第1話

文字数 9,997文字

 顔を見た瞬間、すぐにわかった。
 改札口のざわめきや、セミの声が遠のくくらい、私の意識は彼に奪われた。
「はじめまして、高校2年生の月岡綾人です」
 黒髪の下、切れ長の目が優しく細められる。その控えめな笑みが懐かしくて、私の胸はじわりと熱くなった。だって、あの頃と同じ笑顔なんだもん。
 だけど、身なりはまるで別人。
 腕まくりした制服の白シャツから、チェック柄のスラックスがビュンと伸びている。あんなに小さかったくせに……っていうか、脚長すぎだよ。すっかり低くなった声にもびっくりだし、いつもかけていた銀縁メガネも取ったみたい。
 月岡綾人。まさか、また会えるなんて……。
 小6の夏に転校していった男の子。
 私、遠藤かなの初恋の人。

 念願の恋ステ出演だった。
 離れた街で暮らす高校生が、週末だけ会って恋をする。番組を観て憧れた。控えめな自分でも、素敵な恋ができるかも……。
 って、ちょっと待った! 
 転校していった初恋の人が来るなんて聞いてないよ! そんな運命的な再会、さすがによく出来すぎじゃない!? はぁ、もう、頭の中ぐちゃぐちゃ。ただでさえ、美男美女に囲まれたテレビ収録で緊張マックスなのに……。
 いやいや、ちゃんと、おしとやかにしてなきゃ。
 心の中で取り乱しながらも、私は平静を装う。両手をスカートの前でピッタリ揃えて、穏やかな笑みなんか浮かべちゃって。本当は、今すぐにでも、「月岡、久しぶり!」って、大声で叫びたいけど……。
 もう小学生の頃みたいに、おてんばじゃない!
 男子に混ざって校庭を走り回っていた活発女子など、とっくの昔に捨て去った。中学、高校と、私は清楚系の大人しい女子に生まれ変わったのだ。今回の恋ステだって、ほかの子に負けないくらい、かわいく振る舞う自信もある。
 だけど、月岡はやんちゃだった頃の私しか、知らないんだよね……。
 待ってて、月岡。あの頃の私とは違うってところ、見せつけてやるからっ。

 おしゃれなカフェでランチを食べてから、男女6人で商店街に繰り出す。
 強い日差しはアーケードで遮られているものの、充分すぎる蒸し暑さ。歩いているだけで、おでこが汗ばんでくる。
「第一印象、誰だった?」
 そんな私の顔をのぞきこむのは、前回の恋ステに出演していた悠心くん。短髪にキリっとした眉が印象的で、その整った王子様フェイスに私はタジタジ。
「えっとぉ、綾人くん、かな」
 しかし、ここは素直にこたえる。
「なぁんだ、俺じゃないのか」
 冗談めかして笑う悠心くん。余裕だね。
「悠心くんは?」
「俺は、由佳里ちゃん」
 その視線の先には、黒髪ロングの後ろ姿。私もしゃべったけど、由佳里ちゃんはとっても上品な女の子。私にはわかる。本物の清楚系だ。
「でも、由佳里ちゃん、綾人が気に入ってるみたい。二人とも物静かでお似合いだ」
 そう。悠心くんの言うとおり。由佳里ちゃんは月岡と並んで歩いている。
「はぁ、なんか先を越されてるなぁ」
「週末の旅なんて、すぐ終わっちゃうからな」
 遠い目をする悠心くん。その言葉が、私の心に重くのしかかる。
 さっき、旅に参加するための恋チケットの抽選があった。なんでも、人によってチケットの枚数が違うんだって。私は4枚だったから2週間の旅。
 よりによって、一番少ない枚数を引いちゃったわけ。
 月岡は何枚だったんだろう?
 チケットの枚数はお互いに秘密だから、それを知るすべはない。
「ああ、早く話したいなぁ」
 思わずつぶやきが漏れるくらいには焦っている。自己紹介でタイミングがつかめず、ランチのときも席が遠くて、まだ月岡と全然話せてないんだ。
「よしっ、ここは俺に任せて」
 すると、悠心くんは私の肩をポンと叩くと、
「ねぇ、ツーショット行こうよ」
 月岡と並ぶ由佳里ちゃんに声をかける。
 悠心くん、めっちゃ頼りになる!
 私がボーっと見守る間にも、悠心くんは由佳里ちゃんと商店街の奥へと消えていく。
 すごい。さすがは経験者……。
 なんて感心していると、雑踏の中、所在なさげに佇む月岡と、ばっちり目が合う。
「行こっか」
 月岡にゆるっと微笑まれ、私は小さくうなずいた。
 悠心くん、きっかけをくれてありがとう!

