第80話 ポイズンガールの告白 ラスト・ラブレター

文字数 8,263文字

 く、くそ。くそくそ……。
 ちくっしょぉおおおおお--------------ッッ!!

 あいつが黒水晶を回収して、あんなにも早く進化していたなんて。
 カイバラストロロ湯山を瞬殺だと!? 早くも白彩店長の後継者候補が、居なくなっちゃったじゃないのッ。
 あたしも、早く進化を遂げないと。まだ自分の中に取り込んだムーンストーンとファイヤークリスタルの真価を、発揮させてない。それは主に自分自身に原因がある。
 地上の女王として戴冠式が終わったんだから、アイツと遊んでなんかないで一刻も早く「本」を回収しないといけなかったんだ……。
 幻想寺を襲撃して、そこに眠るものを手に入れる。
 城の外は粉砂糖が吹雪いている。時間はある。奴らは、そう簡単に新屋敷(あらやしき)の秘密を解き明かせないはずだ。
「早く、早くしないと--------」
 ぐずぐずはしていられない。ありすが新屋敷(阿頼耶識)内をさまよっている内に。真の力を地上で発揮できれば、新屋敷の一つや二つ……。

 寺フォーマーズ一帯は、大糖獣カシラによって徹底的に破壊され尽くされた。
 だが幻想寺自体は……高く積もった瓦礫が、砂の建築物のように崩れつつあり、その砂山の中にポツンと建っていた。それは、元の大きさの幻想寺であった。
 寺門の寝猿像の赤い瞳が、サリーを見据えている。
 真灯蛾サリーはファイヤークリスタルを使って、幻想寺の結界の中へと侵入した。結界の力は、カシラが寺フォーマーズを破壊したお陰で、最弱レベルまで弱まっている。寺院内は無人だった。
 ドドド石やゴゴゴ石の庭園を通り抜け、屋内へ入ったサリーは、ファイヤークリスタルを右手に持ってかざし、本のありかを探し回った。
 ファイヤークリスタルの輝きをセンサーにして、和ダンスの一番下の棚をまさぐる。
「あった……あったぞ!」

「戀文<ラブ・クラフト>」

 幸いなことに、ありす達はここでの「本」の捜索には失敗したらしい。あるいは、ここへ到達できなかったか。もしできたとしても、幻想寺の結界を破ることはできなかったらしい。
「これだ。これで私の本当の力を取り戻せるぞ……フフフ、ハハハ。記憶さえ取り戻せれば------。今に見てろよ古城ありす!」
 女王は長く白い牙をむき出しにして笑い、自費出版の文集をパラパラとめくった。
「これは……」
 数ページも進まないうちに、サリーの視線は固まった。
「わ、私の字?」
 手書きの文集は、サリーの書く字と酷似していた。
 まさか、自分で書いたものなのか? 覚えていない。だが、地上に出て、この本を秘匿していた幻想寺の一味から取り返せば、記憶が甦るはず……サリーはその感覚を、地下時代からずっと持ってきたのである。
 ぱらり。
 文集の冊子から、一枚の写真が落ちた。サリーはそれを細い指で拾い上げた。
「ぬわんだとぉおおおぅ!!」
 サリーは叫んだ。
 古い白黒の写真に写っていた人物は、真灯蛾サリーその人。長い黒髪、正面を向いた釣り目の大きな目。今と寸分たがわぬ顔立ちの年齢の自分と、その隣に立つ、軍服姿の金沢時夫だ。
 写真の中で座っているサリーは、和装だった。マンガ『はいからさんが通る』の主人公・花村紅緒みたいな服だ。
 だが今の自分も、恋文セントラルパークで蜂人に急場で作ってもらった赤い着物ドレスを着ている。それは、無造作に選んだはずだった。しかし、もしそうでなかったとしたら。そしてなぜ、写真の中の時夫は軍服を着ているのか?

