第10話 鎮静剤

文字数 10,757文字

 夏休みの1週間、実家に戻っていた。そう、実家と呼ぼう。あのあと僕はすぐに部屋を借りた。古いアパートだ。母が昔住んでいた……年内で取り壊しになると聞きすぐに決めてしまった。母が20年以上前にひとりで暮らしていたアパートの同じ部屋。風呂もない。
 幼なじみの夏生ともしばらく会っていなかった。この1年で僕たちふたりは磁石が反発するように離れてしまった。

 5月の連休には夏生の従姉妹の早夕里が来た。そのときは夏生の家で会った。早夕里は夏生と同じ年で、長い休みには遊びに来ていたので幼い頃から知っていた。夏生と成績を競っていた。音楽とスポーツでは敵わなかったが……3人で話すのは楽しかった。ふたりとも年下の女の子なのに知識はすごかった。早夕里は親が医者だから当然医者を目指していた。
 年頃になると容貌を気にした。背は小さくメガネをかけていた。きれいとか、かわいい部類ではないだろう。夏生とは似ていなかった。従姉妹なのに。背丈、手足の長さ、目鼻立ち。それでも夏生と取り替えたいとは思わないだろう。聞きたいのを堪えた。NOと言われたら辛い。
「容貌なんて化粧でどうにでもなる。中身を磨け」
僕は無責任に励ました。
 本をたくさん読んでいて歴史に詳しかった。語り合う早夕里は生き生きしていて、彼女の訪れは楽しみだったのだ。
 それが、なにがあったのか、いや目覚めたのだろう、恋でもして。長年見守ってきた利発な少女は変身していた。
「エイコウ、会いたかったぁ」
話し方まで媚びていた。メガネはやめ化粧していた。夏生のようなナチュラルメイクではない。下手な化粧。それに流行りだとかウィッグを被っていた。
「そんなのが流行っているのか?」
夏生もそうだと言い非難しなかった。バカなダイエットもしているようであまり食べなかった。
「がっかりだな。早夕里も低俗な女になりさがったか」
「エーちゃん、早夕里は留学するのよ。しばらく会えなくなるわよ」
 そのとき僕は他人のことを思いやる余裕などなかった。この少女……もう19歳か。幼い頃から僕を慕っていた。夏生を羨ましがり、毎年長い休みにはひとりで郷里から出てきていた。
 その夜、早夕里は僕のアパートにやってきた。さよならを言いに。
「しばらく会えなくなるから」
「夏には帰るだろ?」
「君に勧む 惜しむ莫れ 金縷の衣を
 君に勧む 惜しみ取れ 少年の時を
 花開き折るに堪へなば
 直ちに 須く 折るべし
 花無きを待ちて空しく 
 枝を折ること莫れ」
家のリビングに額が掛かっていた。父が入学式の挨拶に引用していた。
「エーちゃん、お願いがあるの」
「なに?」
折って欲しい、と早夕里は言った。
「よしてくれ」
僕の目にまったくその気がないのを悟ると早夕里は泣き出した。
「ひどいわ。勇気を出してきたのに」
「ありがたいけどね。医者志望の君だから言うけど、ED なんだよ」
「上手な断り方ね。ゲイとか」
早夕里は机に突っ伏し泣いていた。ひどく疲れているようだった。
「明日は帰るんだろ? 送るよ」
車に乗せると早夕里はずっと泣いていた。
「夏生と結婚するのね」
それは子供の頃からの約束だった。
「ああ。売れ残ったらね」
「じゃあ、女の子が生まれたら早夕里って付けて」
「ああ」
軽く聞き流した。
 夏生の家の前で降ろす。
「キスもしてくれないの?」
「君がいい女になったらね」
「哀れなのは忘れられた女です」
「なに?」
「忘れないでね。私のこと」
「ああ」

