第8話 未確認の光跡

文字数 9,603文字

 あのドライブインには誰かがいた、と美津子は言っていた。僕らが撮影している間、じっと二階の窓からこちらを見ていた、と。なんともぞっとする話だ。
 あたしは怖かった。だからわざとはしゃいだ。自分にしか感じられないとしたらまずい。だからあなたにも気づいて欲しかった、と。そうでないと現実からはみ出てしまいそうだった。自分だけが異常なのか、と反問した。わからない。雪の上で立ち位置が失われてとても不安だった。惨めな気持ちになる。誰にも認めてもらえない、無意味な人間の一人に過ぎない、そう思うと胸元が苦しくなって存在していることが耐えられない、とすら感じられた。
 だからとにかく光が現れて本当によかったと感じた。そうでなかったら打ちひしがれてしまったかもしれない。それなのにあなたは冷たかった。光を追おうともしない。自衛隊機かもしれない、なんて言って貶めるのだ。それが真実? 新千歳に着陸する戦闘機のバックファイヤー。青白くてきれいなの、知っている。でも嘘でもいいから励まして欲しかった。お互いにかけがえのない存在になりたかったけど無理だと思った。あなたはレンズ越しにしか人を見ていない。優しいけどそれ以上、近づいてこない。なにかあるとパッ、とカメラを構えて自分を守る。ずるい。
 こんな告発を彼女は冷蔵庫の扉を開けて夜通し呟いていた。
 審判の青い光に照らされて被告となった僕は、謝罪の言葉も陳述したが聞き入れられなかった。言い訳は聞きたくない、と切り捨てられる。扉が閉められると闇だった。身に迫る危険を感じた。だけどどうしていいのかわからない。
 ともかく四畳半に戻りドアを閉めた。
 被告は無罪を主張。だがなにがしかの刑は免れないだろう。ただし執行猶予付き。いつまでかはわからない。いつまでも、かもしれない。