 ビュオオオオ……ガタ・ガタガタ。

 幻想寺の窓ガラスが吹雪きで揺れている。
 およそ五分間、真灯蛾サリーは古い写真を眺めて固まっていた。写真の裏を見ると、昭和十九年と記されていた。第二次世界大戦末期の頃だ。
 自分の横に時夫が立っている。自分の、金沢時夫に対する情熱は、一体何だったのか……。自分は今、一体何歳だ? それから思い出したように「戀文<ラブ・クラフト>」に戻ると、サリーはむさぼる様に文集を読み進めた。
「円香……去田円香?」
 ようやくサリーは著者の名に注視した。「去田」。全国に何人もいない珍しい苗字だ。それは、去田円香(さるたまどか)と、戦場へ旅立った許婚・金沢達夫の間で交わされた「秘密の手紙」だった。達夫……つまり、時夫ではない。
 二人は、戦時中、軍の検閲を逃れるため、手紙を入れた茶封筒であるクラフト紙の方に、柄のフリをした暗号文字で手紙を書いたのだ。
 当初は、普通の便箋で文通していたらしいが、途中からこの方法を取るようになった。なぜその必要が生じたのかというと、二人の文通の内容は、到底、常人には理解できない内容になっていったからである。
 それが、禁断の恋文、ラブ・クラフトだ。
 この文集は、それをちゃんと読める形に、円香がしたため直したものらしい。そして、届かなかった膨大な恋文も含まれていた。
 手紙の内容を要約すると、次の通りである。

ラスト・ラブレター

 去田円香の許婚・金沢達夫は戦争末期に、学徒出陣で召集され、南太平洋諸島へと従軍した。従軍前は、お菓子が好きな文学青年だった。
 南太平洋で、米軍との激しい戦闘となり、何週間も飲まず食わずで洞窟に立てこもり、すさまじい消耗戦を戦った。
 敵軍に発見された際、達夫は死体と勘違いされて放っておかれたが、実は死んではいなかった。身動きもとれずに、出血も続いていて、達夫はもし、そのままであれば死ぬ運命だった。
 ところがそこへ、奇跡的に薬草取りの現地人が通りかかった。
 彼はこの激しい戦闘の最中でも、命がけで薬草取りを日課としている台湾人華僑の漢方師だった。
 戦闘前、達夫の部隊とは親交があり、漢方師は個人的に達夫の顔を覚えていた。彼は達夫を援け、自宅へ連れ帰ると、収集した珍しい薬草で治療した。
 九死に一生を得た達夫は、それから戦線に戻ることなく漢方師に師事した。結果的に敵地に囚われた形だが、その時も漢方師がかばってくれた。
 そして漢方師の「この世を生きる意味」の哲学に共感したのだ。
 祖国のために、自ら果てるまで敵を一兵でも多く殲滅する……達夫達、日本兵の戦場におけるその死生観を、真っ向から否定するような意見を漢方師はぶつけてきた。達夫もまた、最後の一兵になろうとも斬り込むつもりだった。
 激しい論争の末、祖国のために世のために「生きろ」と説得された達夫は、恩義に報いる決意をした。
 数ヵ月後、金沢達夫は漢方師の指示で、中国の奥地に居た。
 そして遂に、黄山で幻のきのこを手に入れた。それは光る茸・「冬人夏茸」だった。その珍しい茸を、達夫は日本の許婚の円香へと送った。
 祖国で自分を待っている円香に、少しでも寂しさを紛らわせてもらう為だった。
 去田円香は、千葉県の有栖市恋文町に疎開した。
 少し前、夫が戦場で死んだことを、軍からの連絡で聞かされていたのだが、確たる証拠がある訳でもないらしかった。そこへ突然、茸が送られてきたのだ。
 円香が後に、公園(恋文セントラルパーク)となる林で、この茸を栽培したところ、みるみるうちに増えていった。それが一万年前のショゴスの成れの果てであることを、この時まだ二人は知らなかった。
 戦争末期となると、恋文町にも防空壕が作られることになった。
 ところが、すでにその時点で恋文町には、住人たちによって自主的に多数の防空壕が作られていた。恋文町は大戦で一帯が焼け野原になったが、他に類を見ないほどの防空壕の多さで、死者が全く出なかった。
 そこには綺羅宮神太郎による、予言めいたこの町の伝承があった。人々はそれに従って事前に防空壕を掘り、空襲から難を逃れた。
 しかしそれが、とある「意思」による別の目的が潜んでいたことを、当時の町の人々は知る由もなかった。当の綺羅宮自身すらも……。
 その目的とは、地上と地下を結びつけるための、地下帝国の陰謀に他ならなかった。長く埋まっていた地下への通路を、「彼ら」は防空壕が出来たときに拡張させたのである。
 空襲が激しくなる最中、円香は戦場の達夫への恋文を書き続けていたが、届いているとは思っていなかった。
 あの茸が送られてきたときも、添えられた手紙には最小限のことしか記されておらず、円香はなぜ許婚が中国に居るのかさえも分からなかった。そしてそれっきり、達夫の手紙は途絶えた。結局、達夫は中国で戦死したのだろうと思っていた。
 それでも円香は、達夫が生きている可能性を信じて手紙を書き続け、せっせと林の茸を育てた。それを元に和菓子を作り、自宅を彼の好きなお菓子だらけにして夫の帰りを待った。達夫が戦地へと赴く前、自分にくれたオパールの指輪を見つめながら------。その想いが、やがて自分の知らぬ間に<真灯蛾サリー>を生むことになる……。