 両親と彩はハワイだ。久しぶりの家族サービス。橘一家も郷里に帰っていた。早夕里は留学先から帰っていないそうだが。父は僕が突然家を出た理由に気付いているだろうか? 母が暮らしていたアパートに住むことをどう思っているのか? 亜紀はうまく話しておくと言ったが。鈍感だから、パパは、と。無関心だ。それでいい。気づかれたら最悪だ。ようやく戻ってきていた父と息子の関係なのに……
 家の中はきれいになっていた。まさか、父が掃除しているとか?
 ポストを見に行った。1枚のはがきが目に止まった。動物病院のダイレクトメール。父と亜紀に宛てたハガキ。差出人は因縁のある篠田葉月。父に恋していた女だ。獣医の助手のバイト? もうたくさんだ。父と関わり合いのある女はもうごめんだ。
 しかしいろいろ思い出す。
 
 僕は葉月のバイトしている動物病院の前で待った。時間を少し過ぎると葉月は出てきた。車から降りて彼女の前に立つ。意外ではなかったようだ。彼女からは喋らない。メガネのことも口髭のことも、聞きも笑いもしない。
「少し話があるんだ」
葉月は車に乗るのを拒んだ。
「動物の、匂いが染みついてるから……」
「平気だよ。慣れてるから」
助手席に強引に座らせた。
「単刀直入に聞くけど父とどういう関係?」
2度聞くと葉月は答えた。
「父親だと思っていたの。本当の父親だと。私を探してくれてたと思った。だから付き合ったの。言われるままに、信じてたのよ。父親だって。抱かれるまで」
 話したのは何度目か? まともに話したのは初めてではないか? それがこの内容。バカバカしすぎて話にならない。虚言癖か? 妄想癖か? 瑤子と同じように父に相手にされずに、想像して思い込んでいるのか?
「そう、嘘よ。三沢さんは素晴らしい人よ。私を助けてくれたの。
 売春してたの。私。卑劣な男よ。バイト先に来て、娘に選んでほしいってマフラー選ばせて私にプレゼントしてくれた。父だと思ってたの。私の本当の父親が探してくれたんだって。いろいろプレゼントしてくれて、小遣いもくれ、勉強できる部屋も借りてくれた。名のれないけど父だと信じていた。脅迫されてたの。私。父親だと思っていた男に」
ますます声が出ない。ドラマのセリフか?
「ひどい男に騙されて学校にバラすって脅されてどうしようもなくなってたとき、三沢さんが助けてくれたの」
葉月の告白、それならありえそうだ。父は葉月が立ち直るのをずっと支え見守っていた?
「軽蔑するでしょ?」
僕は答えられなかった。葉月はさよならも言わず去っていった。かすかに動物の匂いが残った。

 父の書斎でアルバムを見た。葉月は彩と、ここでかくれんぼをしていた。彼女が来たのは僕が知る限りでは2回だ。亜紀に取り入り獣医になりたいからと相談にきていた。僕は1度だけ書斎で怒った。彩にだが。パパのものをさわってはだめだよ、と。葉月はなにも言わなかった。僕の知る限り父には会っていないはずだった。
 葉月そっくりの女が高校時代の父のクラスにいた。集合写真でも抜きん出て光って見える美少女。それにおそらく写真部が撮った写真。結婚しても再婚しても処分しなかった。母は見たのか? 亜紀は? 大事にしていたのか? それとも無頓着なだけなのか?
 美登利も写真部に撮らせていた。おそらく美登利の写真は圭が大事に持っているのだろう。マリーは断った。葉月は? 男子は葉月の写真を欲しがっていた。スコート姿の彼女……

 父は会ったはずだ。葉月の入学式に。倒れた彼女を保健室まで抱いて運んだ。そのときに母親の操に会ったはずだ。かつての同級生。
 その娘の葉月が売春? 自分を探していた父親だと思った男に騙されて? 父が助けた? 助けられるだろう。父なら。騙した男は破滅だ。いや、嘘だ。虚言だ。妄想だ。
 いや、どうでもいい。