「久しぶり」
 二人きりになると、月岡はすぐに切り出した。木陰のベンチに腰掛け、アイスを食べながら。
「覚えててくれたんだ」
 私は涼しい顔でこたえる。
 心の中では、「よっしゃぁ!」ってガッツポーズしてる。
「正直、名前聞くまで、確信は持てなかったけどね」
「私はすぐわかったよ」
「さすが、かなちゃん」
 はぁ、この「かなちゃん」っていう響き。胸がきゅうってなって耳が熱くなる。なにしろ、小学生時代に、私のことを下の名前で呼んでくれた男子は、月岡だけだったから……。
 ただし、ひとつ言いたいことがある。
「それはそうと、なんで、私のアイス、トリプルなの?」
 手に持ったコーンに、ストロベリー、ソーダ、キャラメルの三段積み。お店で月岡が注文するとき、私、確かにバニラのシングルって伝えたよね?
「かなちゃん、1個じゃ、足りないと思って」
 月岡のやつ、私のことをまだ大食い女だと思ってるな。
「いや、さっきお昼食べたばっかりだし」
「そっか。でも、かなちゃん、デザートは別腹だって、昔、言ってたような」
「まぁ、昔は、そうだったかもね」
 今でもそうだよ!
 悔しいけど、正直トリプル食べたかった。それに、このお子様な味のチョイス。私が小学生の頃によく頼んでたやつ。あんた、すごいよ、月岡。そこまで私のことを覚えてくれていたなんて……。
「アイス、多かったら、俺も手伝うよ」
「うん、ありがと」
 そう言うお前のアイスはダブルかよ、と内心ツッコミながらも、
「せっかく私のために頼んでくれたんだもん。全部食べるよ!」
 私はすっかりうれしくなって、上機嫌でちろちろとアイスをなめはじめる。やっぱり、おいしい。ただし、大口あけてかぶりつくのは禁物だ。トリプル食べても清楚でいたいから。
「ところでさ、かなちゃん、雰囲気変わったね」
「そうかな?」
「髪もちょっと長くなったし、大人しくなったっていうか」
「私だって、もう女子高生だからね」
「確かに。最後に会ったの、小6だもんなぁ」
 月岡が空を仰ぐ。これは、思い出話に花を咲かせる雰囲気かな。
「綾人くんも、だいぶ変わったよね」
 そして、はじめての名前呼び。なんだか月岡の彼女になったみたいでドキドキする。
 どうかな、月岡、さすがに効いたんじゃない?
「月岡でいいよ」
 もう! 月岡のバカバカバカ! せっかくの名前呼びが台無しだよぉ。
「かなちゃんにだけは、月岡って呼ばれたいからさ」
「じゃ、じゃあ、月岡くんで」
 なに、その特別扱い。まるで長年連れそった幼馴染みたいじゃん。でも、今さら苗字に呼び捨てはダメだよぉ。
「かなちゃんは、ほんとにかわいくなったよね」
 なんて、ニヤニヤしていたら、月岡が私の頭に手を置いた。
 不意打ちのぬくもりに、私の心臓はドキンと跳ね上がる。
「身長も縮んじゃって」
 そのまま頭をポンポン。うぅ、気持ちいいようなくすぐったいような。
「つ、月岡くんが大きくなっただけだよ」
「俺、小学生の頃は小さかったからなぁ」
「そうそう。月岡くん、かわいかったよね。ちっちゃくてメガネで。しかも、自分のこと無理して俺って言ってたし」
「あはは、バレてたか」
「でも……」
「でも?」
 今はめちゃくちゃかっこいいね!
 って言いたい! 大声で叫びたいけど、月岡にのぞき込まれて口をつぐんでしまった。だって、目と鼻の先にいる月岡が美しすぎるんだもん。そんなに見つめられたら、私、緊張して……。
「かなちゃん! 溶けてる! 溶けてる!」
「ん?」
 月岡の声が響いて、私は我に返った。
「うわっ!」
 手元のアイスがドロドロだぁ! 
 やばい、なんとかしなくちゃ。
 慌てふためく私は、すぐにアイスを丸呑みしようと構えたけど……。
 できるわけないじゃん! 月岡が見てるのにっ。
「あっ」
 ボチャ。
 そんなこんなで、なにもできず。
 カラフルな三連タワーは崩壊し、私のおなかにひんやり甘い地図が広がる。
 はぁ、最悪だ。
 冷たいし、ベタベタして気持ち悪いし、制服は汚れちゃったし。
「しょうがないなぁ、かなちゃんは」
 ところが、月岡はしょげかえる私を見て、いきなりネクタイを取り去り、シャツのボタンを外しはじめた。
「ちょっ、月岡くん、何してるの!?
「貸すよ。とりあえず、着替えてきな」
 白いシャツを差し出す月岡は黒いタンクトップ姿に。
 私は一瞬、なにも言えなくなった。
 しなやかで筋肉質な腕に見とれたのはもちろん、目の前に月岡の脱ぎたてシャツが……。
「嫌ならいいけど……」
「いる!」
 私は大きな声でうなずき、ハッと口を押える。
 興奮しすぎだよ、私。
「……ありがと」
 シュンと小さくなって、それだけ伝えると、月岡は「どういたしまして」と笑った。
 そのあと、着替えたシャツはぶかぶかで、袖もたくさん余っちゃったけど、月岡の甘酸っぱい匂いに包まれて、なんだか、あの頃の思い出がいっきによみがえってくるみたいだった――。