 終戦後、漢方師となって帰国した金沢達夫は、円香の沢山の手紙を持って恋文町へ戻ってきた。戦争が終わってから、およそ一年後のことだった。
 漢方師として世界各地で薬草を採取し、修行を続けていた達夫は、円香に連絡が取れなかったことを詫びた。
 そこで去田円香は、届いていないと思った達夫への手紙が届いていたことを知った。その後、二人は無事恋文町で簡単な式を挙げた。
 円香が、光る茸を育てている林を気に入って、他所へ行きたくないと言ったからだった。
 戦時中、金沢達夫は華僑の漢方師から、「科術」についての話を聞いていた。
 それは故郷日本で、綺羅宮神太郎という人物が創始した、意味論に関する学問体系だった。
 科術は一部の漢方師の間で知られており、世界各地で学ばれていた。その創始者が、これまた偶然にも、恋文町にある幻想寺の住職だったのだ。
 だが帰国以来、達夫は円香とこの町に異変を感じていた。
 それは円香の、ある種の「強烈な思い残し」というべきものだった。円香自身は、達夫と無事結ばれた。それなのに戦時中の円香の、「達夫に帰ってきてほしい」という思い残しが、この町の中で勝手に増殖し始めていたのだ。
 原因を探るべく、達夫は幻想寺で綺羅宮の残した文献を紐解き、科術について学ぶと同時に、あの茸の正体にたどり着いた。
 一万年前、南極大陸にて超古代文明を建設した使役生物、ショゴスの成れの果てであるということを。
 戦後、公園として区画整理されている林の中で、円香は「冬人夏茸」ことショゴロースを一人で栽培し続け、時に食した。それに加えて、身に着けていたオパールが力を発揮し、そこに意味論を発生させたのだ。
 戦時中の円香の強烈な想い残しは、ショゴロースを触媒として、彼女のパワーストーンであるオパール、和名・蛋白石に乗り移り、そして人格化した。
 ウィリアム・シェークスピアは語る。この石は「宝石の女王」だと。円香の思い残しは遂に実体のある存在となり、達夫の妻そっくりの女、真灯蛾サリーと名乗った。
 達夫は幻想寺で学んだ生齧りの科術で、サリーと対決したが、円香が弱っていく一方で、サリーの力は強大となる一方だった。
 達夫は敗北した。サリーは円香と成り代わり、自分が達夫の妻になるつもりだったのだ。まさにドッペルゲンガーが、本人とすり替わろうとしているかのように。
 達夫は、戦時中の妻の強烈な思い残しのサリーを、消し去ることができなかった。そのころ達夫は、恋文町の地下に、「国」が存在することを、綺羅宮の文献研究によって知った。
 それは防空壕の拡張によって、地上へと繋がっていた。達夫は遂に、サリーをオパールごと井戸の中へ放り込み、地下へと封印した。
 その際、達夫は地下に居た少女を救い出した。それは、綺羅宮の文献の中に記されていた吉原の愛だった。
 話は幕末にさかのぼる。恋文町に里帰りした吉原の愛は、綺羅宮から科術を学び、修得すると、ひと騒動を起こした。
 その意味論の力を暴走させた愛は、その直後に綺羅宮神太郎によって、井戸から地下深く落とされた。
 その時、綺羅宮はあくまで、一時のつもりで地下へと幽閉したのだが、増大する九頭竜愛の科術をもてあましたまま、いつしか時が過ぎていった。九頭竜愛は地下で、蜂人の力を借りて地下帝国の初代人間女王となり、そのまま永い時を過ごした。
 達夫は愛を救い出すと同時に、サリーを封印し、二度と地上に出てこさせないために、恋文町に科術漢方薬局「半町半街」を開店した。
 そして今、地上へ出て記憶を失った愛は、一人の少女・古城ありすという名を与えられ、金沢達夫の店で働くことになった。
 もっとも、地下で永い間不老となっていた愛は、非人間化しており、人間性を回復するまで漢方薬で眠り続けた。
 その後、達夫と円香は恋文町で幸せな生活を送った。子供が生まれ、その子は成人すると東京へ移り住み、結婚して時夫が生まれた。
 「戀文<ラブ・クラフト>」には、この顛末まで記されている。