 インターフォンが鳴った。葉月だった。この家を訪れたのは3度目か?
「まだ話すことがあるの」
勝手知ったる他人の家、葉月は勝手にリビングに入ると窓際のロッキングチェアに座った。
「私が小学校1年の時、あなたは2年ね。
 三沢さん、あなたのおとうさんが私の家に来たの。父はまだ帰ってなかった。私は寝てたけど大きな声で目を覚ました」
 僕は彼女の横顔が見える位置に座っていた。僕たち父子のいやな時代のことだ。
「三沢さんは母に迫ってた。父と離婚しろって」
「バカな」
「離婚してそばにいてくれって。私が起きていくと私にも言った。おじちゃんの子になるんだって。君の名前はおじちゃんが付けたって」
ハヅキはダメだ……酔って葉月のことを言ったのか? 父が名付けた?
「俺の気持ちを知ってたくせに、篠田なんかとって……母がキッパリ断ると私を無理やり連れて行こうとした。なんでも買ってやる。家にはおにいちゃんがいるよ。かわいそうな子なんだ……」
妄想癖ではない。真実だ。それ以上はやめてくれ。話さないでくれ!
「母が止めると、帰りたくない、帰ったらまた殴ってしまう。かわいそうな息子を……」
「もういいっ!」
「ずっと夢だと思ってた。H高の入学式、三沢さんの声を聞くまで夢だと思ってた。思い出したの。耳があの人の声を覚えてた。保健室で目が覚めると、母は先生が運んでくれたと嘘を吐いた。三沢さんは私の母を愛してたの」
父の結婚は遅かった。初恋も恋愛もあっただろう。見合いも何度もさせられた。
 父の過去に興味はない。僕の過去にも目の前の葉月にも。
 僕は息子として父のしたことを謝った。ロッキングチェアに座っている葉月の前で土下座した。僕たち父子は亜紀に何度も土下座した。謝るのはタダだ。
 葉月はすぐに立ち上がり僕の手を取り起こした。
 そして抱きついてきた。
 なにも話したくなかった。体を密着させ確かめる。売春していた女だ。抱きしめて反応をみた。
 葉月は目を閉じた。動物の匂いはしなかった。シャンプーの匂い。懐かしい匂い……
「だめだ」
「……」
「たたないんだ……君じゃ」
露骨に言ったのに反応がなかった。
「もう帰れよ。用事があるんだ」
葉月はアパートに行ってもいいかと聞いた。
「君が来るようなところじゃない。ボロアパートだよ。ゴキブリがウジャウジャいる」
そのときの葉月の表情。
「来るなら覚悟してこいよ」
アパートの住所をメモして渡した。

 想像した。
 あらゆる性的体位や奇怪な前戯。
 しかしそんなことがいかに無意味なつまらないことであるか……(午後の曳航から)

  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 
 早夕里が危篤。5月の連休に会ってから半年しか経っていないのに。わけがわからず車を走らせた。早夕里の郷里にある病院。留学していたはずじゃないのか? 僕は最後に会った早夕里のことを必死に思い出した。
 厚い化粧、あれは顔色を隠すためか? ウィッグだって? そんなものが流行っているなんて聞いたこともない。夏生は合わせたのだ。僕に気づかれないように。ダイエット? 病気で痩せ細りながら会いに来た。僕に。
 なんという対応をしたのだ。自分のことで頭の中がいっぱいで、考えればわかることを見逃した。

 病院に着くと夏生が通用口で待っていた。遅かった、と。
 遅かった?
 個室に早夕里は寝かされていた。逝ったばかりのようだ。家族と夏生のママが泣いていた。僕は倒れそうになった。貧血を起こしたようだ。夏生が支えた。われにかえり夏生を罵倒し頬を打った。
「なぜ教えなかった? 口裏合わせまでして。知ってたら、早夕里のそばをを離れなかった」
「早夕里が絶対言わないでって言ったのよ。弱っていくのを見られたくないって」
「バカやろう。こんなことってあるかよ? オレはおまえを許さない」
おばさんが大声出さないでと怒り、夏生は部屋から出て行った。
 慌ただしく葬儀の準備が行われた。親戚が集まり1日葬だ。早夕里の体はすぐに引き取られる。早夕里は献体していた。僕は続く怒りと悲しみで打ちひしがれていた。
「エーちゃん、早夕里にお別れして」
夏生が呼びに来た。
「怒るのはあとにして。早夕里は最後までエーちゃんの写真抱きしめて……」
あとは声にならない。
「夏生、ごめん。痛かったろう」
謝ると夏生は吐き出した。
「なんで家を出たのよ? なんで、そばにいて欲しいときにいてくれないの? どんなに相談したかったか、どんなに打ち明けようかと。約束なんか破ればよかった」
夏生は僕を蹴飛ばした。
「なにしてたのよ? 何回電話したと思う?」