(回想)
 保健室には誰もいなかった。
 窓は開け放され、二つのベッドを仕切る桃色のカーテンがゆらゆら揺れている。
「月岡、ごめんね」
「いいよ。取れなかった俺も悪いんだし」
 ベッドに並んで腰かける私と月岡。
 先生がいなかったから、付き添いの私が月岡の傷を手当てしている。体育のドッジボールで、月岡は私が投げたボールを至近距離で顔面に食らったのだ。
「血がにじんでるね」
 ちょうど鼻の真ん中あたり。メガネの金具で傷ついたんだと思う。完全に私のせいだ。
「これくらい大したことないっ……いててっ」
 消毒液を浸したガーゼを当てると、月岡は顔をしかめた。
「大丈夫?」
「気にしないで。続けて」
 絆創膏を張るために、月岡との距離を詰める。
 メガネを外した月岡と目が合う。
 大きな漆黒の瞳。
 なんか、ちょっと、緊張するかも……。
 私は恥ずかしくなって、目をそらした。自分の心臓の音が少し大きくなるとともに、月岡のスースーという静かな息遣いを感じる。
 絆創膏を持つ私の手が、月岡の鼻にふれる。
 つるつるな柔肌。友達の女の子をさわったときと同じだ。それに、この甘い牛乳みたいな香り。月岡の首元からふわっと漂ってくる。いい匂い。なんか、変な気持ちに……。
「はい、できたよ!」
「ありがとう」
 身体半分くらい横にズレた私に、月岡はニコっと笑ってくれた。
「うん、どういたしまして……」
 なんだろう、この感触。胸がむず痒くて、顔から火が出てるみたい。月岡のかわいらしい笑顔を見ただけで、こんなにもうれしい気持ちが膨らんでくる。どうしよう。月岡と、もっと一緒にいたいかも……。
「遠藤、マジでやばかったよなぁ」
 しかし、そんな私の幸せを壊すかのように、廊下から男子の声が続々と聞こえてきた。
「綾人くんも運悪かったよな。あのゴリラは俺たちでも苦戦するってのに」
「戻ってきたら、怪力ゴリラって呼んでやろうぜ」
 静まりかえった保健室。
 月岡も聞いたよね? 悪口を人に聞かれるのって、ちょっと気まずい。
「くっそぉ! 男子ども! なにが、怪力ゴリラだ! ふざけやがって」
 強がりも込めて、私はベッドから飛び降り、いつもの調子で荒っぽく叫ぶ。
 本当は、ゴリラ呼ばわりされるの嫌だよ。私だって、一応、女の子だから……。
「だったら、俺は、かなちゃんって呼ぶよ」
「えっ」
 その響きに、私は勢いよく月岡へと向き返る。
「ケガの手当てもしてくれたし、普通に女子っぽいところもあると思うし」
 モゴモゴとつぶやく月岡。
「嫌ならいいけど……」
「ううん! そんなことない!」
 月岡に名前で呼ばれる。たったそれだけのことでも、私はうれしくて仕方なかった。
「じゃ、じゃあ、かなちゃんで」
「うん!」
 私の大きすぎる声が保健室に響き、月岡は少し呆れたように笑ってみせた。
 
