文字数 1,998文字

 鼠が溺死した水桶に香り高いカーネーションの花びらを沈め、それから何年も放置したような……甘い腐敗臭がする。私は彼女に鼻面を埋め、毎秒6回嗅ぎ取る。病みつきになる、動揺する。
 彼女は大きな声で鳴いた。かつてないほど強烈な跳躍で、お嬢様の胸に飛び込む。ひと月も着ていない制服が毛だらけと、お嬢様は笑った。彼女をひと撫でして、床に彼女を残す。
 部活の先輩が誕生日会を開いてくれるの。帰りは遅くなるから。私は玄関でお嬢様の鞄に噛みつく。連れ戻そうと、何度も引っ張った。老いた身では足りなかった。お嬢様は私を振り切り、行ってしまった。
 日暮れ過ぎ、お嬢様が帰宅した。
 私は出迎えなかった。
 彼女の骸の傍に、ただずっと座っていた。

 ※

 お嬢様がよく言っていた。
 あたし達は運命の兄妹。同じ年、同じ日に生まれた三つ子。毎年祝う誕生日会は、軽やかな笑い声と、ジューシーな匂いに溢れていた。じゃれ合う私と彼女を前に、お嬢様は幸せそうだった。16年目も、そうなると信じていた。
 彼女の匂いが薄れていく。それは月光射す夜のしじまのようだった。時にぴりりと痛く、時にフルーティに魅了した。いつだって愛を放っていた。そんな彼女の匂いを、新緑の風が連れ去っていく。華やぐように香ることは二度とない。
 唯一の遊び相手を失った。独りでは寒く、くわえた玩具は奪われない。歩き、食べ、寝る。心臓を動かす為だけに生きているようだ。歓びと呼べる時間はかき消えた。視界は霞んでいった。
 食欲は失せ、外出もしんどくなった。
「あたしのせい」
 お嬢様が私を抱き締める。
「新しい高校に夢中になって、新しい友達にはしゃいで。もっと早く帰っていれば、助かったかもしれないのに。貴方の警告に気づきさえすれば」
 後悔の香りが立つ。
「人間に換算すれば、もう80歳。平均寿命も過ぎて、いつそうなってもおかしくなかった。大事にしなければならない過去があったのに、未来に希望しかないと勘違いして……」
 耳一つ折らない私に、お嬢様は涙を溜める。
「貴方まで逝かないで」
 私は答えなかった。
 お嬢様は部活を辞めた。
 徐々に学校にも行かなくなった。

 ※

 毛布の上に丸くなる。わずかに残る彼女の匂いを嗅ぐ。お嬢様がタグを振る。以前は引っ張ることに生き甲斐を感じたが、いまは。退屈が眠りを加速させる。
 私にはもう何もない。
 16歳の老いた私に、希望はない。
 お嬢様は私から離れなくなった。頻繁にブラッシングし、控えめに散歩に誘った。歩みの遅い私に気遣い、ゆっくり進んだ。食事も種類を変えたり、温めて香りを引き立てたりしてくれた。
 お嬢様の独占は、喜ばしいことだった。
 同時に哀しみが増した。
 人間の16歳は、私達の1歳過ぎだという。通り雨の匂い、健康な同胞の香り、空気中に漂う可能性を求め、遠くまで駆けていく。何もかもが新鮮で、どんな未来も選び放題。そんな青春をお嬢様は私に捧げている。つまずくだけで怯え、食が細いと不安がる。明るい画面を見ては唐突に泣き出し、弱弱しく体を縮める。
 こんなお嬢様を、彼女が見たがったはずがない。
 私は、死ぬべきだと思う。
 お嬢様はまだ若い。どんな別離の痛みも、時間が解決する。私といても退屈そうで、ふと窓の外を眺める。次の扉を開けたくてうずうずしている。本当は飛び出したいのに、私が枷になっている。
 おしっこが我慢できない。現実と幻覚の区別がつかない。聴覚も衰えてきた。呼ばれた名前に反応できない。
 お嬢様が泣きじゃくる。
 いいんだよ。
 忘れていいから。
 50年以上ある余生を楽しんで。
 私は彼女と一緒に、虹のたもとで待っているから。

 ※

 土と青葉の香りがする。陽気な雨上がり。のびのびとした風が、同胞たちの匂いを運んでくる。呼び合う声が笑っている。陽光は温かく、虹から降り注ぐのは、幸福のきらきらだ。
 懐かしい匂いが鼻をかする。風に鼻を入れて深く吸い込む。匂いの濃淡を分析し、その源泉を探る。走り出す。
 彼女を見つける。
 鼻を押しつけ、匂いを嗅ぐ。
 私の兄妹。
 その思いを知る。

〝いまを生きて〟

 目を覚ます。
 お嬢様がすぐ隣で、丸まって眠っていた。

 ※

 土煙の匂いがやってきた。ケージの中のその子は、毛を逆立て、私を警戒した。怖がっていた。私は待った。無害な友達と、その子が私を受け入れるまで。
 私は少しずつ食べるようになった。その子が食べ出さなかったから。私は遊ぶようになった。その子が遊びたがっていたから。未来が短くとも、過去の哀しみが癒えなくとも、いまを生きると決めたから。
 彼女と眠った毛布だけは、離さなかった。
「裏切りじゃ、ないんだよね」
 お嬢様が私を撫でる。
 私はお嬢様を舐め、成長しつつある心を嗅いだ。
 私とその子は、玄関でお嬢様を見送る。齢を一つ重ね、16歳を乗り越えたお嬢様は、次の扉を丁寧に開け放った。
「いってきます」
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