 母が死んだときもこんなだった。最期には間に合わず、田舎で少ない親戚が集まった。僕は春樹の存在を知りうろたえた。父は親戚に、少しの間、母とふたりだけにしてくれと頼んだ。
 僕は襖から覗いていた。父はかつての妻にキスをし、しばらく隣に寝ていた。あれほど愛されながら、こんな田舎で非難されながら、あいつの忘れ形見を育てていた。父は春樹を引き取るのではないか? そう思ったほどの光景だった。

 僕は父がしたように早夕里にお別れをした。ふたりだけにしてくれるよう頼むと、早夕里の兄は聞いてくれた。妹に僕のことを聞かされていたのだろう。
 布団に寝かされた早夕里に僕はキスをした。
「あのときしてあげればよかった」
そして少しの間、早夕里の隣に寝た。
 夏生のすすり泣きが聞こえた。
「早夕里は僕の部屋に来たんだ。気づいてやれなかった。バカだ。僕はどうしようもないバカだ」
  早夕里の部屋に通された。写真立ての僕の写真。僕があげた本、僕があげたCD。感情をなくす訓練は役に立たなかった。今までなくしていた感情が全て溢れ出た。化粧ポーチがあった。下手な化粧だった。教えてやればよかった。教えてやれば気が付いていた。バカだ。バカだ。なんてバカなんだ……心配して入ってきた夏生に支えられ、早夕里に化粧をした。ごめん、早夕里。気が付いてやれずに……戻してくれ。やり直させてくれ!
 若すぎる死に皆すすり泣いていた。慌ただしく終えると早夕里は引き取られて行った。
 泣くだけ泣いて、おばさんは残り、僕の車は夏生が運転してふたりで帰った。
 目を閉じている僕に夏生はなにも話しかけなかった。
 僕は母を奪っていった男のことを考えた。余命宣告された男は夏生の母親に手紙をよこした。母娘は見舞いに行き、結局僕の母の耳にも入ってしまった。そうなることを望んだのだろうか? なぜ人妻である女を迷わせるようなことをしたのか? 弱い男。それに比べて早夕里の強さ、潔さ、冷たさ……ひどいよ。僕は一生自分を許せない。