 その頃、おばちゃんの夕涼みの時間は長くなっていた。坂道を降りるとビールケースを逆さにしてその上に座っているのに出くわす。日が暮れるのは遅くなってあたりはすでに暗い。戸口でマルの眼が青緑色に光っており、美津子が傍らに立っていた。久しぶりに会ったのだがおばちゃんの前では互いになにもなかったかのように装っていた。
「ほら、おばちゃん、そろそろ店開けないと。マルが待っているよ」
 と声をかける。
「あんたか。遅かったね。ちょうどいい、今、あの人がそこにいるよ」
「あの人? 」
 おばちゃんは坂の下をあごでしゃくる。どこかでパトカーのサイレンが鳴って、犬が吠えた。足音も響くが人の姿はない。淡い影が幻燈のように古びた家々の軒先を通り過ぎていく。
 誰もいないよ。
 そう告げたかったが黙っていた。美津子が身を寄せむっ、とした香水が鼻先に漂う。以前とは異なる臭いだ。男を変えて香水も変えたのだろう。
 ようし、やるか、
 と樋の脇に転がっていた提灯を拾い軒先に掲げた。戸は施錠されていなかったので中に入って電灯のスイッチを上げると金色の光がこぼれるように広がる。カウンターに置いてあった暖簾を出して戸の上に掛けた。厨房に入ると電気設備のスイッチをオンにしてガスの元栓を開き、水栓も全開にしてシンクを洗う。この辺までは見様見真似でできてしまう。
 しばらくすると、あら、悪いねえ、とおばちゃんが入ってきて呪縛は解けるのだがその晩はなかなか動かない。
 アブラカダブラ。
 美津子はおばちゃんの脇にしゃがんで静かな声で尋ねる。
「あの人って、恋人ですか」
「そんなんじゃないよ」
「でも好きな人ですね」
 マルが代わりに返事する。イエス、と。
「うらやましい。あたしそんなふうに人を思ったこともないし、思われたこともないから」
「違うよ。世の中にはね、内と外がある」
「ウチとソト? 」
「そうあんたたちは内しか見ていない。そればかり考えている。だけどね、外のほうが広い。たいていのことはそっちで決まる」
「外ですか」
「大事なのはね、水平線に気がつくことなの。みんな目の前の出来事に追われて通り過ぎてしまう。だけど内と外は別ではない。どっかでくっついている。そうだろう? 内側だけなら外はないし、外側だけなら内がない。内があるから外がある。外があれば内もある。だけど内からは外が見えないし、外からは内が見えない。どうしてだかわかる? 」
「なぜだろう、皮があるから? 」
 おばちゃんはパッ、とふり向いて美津子を仰ぎ見た。提灯の赤い光の下でポカン、と口を開けてそれから、アッ、ハッ、ハッ、と大きな声で笑った。あんなに楽しそうなおばちゃんは後にも先にも見たことはない。
「カワね。人間ならそうか。それもあるね、内と外、間に皮膚がある。水平線と同じ境界だね。ただね、水平線は遠い。だからみんな忘れている」
 やっとおばちゃんは立ち上がった。
「いいかい、世の中にも内と外がある。普段の生活では近くしか見えない。だけど努力すれば外も見える。あの人は外から来る。だから忍耐強く待つの。少しずらせばいいの」
「ずらすのですか」
「そう。場所も時間も当たり前と思っていることを考え直すの。そうするとね、他の人には見えていないものが見えてくるの」
「不思議な話ですね」
 おばちゃんは肩をすくめ、むにゃむにゃとなにか口にしたがしまいに鼻歌を歌い出した。僕たちは冷蔵庫からビールを出して乾杯し、カウンターの上にコップを置いておばちゃんにも勧めた。ちょうど藤原さんがやってきて、なんか楽しそうじゃない、あたしも混ぜてよ、これ持ってきた、と山盛りの栗を差し出す。郷里から送ってきたらしい。
 講義は終了。
 ぐっ、とビールを飲み干したおばちゃんはマルの前に餌を置いた。いくつもの人影が路地を通り過ぎていく。それを見送りながら、マルが喉を鳴らす。
 もうそろそろ時間です、
 と。時間は無限ではない。生き物はそれぞれの分に従って命を継いでいく。
 おばちゃんの店が予告もなしに閉じたのはそれから一か月もしない晩秋だった。落ち葉が風にあおられてカサカサと路地を走った。茜色の夕陽が店の正面を照らし出していたがおばちゃんの姿はない。戸は施錠されており人の気配はなかった。日曜と月曜が定休日だったがそれ以外は正月くらいしか休んでいなかった。翌日も、その翌日も店は閉じられたままで、張り紙などの告知もなかったので藤原酒店に行って尋ねると、以前から潮時だと言っていたらしい。数日前、店を閉めることにした、と言いに来て、それっきりだという。
 不動産の管理者は新宿三丁目にある仲介業者で、問い合わせ対して、今月いっぱいで契約は終了しました、次の入居者は決まっていません、と答えてくれた。内覧したいと申し出ると、さっそく案内してくれることになった。
 午後の日差しががらんとした店内を照らし出していた。
 調理器具や皿は残されていなかったが什器はほぼそのままで、担当者によると居抜きで使って構わないという。許諾を得て写真を撮影した。
 ちなみに前の方はどうされたのですか、
 と尋ねると、店の運営は順調だったが個人的な事情で、具体的には高齢で後継ぎもなく廃業を決めた、とのことだった。連絡先を尋ねたが自分たちにはわからないとの答えで、なんでも都内の居所は引き払って郷里に戻られたようだ、とのことだった。
 居場所が失われてなんとも寂しい限りであった。美津子にも突然の閉店について伝えたが、ああそう、残念ね、と言うだけで反応は薄かった。家が売れたのか彼女も連絡がつきにくくなっていた。電話はつながらないしメールを出しても返事が来ない。いつぞやの木下という男の顛末が思い出され、いつまでも未練がましくするのはみっともないと発信をやめてしまった。
 不思議なことにマルの姿も消えた。坂道は空っぽだ。

