るるせ様と秋照の死生観対談

文字数 8,826文字

ここはるるせ様と秋照の死生観対談の地です

言い出しっぺが自分なので自分の死生観をまずは適当に語らせていただきます


私は生命の存在を認めておりません

よって生も死も実在しないものとして考えております

当然、天国や地獄といったあの世や来世、転生や現世すらも存在を認めておりません


では現に実在する自分自身とは何かと反論される気がするので、自分自身の命というのは自分以外の要素が無数に積み重なって偶然存在しているものであり、そこに生命という具体的な存在はない、とそういう風に思っているよ

秋照さん、そしてみなさま、よろしくです!! 僕は成瀬川るるせと言います。
るるせさんこちらこそよろしくお願いします
生命の存在を信じない、かぁ。なるほど。

でも、ちょっと気になるのが、西洋だと「人間」と「動物」って、伝統的には同じ「生命」だとは見做さないんですよね。家畜とかは「食べるために神がつくってくださったもの」ってのがあるけど、それ以上に。

例えばハイデガーって哲学者の話がわかりやすくて、人間を「自己が人間であることを知っている」=『現存在』である、と考えて、〈ほかのすべての生物〉とわけた。

『生命の存在』って秋照さんが言うとき、それが文脈上、「人間」を指しているように思えてしまったので、ちょっと今述べたことを思い出した。


でも、そうじゃなくて、生命とされるものは『モジュール』って感じで捉えてるのかな、と思ったのですが。IT用語のモジュール。脳はモジュールだ、っていうのもよく言われてて、「魂」的な奴が入り込む余地ない考え方ですよね。

子供は親を選べない」。たまたま親が親だったという話。自分以外の要素が無数に積み重なって偶然そういう遺伝子で生まれてきてる。〈組み立てキット〉に近いのかもしれないなー、と思うことは僕にもあります。
あとは、やっぱ「シミュレーテッド・リアリティ」みたいな感覚
シミュレーション仮説って言って、そもそもがこの世界はシミュレーテッド・リアリティでシミュレーションされた世界であるってやつ。世界の一切は偽って立場
円城塔『Self-Reference ENGINE』やその元ネタの『ディファレンス・エンジン』も、世界の根本が、そういう世界観だったような……(うろ覚え)。

信じる信じないではなく認めていないというだけです


生命と非生命(物質)の境目を設定しているのは誰でしょうか?

具体的な根拠は存在しません

なぜなら社会や共同体の維持のために設定されているだけだからです


本題ではないかもしれませんが、家畜と人間の違いを設定するのは人の暮らしを豊かにするためという目的に向かって設定されているのでは?


自分の考えでは生命というのは社会的な視点で無理矢理設定されているだけの架空の存在です


例を挙げると、西洋の考えでは現世で真面目に生きていれば天国に行けるという考えがありますよね

現世で犯罪を起こされると誰かが困り社会の秩序が乱される

それを防ぐために命は尊いだとか悪いことをすると天国へ行けないという架空の概念を人に植え付けているだけです


これを書いている間にるるせさんが加筆されていたので追記します、

真偽の境目を決めるのも人間が人為的にやっているものにすぎません


人為的に設定されてしまっているので自分はそれを勝手に利用させてもらっている

そういう考えです


とはいえ、自分が書いていることはロマンの欠片もないです

おおよそ多くの人には理解されませんし共感されません


るるせさんはどうでしょうか?

実は僕、ホログラフィック宇宙論の世界観でSF小説を準備していたんだよね。今ここで言っちゃったからネタをパクられるかもだけど。どういうものかというと、wikiから抜粋すると、全宇宙は宇宙の地平面上に「描かれた」2次元の情報構造と見なすことができ、我々が観測する3次元は巨視的スケールおよび低エネルギー領域での有効な記述にすぎない、って話。

これ、生命もクソもねーだろ、って感じの死生観を植え付けられるw

あ。僕の立場は、「人文知はすべてフィクションであり、そのフィクションがないとひとは生きられない」という考え方です。それは、憲法などの法律もすべてフィクションということです。社会契約はフィクション、言い換えれば〈思考実験〉です。同様に、僕は大学の講義で「宗教とは前提を欠いた偶発性を馴致する装置である」と習ったのですが、要するに頭の理解が及ばないことが起こった場合(つまり、偶発的になにかが起こってパニックになったとき)、それを〈無害化する装置〉として機能するのが宗教である、ということです。そこは僕のベースになっている。
根拠がない、というのは、結局無限退行していってしまいます。根拠の根拠の根拠の根拠は……と言った具合に。そのため、多くのひとはどこかの段階でなにかを「認める」。認める、というのは根拠がない世界のその根拠の無限退行をどこかの時点で切断することだと思っています。諦める、とも言う。