「どうする? このまま帰る?」
家に着くと夏生はさっさと降りて荷物を下ろした。
「寝てないんでしょ? 自分の部屋で寝ていけば?」
「こんな状態では帰れない」
「じゃあ休んでいきなよ。運転は無理」
言葉がかつての夏生に戻っていた。
 夏生のベッドで眠る。夏生は帰った早々洗濯をする。頭が冴えて眠れない。
「シャワー浴びて帰るよ」
「じゃあ、着替え取りに行ってやるよ」
あんな言葉が当たり前だったのに、今の夏生には似合わなくなっていた。シャワーを浴び葉月のことを思い出し、禁欲を誓った。脱衣室には下着と服が置いてあった。
 キッチンで夏生はコーヒーを入れていた。濃かった。
「君を殴ったのは2度目だ、いや、3度目だ」
「……いいんだ。殴られることしたから」
「早夕里のことは……」
「早夕里のことじゃない」
夏生は話し出した。
「どうしてドリーと別れた? 結婚するつもりだったでしょ?」
「違うよ……」
「ボクのせいだ。ボクがドリーに頼んだんだ。エーちゃんと別れてくれって。エーちゃんの家に泊まったって彩に聞いて、いてもたってもいられなくなった。ドリーはエーちゃんの好きなタイプじゃない。遊ばれてるだけ。財産目当て? ってひどいことも言った。エーちゃんを取られたくなかった。なんとかしなきゃって。恥も外聞も捨ててドリーに頼んですがったの。
 この頬の傷はエーちゃんのせいだって。エーちゃんは私と結婚する。エーちゃんは一生かけて償うって言った。責任があるの。だからエーちゃんを取らないでって……」
夏生は一気に話した。
 美登利の、あの突然の別れは、あのリストカットは演技だったのか? 夏生に頼まれて別れた? 
「ドリーとはなにもなかったよ。家に泊まったけど、仕事で疲れて眠ってただけ。それより、君こそ和樹と?……君らしいよ。初恋の男と結ばれて生涯ひとりの男に添い遂げる。君はそういう女だ」
「なに言ってるの?」
「え?」
「なに言ってるの? 和樹とはそれこそなんにもないわよ」
「君はよく泣いてた。それに、産婦人科に入っていくの見たんだ。和樹を問い詰めたら、妊娠してたら大学なんか行かないで働くって……昼も夜も働いて君を養うと」
「産婦人科ァ? 妊娠? 誰が?」
「君は? 和樹と? やって……ないの?」
「あたりまえ!」
やられた。騙された。和樹に。
「エーちゃん、私は捨て子だったの。私は養女なの。おばあちゃんがボケて、私のことも忘れて、景子の娘だって言うと、景子には子供はいないよ。かわいそうに何度も流産してできなくなったんだよ。そういえば、病院に捨てられた子供をもらったことがあったね……最初は病気の妄想かと思った」
「そんな、それで君はよく泣いてたのか? 僕は和樹が泣かせたのだと思い問い詰めたよ」
「和樹に理由を聞かれた。エーちゃんに聞かれて悪者になってやったぞって。だから、和樹に話したの。戸籍藤本取ったわ。ママは大学入るとき話すつもりだった。病院の前に捨てられてたって。捨て子だったのよ。私は」
「なんで和樹に話した? 僕に言えばいいじゃないか」
「エーちゃんには知られたくなかった。絶対。嫌われるわ。捨て子だなんて知られたら」
「バカ」
泣いている夏生を僕は抱きしめた。
「夏生が捨てられててよかったよ。だから僕たちは会えたんだから。君に会えなきゃ僕は死んでた」
自然に僕たちはキスした。よかった。疲れは極限だったが頭は冴えていた。疲れは極限だが抱きしめ密着した体は欲情していた。亜紀が来なかったらどうなっていたかわからない。
 ドアが勢いよく開いた。亜紀は珍しく感情を表に出していた。
「英幸、話があるから」
名前で呼ばれたことは何度もない。余程怒っているときだけだ。僕は否応なく家に連れて行かれた。入るなり頬を打たれた。
「いやらしい。早夕里が死んだばかりなのよ。どうしてそんなに節操がないの?」
「……」
「おかあさんが亡くなってから、女は嫌いだと言いながら、幸子さんに美登利に、瑤子。今は篠田葉月。ファンレターの子もいたわね」 
どうして知っているのか? 聞く前に亜紀は怒りをぶちまけた。
「行ったのよ。部屋まで。様子を見に。早夕里のことを伝えようと。留守だから車で待ってた。あなたは葉月さんの肩抱きながら部屋に入っていった。あの部屋は女を連れ込むために借りたわけ? 次から次に、夏生まで……」
「マリーは治を愛してた。美登利とは信じないだろうけど寝てない。美登利には僕はただのいい人だ。高校卒業させた恩人。由佳には圭介さんがいた。
 瑤子が愛してたのはパパだ。ショックで家にいられなくてアパート借りた。葉月は葉月は……」
「……」
「誰も僕を愛さない。夏生だけだ」
「夏生は三沢家の嫁にはできない」
「あなたがそんなこと言うなんて。知ってたの? 夏生が養女だって?」
「似てないとは思ってた」
「僕は夏生と結婚する。家も会社も彩が継げばいい……」
「葉月はどうするの?」
「……葉月も……愛してる」
「なるほどね。そういうこともあるわ」
「葉月はパパが愛した人の娘だ。ママに出ていかれてから、パパは葉月の家に行った。酔っ払って」
「犬が死んだ晩ね」
「なんでも知ってるのか?」
「葉月があなたを好きなのはわかってた。葉月は瑤子とは逆よ。パパに会ってパパの中のあなたを見てた」
「……」
「パパは壊したの。操さんの信頼を。高校入る前からずっと思い続けてた人よ。操さんはパパではなく篠田さんを愛した」
また、立ちくらみがした。亜紀は情けない僕を支えソファーに座らせた。バナナの皮を剥き僕の口に突っ込んだ。また涙が溢れ出た。
「食べなさい。早夕里はあなたが幸せに暮らしてくれることを願ってるわ」
「……哀れなのは忘れられた女です」
「なに?」
「死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です。忘れないでね、って。早夕里が最後に言った。気がつかなかった。バカだ。ほんとにバカだ……」
 頭を整理しなければ。
 携帯を見た。3日しか経っていなかった。葉月からは着信もなかった。拍子抜けした。この3日で、葉月にプロポーズし、早夕里の死に泣き狂い、夏生の告白を聞いた。そして亜紀の思ってもみなかった話。
 整理しなければ……