 あんた、覚悟はあるの?
 そう問われたことがある。
「なんのことですか? 」
「覚悟は覚悟だよ。男には必要でしょう」
「わかりません」
「情けないね。だけどあんたはあの人にちょっと似ているよ」
 びっくりしておばちゃんの顔を覗き込んだ。あの人、とは「北」に避難した久我さんのことだろうか。
「写真を撮るってことにも覚悟が必要と思うけど。違う? 最近、虫に食われちゃってさ、だんだん見えにくくなっているのよ」
 そう言いながらエプロンのポケットから小さな写真を取り出した。昔で言うところのハーフサイズ、三十五ミリフィルムの半分の大きさだ。あちこち折り目がついているし縁はボロボロになっている。フレームの中からこちらを見ている男の顔もほとんど擦れてしまっている。虫食いではなさそうだ。
「だいぶ傷んでいますね。ネガはないでしょうけどデータにとりこんで修復しましょうか」
「そんなことしてもダメなのよ。食われているのは写真じゃない、あたしだから」
 ナフタリンが必要ね、などと自分の頭を叩いて笑っている。
 覚悟はあるのか。
 問われると足元がぐらつく。浜辺に波が繰り返し押し寄せ、足裏から砂が攫われているかのように、みるみるうちに自信が失われていく。自分はいったいなにをやっているのか、と。
 虫は続々と現れる。
 そして僕らを食いつくしてしまう。人だけではない。人と人の間にあるあらゆるものを容赦なく食い破り、消してしまう。記憶、思い出。信頼、友情。命、そして愛。大切なものほどおいしいらしい。敏感な猫たちは事前に察知して自ら身を隠す。しかるべき場所に移るのだ。おばちゃんもそれに倣ったのかもしれない。
 マルは写真の中からこちらを見ている。
 見るということは見られることでもある。写真を見ると過去と現在を行き来できるのだ。それはある意味、恐ろしい経験でもある。なぜなら、いつか終わりが来る、ということを教えてくれるからだ。ポートレートは遺影である。そこに写っている人が存命でもいつかは死ぬ。つまり自分もいつかは死ぬ。これが真実だ。デジタル化によって画像の量が膨大になり人々はそのことを忘れがちだが立ち止って考えればわかる。カメラの性能が良くなり解像度が向上しているためありありと、あたかもそこにいるかのように見える人も決してもうそこにはいない。
 僕はそこにいた。
 確かに存在した。おばちゃんや美津子もいた。そこから未来の自分を見る。なぜあのとき、もっとよく考えなかったのか、と後悔している自分を。
 もしかするとあのとき本当に「あの人」が帰って来たのだろうか。
 そんなふうにも思えた。待ち続けていたおばちゃんは思いを遂げたのだ。水平線に到達して店を続ける必要もなくなった。迎えが来るということは幸せではないのか。僕も美津子もわからなかったけどきっとそうだったのだ、と感じられるようになった。
 数年の月日が過ぎた。
 ある晩、アパートの玄関の前で猫が待っていた。縞模様のきれいな奴で、こちらを見あげていた。
 おう、マルか、
 と声をかける。扉を開くと入って来た。浅い皿に水を入れて置くとしばらく様子を見ていたがチロチロ舐める。ごく自然な成り行きで棲みついてしまった。坂に居たマルと似ているとはいいがたい。だけどそれはやはりマルだと感じられた。餌をやるだけであまり管理はしなかった。アパートの規約ではペットは届け出が必要だったはずだが面倒なので放置していたのだ。首輪はないが他所の飼い猫かもしれない。執着しないのが大切、と考えた。
 ただし被写体としては活躍してもらった。
 表情が豊かで、絵心をそそるがカメラを向けると警戒するので撮影は難しい。動物は概してそうだが、猫は格別である。人と同じでご機嫌を取る必要がある。それゆえ、いいカットが撮れた時は嬉しかった。
 その頃、電子新報社は消滅した。
 正確に言うととあるメーカーに買収され、しばらく存続したが編集部は解散しほとんどの部員は契約終了となった。自分は記者として、あるいはカメラマンとして食う力量は十分とは言えず、当初はコンビニ店員などをしながらいわゆるフリーターとして日々を凌いだ。それでも売れない写真を撮り、写真館のラボで現像してはあちこちに発表しようと努力し続けた。デジタルカメラも使うが、現像液に浸した瞬間、印画紙にぼんやりと浮かび上がってくる銀塩写真には捨てがたい魅力がある。どこか外らかやってくるものであり不気味と感じることもあるが人為で制御できないからこそデータとは異なる真実がある気がした。
 猫の写真がアマチュアコンテストの賞を取ったときから状況が少し変わった。猫ブームということもあり仕事の依頼が来るようになった。もう一つがサボテンだ。美津子の家から持ってきたサボテンは今も元気で、撮影しているうちに面白さに気がついた。あれこれ買い増しして栽培している。サボテンに限らず多肉植物は世界的に人気があり外国から引き合いがあったりする。縁あって東大和市に見つけた工場跡に名ばかりのアトリエも構え、あちこちで写真教室を開催したりしている。
 写真は現実との対話である。
 ファインダーで画面を切り取るのではない。むしろ向こうからこちらに迫ってくるものを写すだけだ、
 こんなことを説明していると、
 君は写真家というより思想家だね、
 とカルチャースクールの校長に言われた。別に思想を気取っているわけではない。ただ知っていることを伝えたいだけだ。
 義彦の影響で山に入る機会も増え、札幌にもたびたび出かけた。義彦の師匠であるクマさんが地域の「顔」であり、いろんな仕事を融通してもらった。山岳写真にはそのジャンルの専門家がいてとても勝負にならないが、山小屋や近隣の里、そして町を行き来する人々の人間模様を撮影する者は少なく、仕事にならなくもなかった。ガイドブックなど観光業者向けや、自治体の宣伝写真なども厭わず引き受けている。特に春から夏の間は義彦が借りているマンションに留守番と称してしばしば転がり込み、自由な生活を満喫できた。おあつらえ向きなことにここでも近所の写真館のラボを格安に借りることができた。店主が年老いて営業を取りやめ放置されていたのである。店主は札南カメラクラブというアマチュアの団体を主催していたので、撮影会なども引き継いで運営した。メンバーは中高年の男性ばかりでたいした金にはならないが、地元との結びつきという意味では有効な情報を得られた。