「具体的な根拠は存在しません。なぜなら社会や共同体の維持のために設定されている」というのは、僕の場合、今述べた話の延長で。社会や共同体はそれを維持するための、ルールというフィクションを用意する「社会や共同体のため」という根拠(もちろん、この根拠の根拠は考えていくと、根拠なんてないのですが)という紋切り型の言葉で切断することによって、認める……受け止められるかたちに出来る。根拠がない不安を無害化するんですね。僕はそう思うのですよ。

私の考えではそれを『認める』や『諦める』も人為的設定と呼びます
「真偽の境目を決めるのも人間が人為的にやっている」というのは僕もそういうわけでそう思います。境目を決めないと、絶えず不安にさらされる。だから、悪い言い方だけど、本当は境目なんてその所在がわからない場合でも、「割り切って断行する」。つまり「切断する」=「不安を断ち切る」。断行というのは、個人で出来る範囲を超えている場合、権力という装置で断行する。権力とは、国だったり共同体だったり、色々ですが。不安は無害化しないと、社会や共同体が成り立たない。
人為的とは恣意的なものである、というのは言える。恣意的とは、辞書的には「主観的で自分勝手なさまを意味する表現。 行動や考え方に戦略がなく、気ままなことを表す語。 「思うがまま」「気ままに振舞って」という意味合いを持ち、論理的な筋道が通っていないことでも、本人が自分勝手な考えで物事を進めていく状態を指す」言葉で、〈誰かの思惑〉が入る。誰かの考えだから、反対の意見を持つひとは憤慨する。さっき僕が話した無害化も、誰かにとって、であって、万人にでは、ない。反対意見からすれば、自分勝手に他ならない。
今の僕の話は、境目の線引きの話でした。そして、線引きに根拠はない(ひとがつくったフィクションだから。利害関係はあるけども)。人為的設定とは、僕風に言うと、こうなるのですが、やはりまた違う意味合いがあるのだと思います。秋照さんの〈人為的設定〉とは、自分の中で定義された厳格な意味合いを持つ造語だと思われるので、近寄れるとしたら、このくらいまでですね。
秋照さんは、自分の世界観を大切にされておられる方だという印象を受けました。
では、僕は今夜はお風呂に入って、しばらくしたら眠ろうと思います。「時間を限定しない」ということで、明日以降、またなにか書き込みたいと思います。……と、思ったら日付が変わっていました(笑)。

道元が「花にも月にも今ひとつのひかり色おもひかさねず」って言ってて、それを諸法実相っていうんですよ。なんかそれに近いなにかを感じました。

では、おやすみなさい。

16日でーす

昨日深夜はいろいろとありがとうございました

では次にるるせさんの死生観を聞きたいなあ

こんにちは。16日になりましたね。昨日はありがとうございました。
どんなときに一番「生きるぞ!」と思ったかというと、救命救急病棟で生きていて目が覚めたときだった。オーヴァードゥーズで死にかけていたときには普通胃洗浄ってのをやるんだけど、それじゃ無理で100%死ぬってときに、首の大静脈に穴を開けて、そこから心臓の近くまで管を通して液体を入れて血中濃度かなんかをどうにかするってことになって。

目が覚めたら、救命救急病棟で、そこって仕切りもなにもなくて、漫画に出てくる野戦病棟みたいな感じなのですよ。で、まわりのベッドで寝ているひとがガンガン死んでいくし、新しい患者もガンガン運ばれてくる。で、新しい患者もガンガン死んでいく。

その中で、僕は生きている。もちろん、性器にはカテーテルとかブッ刺されていているし、首にも管が通されている。動けない。でも、「確かに僕は生きている」と思う。

酷いよね、ほかのひとが死んでいくのを間近で見ながら、僕は人生の中で一番「生きていたい!」って思う瞬間が訪れるんだから。

まあ、感動的な話ではありますね
死にかけたときは一回だけじゃないし、臨死体験もしているわけだけど、だからこそ、死生観ていう言葉よりは「生きることに執着する自分」と「死にたがっている道化師の僕」のせめぎ合いっていう、どちらかというとリアリスティックに現実だけを見ているってのがしっくりくるかなぁ。
感動はないですよ。他人が死ぬのを見ながら自分が回復していく上に、生きていたいって思うなんて、ただの酷い奴ですよ。
ひとが死んで、家族が訪れた場合は、ベッドに横たわってる死体を見て、家族が泣きじゃくっている。家族も誰も来なくて、そのまま運ばれていくひともいる。みよりがなければ献体になっちゃうかもしれない。

僕はうつろな目で天井見上げながら「あー。なんだこれ……」って呻いている。

割と実体験や生に近い声なので参考になりますね
ただ、誤解のないようにお伝えしておくと、秋照は自死推奨論者です

祖母の葬式も全く悲しくなかったですし、命が尊いという話をされても表面上相手に合わせるにすぎません

という相手には、るるせさんが言っていることはどう説明されますか?