「円香の祈りは通じて、夫は戦場から帰ってきた……。美しいハッピーエンドだ。その一方で、私にとってはバッドエンドだ……。その後私は、地下壕を開発し、地下帝国へと到達した。地下で、魔学を完成させたんだ。-----思い出したぞ」
 それは科学と魔術の弁証法的止揚の副産物としての、「魔学」の誕生を意味した。
 綺羅宮神太郎は、日本の近代の夜明けと共に西洋と東洋の学問を統合し、科学と魔術を合わせて科術を作った。
 だが、その副産物ともいうべき魔学の可能性をも開いてしまったのである。金沢達夫と円香は、その誕生を目の当たりにした訳である。
 魔学とは、科術のダークサイドともいうべき力である。ほとんど、妖術といってもよい。愛が暴走した時点では、それはまだ科術だった。しかし、真灯蛾サリーのそれは違った。サリーは完全なダークサイドの意味論の力、魔学の創始者となったのだ。
 サリーは蜂人と共に地下の古城に移り住み、その後も地下帝国を拡張し続けている間に、いつしか自己を忘却した。
 サリーは和四盆(ショゴロースの和名)で力を得て、年を取らなくなった。記憶を更新し続けると、前の記憶が曖昧になる。
 ゲームなど、地上の新しい知識を入れて、何度か記憶をリフレッシュしているうちに現代人ぽくなっていった。その若さを保つために、常に砂糖(和四盆)が必要だった。同時に、時々昔の古い記憶が出てきて、古い話をすることもあった。
 それは、幕末期の愛(ありす)の物語の繰り返しだった。
 地下へ封印されたサリーは、ショゴロースの力で年を取らなかった。記憶を失ったが、金沢達夫への想いをずっと持ち続け、サリーは地下で自分がリザンテラ(地中に咲く花)であるという自覚を持った。
 サリーは金沢達夫によって地下へ幽閉されるにあたって、自己を忘却していたが、魔学の力で部分的に地上へ出てこれるようになった。そして自分のアイデンティティを求め、九ヶ月前からひそかに図書館に出入りした。
 サリーは図書館に「恋文全史」を初めとする秘密の恋文史を捜し求めた。
 それが名も知らなかった「火蜜恋文」や、その原典・「恋文奇譚・火水鏡」だ。しかしその本は、なぜか常に貸出中だったり、所蔵データが消えていたりして、毎回手に入らなかった。
 サリーは、司書が邪魔していると疑った。サリーは地上のことをいろいろな本を読んで勉強しながら、真の恋文史を探し続けた。
 図書館に所属されていた「火蜜恋文」のページが破り取られていたのは、江戸時代の綺羅宮と愛の部分と、戦時中に起こった奇妙な出来事の部分らしい。
 著者の金沢達夫は、この部分にかなりのページを割いて執筆したようだ。そこに、店長がサリーを地下に封じ込めたいきさつが書かれていた。
 そのとき、何があったか? その本には、すべての関係者の秘密が書かれているはずだった。
 それは、ありすさえも読んだことがない禁書。幻想寺の「戀文<ラブ・クラフト>」もまた同様だ。たとえありすが幻想寺を捜索しようとしても、結界に阻まれたに違いない。
 円香と達夫の書いた「戀文<ラブ・クラフト>」が収められた幻想寺は、それ自体結界が張られて、いかにサリーが復活したとしても入り込むことはできないはずだ。そう、今回のような「相当なダメージ」でも受けない限り。
 サリーはずっと忘却の中に居たが、ファイヤークリスタルとムーンストーンを獲得して、さらに「戀文<ラブ・クラフト>」を読んだことで今、完全に記憶を取り戻した。自分の筆跡で書かれたものだから。
 いや正確には、この文集、「戀文<ラブ・クラフト>」を書いたのは、金沢円香だ。自分ではない……。