 9
 あれは大通公園に面した老舗ホテルのロビーで会合が開かれた折だ。落ち合ったメンバーと立ち話していると、
 こんちわ、
 と声をかけられた。見知らぬ男が立っていた。新しい会員かと思ってどうも、と頭を下げると、
 とぼけないでよ。俺だよ、牟田口。
 ムタグチ?
 相手はじっとこちらを凝視している。白髪、増えたな、と。その視線にわずかな記憶が甦る。
 あの男、生きていたのか?
「荒木町のおばちゃんの店に来た、ラジオの人? 」
「そうですよ。弟さんを紹介してくれたじゃないですか。あの後、こっちに根が生えちまって」
「よく僕がわかりましたね、もう十年以上になりますか。いや二十年近いはずだ」
 平日、昼過ぎのホテルは閑散としており、開業当時のままの木目調の内装と赤いビロードの椅子は傷んでいた。シャンデリアの光は淡くうす暗いためか窓の外に大通公園の新緑が青々と燃え立つばかりに浮かんでいた。ポール・モーリア・グランド・オーケストラの「白い恋人たち」が流れ、昭和のまま時間が停止したような空間でそれはそれで落ち着いていいのだが、甘い旋律の陳腐さには辟易とする。それじゃあ、と別れても良かったのだが二人とも動かなかった。
「札幌でなにをしているのですか」
「いろいろと」
 改めてその姿を見直せばなんだか頼りない様子ではあるが一応、スーツ姿だし鬘かもしれないが黒々とした頭髪は整っており業界人の面影はほとんどなかった。
「弟さんに会いに来たのですか? 」
「ええ、彼は山に上がっていますけど、留守中、撮影で部屋を使わせてもらっています」
「弟さんにもあれっきり会っていない。元気ですか。あの山小屋、懐かしいなあ」
「音は撮れたのですか」
「音? ああ、どうだったかなあ。忘れちゃった。それよか、美津子、覚えています? 札幌にいるから顔を見に行ってやって下さいよ」
「美津子さんが? 」
「ええ。あんたの顔を見たらびっくりするぞ、きっと」
 美津子を忘れたことはない。
 だがおばちゃんの店で顔を見たのが最後だから、やはり二十年が過ぎている。どうして北海道にいるのか? 牟田口とよりを戻したのか? いろいろなことが頭の隅を過ぎった。だが過去の亡霊を呼び起こす必要はない、とも思えた。
「いや、会わない方がいいでしょう」
 と答えると牟田口は驚いた表情になり、そんなこと言わないで、きっと懐かしいですよ、お互いに、などと熱心に勧める。創生川から札幌インターに向かう県道にある中古車店にいるという。
 オートマーケット・ヒラキ
 店名を聞いて平木の顔が浮かんだ。あの平木なのか?
 詳しく聞こうとしていたところ、これこれ、とカメラクラブのメンバーが大きな声で叫んで額装したプリントをかざしている。新聞社の賞で入選したと発表されたばかりの作品でよほど嬉しかったのだろう。
 おめでとう!
 そう告げてからふり返ると結婚式の披露宴が終ったのかバンケットルームからあふれ出した礼服の群が押し寄せロビーはごった返している。 
 牟田口の姿は消えていた。

