは見えなかった。まだ駅までは遠いのか?わたしは暗い夜の海に浮かぶ艦の影を見つめた。
 艦の影は静かに直進し続けた。おや、もしかしてあの艦は?見覚えのある艦だった。おお、あれはあの巡洋艦!間違いない。確かにあの線香花火駅の後に緊急停車した埠頭で見送った巡洋艦だった。夜市駅へと遠回りしながら列車はあの巡洋艦に追いついたのだ。
 しばらくすると巡洋艦の進む先に島が見えてきた。列車は巡洋艦に追いつくと今度は巡洋艦を抜き去り、先に島の埠頭へと到着し停車した。後から来る巡洋艦を待ってわたしは暗い海を眺めた。
 穏やかな波が埠頭へと打ち寄せていたのも束の間、巡洋艦が近付くにつれ島の波は荒れ始めた。突然島のハーバーライトが一斉に灯った。ハーバーライトは夜の海を映し出した。打ち寄せる波また波。巡洋艦がゆっくりと島に近付いて来る。
 島。そうだ、夜の闇でわからなかったが今ハーバーライトに照らし出されたその島はわたしにとって忘れることの出来ない場所だった。そう、ここはテニアン島。しかし車掌ははーばーらいと駅と言ったな。なぜだ?気が付くとわたしの隣に車掌が立っていた。わたしは尋ねた。
「ここが、はーばーらいと駅かね?」
「ええ」
「でもここはテニアンなのだろう?それならこの駅は終着駅」
 けれどわたしの言葉を遮って車掌は言った。
「ここは地球上の、地図上のテニアン。わたしたちが向かっている終着駅テニアンは、辿り着けない、永遠に辿り着けない、永久のかなしみ」
 ボォーーーー。
 巡洋艦の汽笛が鳴った。とうとう巡洋艦が島に到着したのだ。車掌は沈黙しわたしは巡洋艦を眺めた。車掌はすぐに姿を消した。
 巡洋艦が島の埠頭に停泊すると島のハーバーライトは消えた。同時にはーばーらいと駅も消えた。島はまたまっ暗になった。
 すると何処にいたのか無数の男たちが突然埠頭に現れた。男たちは巡洋艦に乗り込むと、巡洋艦から荷物を降ろし始めた。荷物は次々と島に陸揚げされた。荷物を運ぶ男たちの間には張り詰めた空気が漂っていた。異様な緊張感。そう、それはまるであの線香花火駅の後に緊急停車した埠頭で巡洋艦に荷物を運び込んだ時と同じ。共通しているのは巡洋艦?いや違う、荷物の方だ。あの荷物、あれは一体何なのだ?
『はちがつの、しょうねん』
 ああ、またしてもあの言葉を思い出した。あの荷物について車掌がつぶやいた謎の言葉。すべての謎はあの荷物に隠されているのか?
「車掌」
 小さな声で車掌を呼んでみたけれど返事はなかった。陸揚げが済むと作業員たちはさっさと姿を消し、再び島は夜の闇と静寂に包まれた。後には穏やかな波の音だけが残された。
 いや待て。波の音に混じって何かが聴こえる。