「どうやら、思い出したようじゃな!」
 サリーがハッと顔を上げると、目の前に幻想寺の住職が立っていた。
「お前は……一体何者だ?」
 すると若い住職はニヤリとして答えた。
「綺羅宮神太郎」
「な、何だと!?」
「干しトマトは?」
 綺羅宮はくちゃくちゃ噛みながら訊いた。
「い、要らない……」
「私も無事、復活することができた。ここは、恋文町のすぐ隣の時空にある、思い残しワールドだからな! 真灯蛾(まとうが)サリーよ、お前の名は、去田円香(さるたまどか)をひっくり返した名前だよ。つまりお前は、去田円香のパワーストーンである、オパールだったという訳だよ!」
 綺羅宮は遠くを見るような眼で言った。
「……」
 パワーストーンの実体化。要するにこういうことだ、と綺羅宮のオーバーシャドウである若い僧侶は、部屋に設置されたホワイトボードに、次のように書いた。

 去田円香のオパール → 真灯蛾サリー
 綺羅宮神太郎のファイヤークリスタル → キラーミン・カンディーノ
 伊都川みさえのムーンストーン → 白井雪絵(元は、金沢店長の石)
 古城ありすの黒水晶(ブラック・オニキス) → 黒水晶

「分かったかな? さぁ、私のパワーストーンである、ファイヤークリスタルを今すぐ返したまえ!」
 僧侶綺羅宮はサリーに向かって、右手を差し出した。
「フン……いやよ。ムーンストーンも手放さない。黒水晶も、私の手中に取り戻してやる! 全て、私のものだからよ!」
 認めるものか。自分が何者かのシャドーでしかない存在だ、などと。
 サリーは幻想寺で記憶を取り戻して、本来のパワーを獲得するどころか、必死にクライシス・オブ・アイデンティティと格闘していた。
 その結論として、サリーの答えは……やっぱり「認めるもんか!」であった。
「教えてしんぜよう。ファイヤークリスタルは火、ムーンストーンは水の意味論を宿す。意味論とは頓知じゃ。仏法で、『名詮自性(みょうせんじしょう)』という。名はそのものの本性をあらわす、という意じゃよ。火と水は両者は鏡のような存在だ。お前にその両方を、統御する力はない。それが、私が書いた『恋文奇譚・火水鏡』の真意なのじゃ」
 それは恋文図書館の書庫に所蔵され、今は古城ありすの手元にあった。
 窓から見える恋文町の空が、オレンジ色のオーロラに輝いていく。夕焼けとは違って、オレンジの帯がうねっていた。
「見ろ、窓の外を。夜明け前がもっとも暗いというであろうが? しかし暗かったのはこれまでのことよ。遂に恋文町の夜明けが始まったのじゃ。よいか、これはお前の魔学の影響ではない! もう遅いぞ……ダークネス・ウィンドウズ・天のアップグレードは、まさに始まったんじゃからな!」
 サリーはその瞬間、かつての黒水晶が言った言葉を思い出していた。
 彼女は「アップグレード」がどうしたのこうしたのと言っていた。町の時空全体が壊れ始めている。これがアップグレードのシークエンスだというのか。
「キャンセルしてやる!!」
「而今(にこん)! 今回はできんよ。綺羅宮軍団のエンジニアが勢ぞろいして、アップグレードに当たっているのだから」
「な、何ですって……あんたホントは意識高い系IT社長じゃないの?」
「喝(かつ)! 三百八十度違うわぃ!」
「一周回って、二十度しか違わないじゃん」
「現実から目をそらしてはならんぞ真灯蛾サリー!」
 綺羅宮神太郎はずいっと、畳を一歩進んで、サリーに迫った。
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