 中古車店のヒラキはすぐに見つかった。
 忘れるべきだと思ったが好奇心に打ち勝てず、創生川を渡り、高速の入口に向かって走ってみる。弟が山にいる間は彼の車を使っていたが、三世代前のジムニーでガタが来ていることもあり、中古車を見る口実はあった。
 五月晴れのいい天気で、町全体がキラキラ輝いている。
 AUTO MARKET HIRAKIと掲示された店舗に入り、空いているスペースに車を止めると、若い男が走り出て来た。
 愛想のいいセールスマンで、ひとわたりジムニーをほめそやし、十五万キロ走っていると知ると、そろそろ次ですね、と揉み手になる。
 彼によればコロナ禍やその他もろもろで新車の納車が滞り、中古車市場に客が流れた。玉不足に陥り、価格は上昇、それにも関わらず飛ぶように売れている。仕入れの困難は伴うがとにかく大盛況らしい。広い敷地には、価格を表示された車がずらりと並んでいて、乗用車だけでなくバンや軽トラックもあった。
 お勧めはこれですよ、
 とモデルチェンジ前の一つ古い型のジムニーを示される。ブルーの塗装が綺麗で確かに魅力的だった。こっちもどうです、と立て板に水のごとくセールストークが続く。奥にプレハブ小屋の事務所があり、たどり着いたのは十分以上経過してからだった。
 ガラスの引戸が開いた瞬間、緊張を覚えた。
 お客さんですよ、と男が叫ぶ。どんな顔で客を迎えるのだろうか。はいよ、という声がして女が出て来た。
 美津子ではない、
 と思った。太った年配の女性で地味な灰色の上下を身につけ短髪を亜麻色に染めている。首筋の皺が深く、頬も落ちくぼんでおり、疲れた様子だった。こちらを見ても特段の反応はない。
「平木さんは? 」
「社長ですか。今日は小樽に出ていまして」
 と答えた女はもぞもぞと部屋の隅にあるコーヒーマシンの前に移動して操作している。若いセールスマンは居住まいを正す。
「社長とお知り合いでしたか? 」
「ええ。知り合いというほどでもないけど昔、お会いしたことがあると思うのです」
「そうですか。ならきちんとしないと怒られちまうな。社長は義理堅い人だから」
 女がコーヒーカップを持ってこちらに近づいてくるとき、窓際にサボテンが置いてあるのが目に入る。
 ハッ、と胸元が締め付けられる気がしたが思い切って、
 もしかすると美津子さんですか?
 と尋ねた。女はしゃがんでカップを置きながら、はい、と頷く。その仕草に覚えがあり氷の塊のように胸元に突き刺さった。
「昔、東京の四谷でご一緒したことがありました」
「そうでしたか? 」
 見開かれた瞳の奥でわずかな光が遠くを探っている。
「忘れましたか。僕ですよ、篠田です、カメラマンの」
「ああ、そうでしたか、たぶん、そうなのでしょうね」
 気まずい沈黙が訪れる。とぼけているのか、本当に忘れてしまったのかは俄かに判断がつかない。これ以上、見ていられない、と思った。尋ねたいことはいろいろあった。あの後、なにがあったのか。どうして平木の店にいるのか、結婚したのか。だがそれはいかにも無礼な振る舞いである。
 コーヒーは苦みが強く、お世辞にもおいしいとは言えなかった。セールスマンのほうは憑かれたように車についてあれこれ並べ立てた。女はデスクに座ってぼう、っとした表情のまま外を見ていたが、やがて言葉もなく奥に引っ込んでしまった。
「奥さんはなかなか難しいみたいです」
 とセールスマンが説明する。
「社長も困っていましてね。腎臓だったかな、病気をしてそれは治ったのですが、退院後、今度は鬱になったみたいで」
 返す言葉もなかった。
 店を出てジムニーを走らせている間もまるで上の空だった。街の明るさは変らないのにすべてが現実離れして見えた。
 夢を見ているのか?
 そう、夢に違いない。僕は夢から降りそこねた。いや、降りそこねたのは美津子のほうか。あれは美津子ではない。彼女の魂は今も飛翔している。UFOとなって夜空を縦横無尽に駆け回っているに違いない。憑かれてしまったのだろうか。そう考えると底知れぬ恐ろしさに捕らわれた。
 駐車場に車を置くとふらふらとあてもなく歩いた。
 すべてがよそよそしいものに思え、馴染みのある札幌の街なのにまるで自分が異星人であるかに感じられる。はみ出してしまった。そして戻ることはできない。きっと鬱病はこんなふうにして始まるのだろう、と考えたりした。実際、それから一週間ばかり食事をするのも億劫だった。
 牟田口はどうして美津子の居場所を知ったのだろうか。
 いや、そもそもホテルで出くわした牟田口の存在が怪しいと感じられた。ずいぶん前に、彼は死んだのではないか、と弟は言っていた。牟田口はこの世にいない。ならばどうして姿を現したのだろう。これは手の込んだ復讐なのか。それとも妄念なのか。