 葉月からはなんの連絡もなかった。なにかあったのでは? 電話をしてもメールをしても返事がない。
 僕は家に行った。手前で降りて探した。篠田、立派な家だった。庭で洗濯物を取り込んでいる女性がいた。離れていてもわかった。葉月の母親だ。

 僕は手を取られ引っ張られた。
「なにをしているの?」
「君が電話にも出ないから」
葉月は僕を車に押し込むとうしろに座り、早く出して、と言った。3日合わない間に雰囲気が変わっていた。僕のほうがひどいだろうが。
 葉月は忙しいからと公園で話した。早夕里が死んだことを話すと、愛してたの? と聞いた。
「ああ。愛してた。とても」
「私、勉強しなきゃ。もう本気でやらないと留年しちゃう。もう会えないわ」
 よかった……
なんてこれっぽっちも思わなかった。
「なに言ってんだよ? あんなに、愛し合ったのに」
「愛し尽くしたのよ。もう潮時なの」
「まだ2か月も経ってないよ」
葉月は時計を見て
「今日は母の誕生日だから。明日、行くわ。明日」

 夏生を愛している。夏生と結婚する。自分の運命だ。償いだけではない。夏生がこんなに愛しい。すぐにも会いにいきたい。
 同時に葉月を愛していた。偽りではない。
 なるほどね……ママもそうだったと?
 
 あの、なにを言い出しなにをやるかわからない女は、明日なにを言い出すのだろう? 
 僕を限りなく優しく、救い出してくれた女は、どんな結末を用意してくるのだろう?

 翌日、葉月は来た。挑戦的な目でも、慈愛に満ちた目でもなく穏やかな目をしていた。葉月は部屋に入ると1冊のノートを僕に渡した。パラパラめくる。幸子、ママのこと?
「あとで読んで。
 あなたのおかあさんと別れ、おとうさん、三沢さんて呼ぶわね。三沢さんは家に来たわ。父はいなかった。母に初めて思いを打ち明け、母に拒否されると言ったのよ。売春してたくせにって」