 それからというもの、私は月岡をいろんなところへ連れまわした。
 夏休みには、二人で虫取りをしたり、自転車で遠くの川まで行ってみたり。夕立の中を泥だらけで走りまわって、色白だった月岡さえも真っ黒に日焼けして。
 とにかく、月岡と一緒なら、何をしても楽しかった。
 そんな八月のある日。
 月岡から、夏祭りに行こうと誘われた。話したいことがあるって。
 私はすっかり舞い上がった。

 待ちに待った夏祭り当日。
 ひと足早く屋台巡りを済ませた私は、かき氷片手に石畳を歩いていた。暗闇に浮かぶ提灯の光を眺めながら、遠くの出囃子に耳を傾け、ソースの香りが乗った煙をくぐる。お祭りの楽しい雰囲気に、私はすっかりルンルン気分。
「あっ、月岡!」
 そして、集合場所の赤い鳥居。
 藍色の甚平を羽織った月岡を見つけて、私は手を振りながら駆け出した。
「月岡くんも来てたんだぁ」
 ところが、月岡の周りには、浴衣の女の子たちが集まっていた。
 私は思わず挙げた手を引っ込め、屋台の陰に身を隠した。
「どう? 浴衣?」
「えっと、よく、似合ってる」
 キャーっと甲高い歓声が上がる。
 最初は中学生のお姉さんかなと思った。
 水色や桜色のかわいい浴衣。アップにした髪と、お化粧でもしてるんじゃないかってくらい白くてきれいな顔。
 みんな、クラスメイトだった。
「月岡くん、ひとり?」
「いや、かなちゃんを待ってる」
「遠藤さん!? 月岡くん、大人しいのによくついていけるね」
「うん、大変だけどね」
 遠くの会話を聞きながら、私は足がすくんで動けなくなっていた。
 月岡、私と遊ぶの嫌だったのかな……。
 そして、改めて、自分の姿にハッとする。
 汚れたTシャツにスーパーで買ったビーサン。髪だってぼさぼさのショートカット。
 なんだか急に恥ずかしくなった。
 楽しそうに笑う浴衣姿のクラスメイトは、みんなキラキラしていて、私みたいな恰好で入っていける雰囲気じゃなかった。
 それに、みんなに囲まれている月岡も、どこかうれしそうに見えて……。
 私は月岡たちを素通りして、神社の階段を下った。
 胸の奥がチクチク痛む。
 背後でドォーンと花火の音。今ごろ、月岡と一緒に見ていたはずなのに……そういえば、話したいことって、なんだったのかな? ごめん、月岡。気になるけど、今日は、会えそうにないや。また、明日にでも、勝手に帰ったこと、謝りにいくから、そのとき、話してよ。

 結局、月岡とは夏休み中に会えずじまい。
 ひと晩眠って落ち着いた私は、そのあと何度も月岡の家を訪ねたけど留守だった。
 そして、やっと月岡に会えると思った新学期。
「月岡くんは、お父さんの仕事の関係で……」
 先生の言葉は、途中から聞こえなくなった。
 まだ泣いてすらいないのに、すでに涙が枯れているような感覚。
 その日から、私はおてんばを卒業した――。
 