 街は今宵も蠢いている。六月に入って都内に戻ると七日の夕方にはカメラを手に荒木町に向かった。暮れ方の光は昔と変らない。
 さすがに猫もいなくなったのか、
 とおばちゃんの店があった場所でシャッターを切る。ファインダーに切り取られたのはコインパーキングの画像で飲み物の自動販売機が置いてあるだけだ。他人には意味をなさない。野良猫がいようがいまいが、大方の人々には関係ない。
 しかし僕はいつまでもカメラ片手にマルの姿を探していた。こんな坂道ならきっとどこかでうずくまっている。目を細めて待っているはずだ。
 ほら、ここにいるよ。
 やあ、久しぶりだね。
 そんなことないよ。ずっとここにいたよ。今までもこれからも、ずっとここにいるのさ。ファインダーばかり覗いているから気がつかないだけだよ。
 猫は僕らよりもずっとしたたかだ。
 そうだ、おばちゃんが言っていたみたいに内側ばかり見たらだめなのだ。外を見ないといけない。水平線を見つけないと。美津子は今も見つけられなくて「皮」に阻まれている。
 おばちゃんが夕陽を見ながら佇んでいるのが見えた気がした。あれはただ立っているのではない、あの人を待っているのだ。そう、あの人、とはおばちゃん自身のことでもある。永遠に失われた、従ってまた永遠となった二人の結びつきの証なのだ。写真の中からいつまでもこちらを見つめている。そこには僕自身もいる。
 上ったら下る、下ったらまた上る。
 マルは足元であくびをした。
 そんなものかねえ、と。その瞳を未確認の光跡がいくつも過っている。
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登場人物紹介

僕、篠田は写真家志望の記者。荒木町の居酒屋に通い、美津子に出会う。

ラジオのパーソナリティ。UFOに関心がある。

牟田口。ラジオのディレクター。行方不明になる。

平木。元自衛官。UFO目撃の「名所」だった富良野のドライブインの廃墟を親から受け継ぎ所有している。

弟、義彦。山小屋の主人。冬季はススキノの酒場で働いている。

マル。行きつけの居酒屋で飼われているネコ。

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