第1話

文字数 1,997文字

 ここで厭味ったらしい自慢をひとつ。わたしの一族はめちゃくちゃに金持ちである。
 親の七光りもあり今般、わたしは結婚することになった。そうとくれば例の避暑地へ一族郎党を招集し、そこでのんびりプールに浸かって顔合わせということになる。
 参加者は曽祖父母、祖父母、父母、そしてわたしと婚約者の総勢16名。大所帯である。
 大きく伸びをして陽光のまぶしさに目をすがめた次の瞬間、まったくありそうもないことが起こった。
 わたしと婚約者を除く一族郎党全員が、申し合わせたかのごとくいっせいに溺れたのだ。

 これは壮観だった。14人が助けを求めてもがいている。よりにもよって足のつくはずの浅いプールで。われわれはたまたまプールサイドに上がっていたのである。
「ちょっと、どうするの?」彼女の一声でわれに返った。「助けなきゃ!」
「そうしたいのは山々なんだけど、ちくしょう!」わたしはがっくりと膝をついた。「糖が不足してて力が出ない。どうがんばっても助けられるのは二人までだな」
「そんな。でも誰を助ければいいの?」彼女はじっと水面に目を凝らした。「みんな一様に苦悶の表情を浮かべてる。これじゃあ誰が誰やらわからない」
「ということは、ぼくの包括適応度が下がっちまうじゃないか!」
「こういうことね? 等親が離れるほどあなたと家族の遺伝的相似率は半減する(図1 包括適応度早見表参照)。いちばんいいのはご両親を助けること。これなら50%+50%=100%でとんとんね。最悪なのは死にかけのジジババを助けちゃうこと。これだと12.5%+12.5%=25%、問題外ね」

図1 包括適応度早見表

12.5% 25% 50% 50%
曽祖父┐
   ├祖父┐
曾祖母┘  │
      ├父―┐
曽祖父┐  │  │
   ├祖母┘  ├―子
曾祖母┘     │
曽祖父┐     │
   ├祖父┐  ├―子
曾祖母┘  │  │
      ├母―┘
曽祖父┐  │
   ├祖母┘
曾祖母┘

「ふうむ。溺れてるのは14人で、そこから二人だけを助け出せるとすれば、その可能な組み合わせはこうなるな」
 14C2=14×13/2×1=182/2=91
「やみくもにプールへ入っていってお義父さんとお義母さんを救助できる確率は、だいたい1%強ってところね」
「なんだって死にかけのジジババが勢揃いしてるんだ? 連中さえいなけりゃもっとましな賭けになったのに。つまり」
 6C2=6×5/2×1=30/2=15
「6%強。……あんまり変わらんな」
「あんまり変わらないね」
「とにかく、ぼくの包括適応度を最高に保つにはどうしたらいいか考えないと」
「ところで包括適応度ってなに?」と婚約者。「それとなんで等親が離れるとそれが減るわけ?」
「常染色体は23対46本、性染色体は23本だけ。なぜかと言うと」ラジオ体操を特急でやりながら、「男女それぞれの性染色体が合わさって46本になるから。減数分裂ってやつだ」
「ふむふむ」彼女はチョコレートミルクをのんきにすすっている。
「これが両親から50%ずつ遺伝子を受け継ぐという話の意味だ。いっぽう遺伝子の相似率は世代を経るごとに半減する」またぞろ怒りがもたげてきて、拳をプールサイドへ叩きつけずにはおれない。「棺桶に片足突っ込んだジジババさえいなけりゃ!」
「ふむふむ」彼女は二杯めのチョコレートミルクに取りかかっている。「遺伝子の目的は自己複製だから、遺伝率の近い肉親を助けたがる傾向を持つはずだってことね」
「いかにも。それが血縁淘汰仮説だ」特急のラジオ体操は終わった。あとは飛び込むだけだ。「包括適応度はそれの根幹をなす概念。利己的な遺伝子を持つ動物がなぜ利他行動をするのかを鮮やかに描き出してる」
「で、どうするの。1%に賭ける?」
「それをいま考えてるんだ」
 相変わらずプールは阿鼻叫喚の地獄である。どうやってもっとも遺伝率の高い両親だけを選択的にサルベージすればよいのか……。
「なんてこった」天啓が下りてきた。「家へ帰ろうぜ」
「いい加減お腹も空いてきたし、実を言えばもう帰りたいけど、あなたの包括適応度はどうなるの」
「図1をよく見るんだな。ぼくたちが早晩結婚することも忘れずに」
「降参ね」彼女は肩をすくめてみせた。
 踵を返して別荘のほうへ戻る。困惑しながらも彼女はついてきているようだ。
「きみは野球チームが一丁上がるほど子どもをほしがってたと思うが、その気持ちに変わりはないか」
「急になんの話なの?」
「なにも遺伝的に近い肉親は両親だけじゃない。子どもも同じ遺伝率なのさ」
 呆れた調子でため息をついた。「はいはい。あたしが最低二人産めばいいわけね」
「そう腐るなよ。この作戦には途方もないおまけがついてくるんだ」
「聞きましょうか」
「いまプールで順次溺死してる連中の莫大な遺産」
「あなた」彼女が後ろから抱きついてきた。「もう何人でも産んじゃう!」
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