「大統領」
 再び島の埠頭に打ち寄せる波が荒れ始めた。荷物を降ろした巡洋艦が動き出したのだ。はーばーらいと駅を失った列車もまた巡洋艦の後を追うように走り出し再び暗黒の夜の海へと出た。しかしこれから何処へ?地図上のテニアンとはいってもテニアンはテニアンではないか?なのにまだ旅は続くのか?一体これから何処へ行くというのだ?再び声が聴こえた。
「大統領」
 突然闇の中に狐のお面と龍のお面が現われた。夜市駅のお面屋で見たお面だ。それと同時にわたしの顔を何かが覆った。何だ、これは?手でそれを剥ぎ取ろうとしたが取れなかった。もしかして虎のお面か?声は叫んだ。
「大統領、それでは共同声明をお願いします」
 共同声明?
 突然眩しいスポットライトがわたしを照らした。なんという眩しさだ。あまりの眩しさに目の前が何も見えない。
「大統領、宣言に署名を」
 正体のわからない声は続けて叫んだ。
 宣言?署名?一体何のことだ?何が、どうなっているのだ?
「目の前の宣言文ですよ」
 声は苛立ったように言った。何、宣言文?スポットライトの光を手で遮りながらわたしは目の前に置かれた宣言文を読んだ。そこにはこう記されていた。
『あの国に無条件降伏を要求する』
「何?」
 わたしはつぶやいた。無条件降伏だと?そしてあの国がもしこれを拒絶したら、どうするのだ?どうするつもりなのだ?まさか。
「どうするというのだーーー!」
 わたしは大声で叫んだ。
「大統領、早く声明を」
 正体のわからない声もまた叫んだがその声は小さくなり終いには消えた。スポットライトも消え、狐のお面と龍のお面そしてわたしの顔を覆っていたお面も消えて無くなった。目の前には再び暗黒の海が広がっていた。

 爆撃音が耳を襲った。列車は激しく揺れて海の上で停車した。遠くに小さな灯りが見える。何の灯りだ?ハーバーライトか?いや、あれは灯台だ。灯台の灯りは暗い海に浮かぶ巡洋艦を映し出した。
「何?」
 わたしは思わず声を上げた。何と、あの巡洋艦が何者かに攻撃を受けていたのだ!爆撃そしてまた爆撃。巨大な巡洋艦は少しずつ傷を広げていった。爆撃は続き、とうとう巡洋艦は炎を上げた。おお、そしてなんと力尽きた巡洋艦は海へと沈み始めた。
 わたしは言葉を失ったまま巡洋艦が沈没してゆくのを見ていた。誰が、誰があの巡洋艦を攻撃したのだ?巡洋艦はゆっくりと海へ海の波間へと消えていった。後には静けさだけが、まるで何もなかったかのようにただ静けさだけが海には残された。
 しかしそれも束の間何かが海の底から浮かび上がって来た。何だ?わたしは息を呑んだ。灯台の灯りがそれを捉えた。それは潜水艦だった。おや、一人の兵士が潜水艦のデッキに姿を現した。兵士はその手に国旗を持っていた。
 そしてわたしはそれを見た。兵士が手にしていた国旗。まさか。わたしは自分の目を疑った。けれど確かにその国旗は、それは、あの国の国旗だった。わたしはなぜか戦慄を覚えた。運命の悪戯か?潜水艦は再び海の中に消えた。

「そろそろ発車の時刻でございます」
 列車はまっ暗な海の上を走り出した。わたしは力が抜けたようにぼんやりと夜の海を見ていた。ただぼんやりと。
 いつのまにか列車は海から何処かの港に上陸し、ハーバーライトの中を走っていた。やがてハーバーライトは途絶え再び夜の闇が訪れた。灯りひとつない大地を列車は黙々と走り続け、列車の汽笛だけが時より寂しく響いた。夜は、世界は、果てしない暗黒だった。それは終わることなく永久に続ていくかのような。わたしはただ黙って窓の外を見ていた。今のわたしにはむしろその暗黒が慰めでさえあった。
 けれど突然闇は終わった。まるで長い長いトンネルを抜け出したかのように。何だろう、この明るさは?わたしは列車の窓から外を眺めた。それは、星の光、銀河の瞬きだった。夏の夜空に満天の銀河が広がっていた。今にも吸い込まれそうな。
 おお、何という、何という美しさだ!
 そのあまりの美しさにわたしは思わず絶句した。気が付くとわたしのそばに車掌が立っていた。車掌もまたわたしと同じように空を見上げていた。わたしは車掌に声をかけた。
「どうしたのかね?」
 すると何と!帽子で隠された車掌の顔から涙がこぼれ落ちていた。え、どうして泣いているのだ?わたしは驚いて車掌の顔を見つめた。なぜ?
 涙まじりの声で車掌はいつものようにアナウンスを告げた。
「次は天の川駅。お降り遅れのないよう、お気を付け願います」
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