 恋ステ3日目、土曜日の夜。
 今日は山奥で夕涼みの予定だったんだけど、夕方から降りはじめた大雨で中止になった。
 河原でバーベキューからの花火。追加メンバーの男の子も合流して、みんな楽しみにしていたのに残念だ。私もせっかく桃色のかわいい浴衣で待ってたのに……。
「雨、すごいね」
 お泊りするロッジの屋根を、雨がうるさいくらい叩いている。
 私は由佳里ちゃんと並んで、水滴だらけの真っ黒な窓を見つめていた。
 このどしゃ降りでは、男子メンバーが泊まるロッジに遊びに行くのもひと苦労だ。今日は月岡に会えそうにないか。
 はぁ、こんなはずじゃ……。
 先週から月岡とは全然しゃべっていなかった。
 おしとやかさを意識するあまり自分からは全く動けず。平日に使えるビデオ通話も勇気がなくてできなかった。私がやったことといえば、初日にアイスをこぼして月岡からシャツを借りたことくらい。
 私は目を閉じて深呼吸した。
 切り替えなきゃ。今日はダメだったけど、まだ終わったわけじゃない。
 しかも、私には強力なアイテムが残されている。
 そう。月岡のシャツ。洗って返すと言って、一旦家に持ち帰っていたのだ。本当は今日の夕涼みで渡そうと思っていたけど、明日はこれを口実に、月岡とツーショットだ。
 私は窓際でギュッとこぶしを握った。
 明日だ。明日、最後のチャンスに懸けよう!
「そういえば……」
 すると、由佳里ちゃんが不安そうに眉根を下げる。
「綾人くん言ってたの。雨で帰れなくなるかもって」
「えっ」
「もしかしたら、今日中に帰っちゃうかも。明日、電車が止まる前に」
「まさかぁ」
 笑い飛ばそうとした私だったけど、喉が詰まるような震えを感じていた。
 なに? この胸騒ぎ。
「そうだ! 男子のロッジに電話かけてみるね」
 由佳里ちゃんが、備え付けの固定電話をかける。私は嫌な予感がして気が気じゃない。
「あっ、もしもし、綾人くん、いる? えっ、部屋にいない!?
 それを聞いた瞬間、硬直していた私の足が動きだした。
 行かなきゃ!
「ちょっと、出てくる!」
 背後から由佳里ちゃんの「どこへ?」という声がしたけど、それにはこたえず、私は浴衣のままロッジを飛び出した。

 真っ暗な森の中。
 私は夢中で走っていた。
 全身に打ちつける激しい雨粒。まるで、プールの前に浴びるシャワーみたい。濡れた浴衣は水を吸って重いし、下駄をはいた足は泥だらけ。そんな状態で真っ暗闇を進むのは、とても心細く、正直、怖くて震えている。
 それでも、脚を止めることができない。
 月岡がいなくなった小6の夏。
 家に帰って、涙が出なくなるまで泣いた。夏祭り、自分が恥ずかしくなったという理由だけで、月岡に会える最後の機会を捨ててしまった。明日また会えばいい……。
 そんな甘い考え。
 なんで、忘れていたんだろう。あれだけ、思い知ったはずなのに。
 月岡は、明日いないかもしれない。
 そしたら、私はまた月岡とお別れだ。
 私の旅は明日終わる。月岡と満足に話すどころか、告白すらできずに……。
 そんなの、絶対に嫌だ!
 そう思って、強く枝を踏みしめた瞬間、
「キャッ!」
 突然、何か大きな影にぶつかった。
 全速力で走っていた私は、反動で弾き飛ばされ、ぬかるみの中を転がった。
「あいたた……」
 地面に横たわる濡れネズミみたいな私に、冷たい雨は容赦なく降り続ける。口の中が土でじゃりじゃりする。かわいい浴衣も整えた髪も、これじゃ泥まみれ。
 ああ、みじめだなぁ。このまま、月岡とも会えないのかなぁ。
 そんな絶望感に打ちひしがれていたとき。
「うっ」
 私の顔に強い光が照らされる。
 手をかざしながら、ゆっくりと顔を上げると、
「……かなちゃん?」
 傘をさす月岡が、懐中電灯を片手に目を丸くして立っていた。

