第4話

文字数 1,471文字

 実家は兄と兄嫁、そして兄の幼い息子を中心に動いていた。そこは、詩織の知らない家だった。
兄は専門学校を卒業後、東京の飲食店で働いていた。そして、東京で働く福岡出身の兄嫁と出会った。二人は東京で結婚し、子供をもうけ、子育てに行き詰って実家に戻って来たのだった。
なんと都合のいいことか。学生の頃の兄の仕送りと学費は詩織のそれの二倍以上だった。軽くない負担をかけて実家を離れ、東京で働き、恋をして家庭を作り、子供をなして手に負えなくなれば、実家を頼る。
ずるい。ずるすぎる。いつもこいつは周囲の手を弾いて考えなしに走り出して、困れば平気で捨てた人たちに甘える。
それはプライドの高い詩織にはできない芸当だったし、決してしたくないことだった。
詩織は感情を爆発させる機会をうかがったが、孫をひたすら可愛がる父母を見て、心が萎えた。詩織はリストラされたことも、男に騙されたことも口にせず、ひとり地元の街をさまよった。
 下関は大きな街ではない。大きな商業施設やビルは駅前に集中している。そのあたりをぶらついていれば、知り合いに出くわすことも少なくない。詩織はそれを期待して、夜を迎えようとしている駅前をぶらついた。
そして、再会したのが、高校のクラスメートの猪狩慎吾だった。同じ猪からはじまる苗字を持つ猪狩とは、男女別の出席番号が近く、席が隣になったり、体育でペアを組んだりした。
詩織は男友達を作るような活発なタイプではなかったが、猪狩とは気楽に口をきくことができた。思えば、猪狩は詩織の最初で最後の男友達かもしれない。
 詩織は自分の名前が嫌いだった。少女趣味な詩織という名前に不似合いな猪俣というごつい苗字。苗字は変えられないのだから、下の名前は「令」や「凛」といった文字を含む鋭いものにしてほしかったと思う。
それを口にすると、猪狩は首を捻った。
「ギャップがあっていいんだけどなあ」
なるほど、そういう解釈もあるのか。詩織はちょっとだけ自分の名前を好きになり、気の利いたことを言えないと馬鹿にしていた猪狩の株をあげた。
「よお」
振り向くと猪狩が笑って立っていた。高校を卒業して会ってないから、十七年ぶりだ。
「あ」
詩織はなんと言っていいかわからなかった。猪狩君。昔のように呼ぶには、男は老けすぎていたし、自分の声も低くなっている。
「久しぶり。帰省中?」
お盆のこの時期、駅前ではこういったやりとりが散々行われていた。
「あ、うん、そう。元気?」
「うん、まあ、まあ」
「そう」
「猪俣はずっと東京?」
「ずっとっていうかあ、ああ、うん、まあね」
大学は茨城だが、その後東京で就職したので、そんな印象になっているのだろう。
「そうか。いいなあ。俺も大阪とか福岡とか、どっか行っとけばよかったな」
猪狩は地元の郵便局に就職したと聞いた。
「いいじゃん、郵便局。安定してるし」
「安定ねえ」
猪狩が皮肉な笑みを浮かべる。高校のときは見せなかった表情だった。
当たり前か。二人の会わなかった期間で、高校生ができあがるのだ。変化や劣化は当然だ。そう思うと気が楽になった。
「猪狩、暇?」
「え、ああ、まあ」
呼び捨てにされたからか、いきなり誘われたからか、猪狩が慌てた様子をみせた。それでもかまわないと詩織は畳みかける。
「飲みに行かない?」
「いいけど」
猪狩が戸惑っているのはわかったが、詩織は気づかないふりをして、猪狩を駅前に立ち並ぶ雑居ビルの中の大手飲食店グループの居酒屋に誘導した。東京でも利用したことのある、安く飲める店だった。
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