 売春? 葉月が言ったのは母親のことだった? 本当の父親だと思っていた男に騙されたと……
「三沢さんは酔って言ったのよ。母に。売春してたくせに。誰が助けてやったと思ってるんだ……私は聞いてた。しっかり覚えてたの」
葉月の話には続きがあった?
「あなたでも言うのね? 酔えば言うのね? 子供の前で……三沢さんは私を見て後悔した。母は、助けたいけど三沢さんの気持ちを知ってはなにもできない。でもね、あなたを引き取るって言ったの。おとうさんが立ち直るまで。私の父にはすべてを話すからって。
 入学式に私は三沢さんの声を聞いて倒れた。覚えてたの。夢だと思ってたことは現実だった。
 あなたの家へ行って、彩ちゃんとかくれんぼして私は手がかりを探した。アルバムには母が写ってた。写真部が撮った大きな写真が挟んであった。なにかないかと私は探した。机の下の引き出しの奥にそれがあったの。私はザッと目を通し盗んだ。
 三沢さんはすぐ気が付いたわ。すぐ電話をくれた。公園で会ったわ。あれは、創作だと。実名の創作だと。私が家に来たことを覚えていると言うと、面白いくらいに動揺して、売春してたくせにって言ったの覚えてますって言うと観念したわ。あの、来賓のスピーチをしたステキな方が、私に頼んだのよ。
 おかあさんになにも言わずに、気づかれないようにしてくれって。おかあさんは気高い人で、おとうさんは素晴らしい男だ、おかあさんは篠田だけを愛した……
 私は母のことはショックだったけど、三沢さんがしょっちゅう様子を心配して電話をくれて、会ってくれるのが嬉しくて楽しかった。あなたのおとうさんだもの。声が似てた。話し方がそっくりね。ほんとうに。あなたのことをいろいろ聞き出した。夏生さんのことも。
 あなたは少しも相手にしてくれなかった。もう忘れようと思った。
 夏生さんが入学してきて、私は観察してたわ。あなたの幼なじみは、あなたみたいに勉強もスポーツも音楽もずば抜けていた。頬の傷があってもきれいな子だとわかったわ。表情が生き生きして歯並びがきれいだった。手足が長くて腰の位置が高くて、ああいうふうになりたくて体操したわ。そして誰よりも強い子だった。和樹が夢中になったのがわかる。
 忘れようと思ってたのに音楽室であなたを見た。ピアノを弾いて詩を歌ってた。観客は私だけだった。ずっと続いて欲しかった。
 夏にテニス部のOB会があって和樹に会ったの。まだ三沢英幸を忘れられないかって聞かれたわ。
 諦めたほうがいい、三沢英幸には橘夏生っていう背後霊がついてる。夏生には三沢の守護霊が付いてる。無理だ、諦めろって。
 だから最後にしようと思ったの。家にあなたしかいないのは知ってたわ。ダイレクトメール、気付いてはくれないと思った」
「父は喜ぶよ。そんなに愛した人の娘を僕が愛したんだ」
「母は喜ばないわ。父はなにも知らないのよ。母の愛した男は三沢英輔だって思ってる。釣り合わないから諦めたって思ってるの。そう思われたほうがいいでしょ? 売春してたよりあんなステキな人に愛されたって思われたほうが。だから母には三沢家の人間とは関わらせたくないの。
 昨日は母の誕生日だった。母に言われたわ。好きな人がいるのねって……あなたを母に紹介できない。母の少女時代を思うといじらしくてしょうがないの。誕生日のお祝いなんてしてもらったことはなかったって。初めてお祝いしてくれたのが父よ。
 もう、かわいそうなことはさせない。悪夢を思い出させるなんてできない。あなたと結婚したら、いつか三沢さんは言うわ。認知症にでもなったら。私を母と間違えて、売春してたくせに。誰が助けてやったと思ってるんだ?」
「……僕が結婚しようと言ったから?」
「こんなに長く付き合うつもりはなかった。楽しかったの。あなたの変化が楽しかった。全部好きだった。怒るのも、笑うのも、舌打ちするのも、ため息も、絶望的なのも礼儀正しいのも真面目なところもいやらしいのも……でも母のが大事なの。母のためなら捨てられる。捨てるの。あなたを」
もう葉月は触れることさえ許さなかった。
「夏生さんから電話がきたときホッとしたわ。ようやく終わるって。もう帰りなさいよ。夏生さんの守護霊に戻って」
「この結末を用意していたんだな?」
「ステキなおとうさんだわ。母の恩人」
「どうしても別れなきゃならないのか?」
葉月は頷いた。
「酔って私の家に来たりしないで。さよなら、大好きだった。そのノートは亜紀さんに返しておいて。亜紀さんのものだから」
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