「大丈夫?」
「うん」
 部屋着姿の月岡と手をつなぎ、木の下で雨宿り。
「月岡くん、なんでこんなとこにいるのさ?」
「かなちゃんに貸したシャツを受け取りに行こうと思って。明日、制服で収録だから」
「そうだった、ごめん」
 シャツ返すの明日じゃ遅かった。ほんと、ダメダメだぁ。
「かなちゃんこそ、傘もささずに何してたの?」
 月岡はまっすぐ前を向いたまま、真顔で尋ねる。
「私、月岡くんが大雨で帰っちゃうんじゃないかと思って。さっき電話で、部屋にいないって聞いたから」
「俺が帰ったと思ったの?」
「うん。明日電車が止まったたら、家に帰れないんでしょ?」
「確かにそうだけど、それで、この雨の中を?」
「だって、会いたかったから……」
 月岡と会えて安心したからだろうか。
 なんだかホッとして泣きそうになってきた。こうして話していること自体、叶わなかったかもしれないのだ。一方で、その代償も大きくて、私は今も全身泥だらけ。こんな浴衣姿、月岡に見られているのも、なんだか嫌だなぁ……。
「かなちゃん」
 そんなことを考えていると、握った手に力が込められた。
「えっ」
 次の瞬間。私は月岡にグイッと抱き寄せられた。
 冷たい浴衣越しに月岡の体温を感じると、胸の鼓動が早鐘を打ちはじめる。
「俺が大雨なんかで帰るわけないよ。明日、かなちゃんがいなくなるかもしれないのに」
 月岡は、私の背中に手をまわし、
「でも、会いにきてくれて、ありがとう」
 耳元でそっとささやいた。
 ゾワゾワした感触に、私の力が抜け落ちる。
 だけど、素直に喜んでもいられない。私、こんなに汚いのに。
「月岡くん、服が……」
「いいんだ。俺も、昔みたいに泥だらけになりたいと思ってたから」
 冗談で気を使ってくれているのかな。
 そんなことを思いかけた矢先。
 月岡に一層強く抱きしめられ、私の身体がきゅっと強張った。
「元気なかなちゃんが、好きだよ」
 その言葉を聞いた瞬間、我慢していた涙がぶわぁっとあふれ出してきた。
「ごめん、月岡……」
「えっ、いきなりフラれた!?
「違うの、違うんだよぉ!」
 戸惑う月岡をよそに、私はぼろぼろ泣きながら続ける。
「ずっと後悔してた。ずっと謝りたかった。夏祭りで月岡を置いて帰ったこと。あのとき、クラスの女の子がみんな浴衣だったから、恥ずかしくなって。月岡、大人しかったから、私みたいなおてんばと遊ぶの、嫌だったのかなと思って」
 拭っても、拭っても涙が止まらない。
「だから、再会できて本当にうれしかった。でも、私、全然、月岡と話せなくて……」
 月岡が「よしよし」と髪を撫でてくれる。
 グスグスと鼻を鳴らしながら顔を上げると、月岡のやさしい瞳が私を見つめていた。
「俺の方こそ、つらい思いさせて、ごめんね。転校が決まって、かなちゃんには、言わなきゃって思ってるうちに、引っ越し前日になっちゃって……あのあと、親に連れ戻されるまで、泣きながらかなちゃんを待ってたんだっけ」
「本当に、ごめん」
「当時は、俺、かなちゃんに嫌われたのかと思って、へこんでた。今回だって、かなちゃん、あんまりにも大人しいから、まだ嫌われたままなのかなって」
「そんなことない!」
 思いっきり首を振った。涙がキラリと弾けて飛んだ。
「うん。わかってる」
 ニコッと笑う月岡。
 その表情に、私の乱れた気持ちもすぅっと穏やかになっていく。残った涙を掌でぬぐって、私は月岡に向かって少しだけ笑ってみる。
「そうそう、やっぱり、かなちゃんは笑ってる方がかわいい」
「……グスッ、照れるよ、月岡」
「あと、その呼び方も、やっとあの頃のかなちゃんに戻ったね」
「えへへ」
 私たちは、お互い泥だらけで笑い合う。
 月岡とまたこんな時間を過ごせるなんて、夢みたいだ。
 うれしそうに微笑む月岡の顔が、当時の幼いメガネ面と重なって、まるで、あの頃に戻ったかのようで……。
「あっ」
 そんな妄想にふけっていると、月岡は苦笑して頭をかきはじめた。
「まいったなぁ。勢いに任せて告白しちゃったよ。本当は、明日するはずだったのに……」
 恋ステでは、告白する日の朝、あらかじめ配られた赤いチケットを箱に入れる。
 つまり、正式には、明日もう一度告白することになるのだ。
 なるほど。それはそれで、アリだけど……。
「大丈夫! 任せて!」
 私は思いっきり鼻をすすりながら、
「明日は、私が告白チケットを使うからっ。明日、返事してあげるから」
 自分の胸をえっへんと叩いた。
「じゃ、お願いしよっかな。もちろん、俺もチケットは入れるけど……」
 といっても、返事はもう決まっているのだ。私は月岡が好き。小学生の頃からずっと好き。
 だったら、今すぐ言いたい。
「ねぇ、月岡!」
「何?」
「おっりゃあ!」
 私はやんちゃな女の子みたいに、月岡の胸に勢いよく飛び込み、
「ずっと前から、大好きだよ!」
 雨音をかき消すくらいの大声で叫んでやった。
「か、かなちゃん! それ、フライングだって!」
「いいもん、明日も言うからっ」
「も、もうっ、かなちゃんは!」
 私を抱きかかえる月岡も、珍しく大声で叫ぶ。
 その顔は、暗闇でもはっきりわかるくらい真っ赤に染まっていた。
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