オーバードゥーズというのは要するに自死しようとしてそうなったんです。


胃洗浄の経験が何度もあります。自傷ではなく、自殺未遂の経験です。

僕は「死ねなかったひと」なんです。救命救急病棟の話は、そこに繋がります。

ひとはすぐ死ぬし、「生きたい」と思うけれど、すぐにまたダメになる自分を美化したいわけでもない。そんなナルシズムは、僕にはないです。
お辛い経験をされたんですね
命が尊いとしたらそれは儚いからだろうなぁ、と思います。

身近なところで、自動車って身近だけど、すごい凶器になる。凶器はそこらじゅうにある。

自分のことはさておき、他人の命を尊重できなければ、ひとの命を奪うひとは多くなるという考えもある。だって、殺したい奴なんてたくさんいる。少なくとも、僕には殺したい奴はたくさんいる。

でも、法律の関係で殺さなかったわけじゃない(僕は自分の死を選んだ。でも、死ねなかった)。

尊いから殺さなかったわけじゃないけど、教育として、他人の命を尊重する、ってことは、した方が良いかもしれない。


逆説的かもしれないけど、「なぜひとを殺してはいけないか?」と訊かれたときに、殺しちゃいけない理由なんて本当は説明できないですよ。絶対にその説明には穴が出来る。

だって、戦争はひとを殺すことを推奨する。

仲間と敵をわけて、仲間を守って敵を殺す。

歴史って、そうなってここまできた。

自死は推さないけど、でも、死ぬか生きるかは自分で考えてほしくて。

推奨って言葉は「推す」って意味がある。推さないですけど、自分で考えて、それでも死にたいひとがいた場合に、僕は止められない、というのはあります。

ひとの命は儚い。すぐ死ぬ。

でも、そこから儚いから尊いんだって思うひとがいたら、止めに入ると思う。

ただ、尊いってのは、さっき書いたように、欺瞞かもしれないです。

ひとの迷惑になるから、死ぬのやめてくれ、というのと、おまえはおれに迷惑だから死んでくれ、という自分勝手なことを、他人は多く言う。そいつ自身が殺すんじゃなくて、勝手におまえが死んでくれると嬉しい、みたいに言われ、自死したくなるようにいじめられたことはたくさんある。それに屈して死ぬのはつらい。でも、あまりにそういう人間関係は多い。

「知らない人たちから悪口を言われています」と精神科医などに話してしまうと、「知らない人はあなたになんか興味がないので悪口は言いません。それはあなたが病気だからそう感じるのです」って、確実に言う。でも、その会話、やっぱおかしくないか? と思う。だって、ひとはひとに悪口言う。「ブッサ」「ダッサ」「キモ」とか。ひとはひとに死んで欲しいとき、直接殺さないで、精神的ダメージを与えて、死に仕向ける。知り合いにだけじゃなく、知らない奴にも、精神的ダメージを与えて喜ぶ。

繰り返すと、僕は死ぬか生きるかは、自分で考えて欲しいと思ってる。死ぬのは推さないけど、実際僕は何度も自殺未遂しているから、ひとの死を止めることはできないし、僕に攻撃をしてくる奴の命は、やっぱり尊いとは思えない。

そういうスタンスです。

超絶分かるわー

俺も近所にミッションスクールがあって頭ハッピーセットなJKが無数に家の周りを通過していくんだけどね、彼女たちが通学路でゲラゲラ笑うたびにるるせさんと似たような感じがしますよ

あと、本題からはそれますが買い物行くとき店員に日雇い労働者だとばれたくないので、毎回スーツ着て買い物に行ったりとかしてますね


実のところ店員はそれほど気にしてないとは思いますが

ちょっとタイミングを見失うと書きたいことが書けないので、言いたいこと一方的に言うよ

お目汚しして申し訳ないんだけど


死生観なんてエゴの塊にしたほうが得だと思いますよ

それこそ死にたいなら死ね、のほうがみんな得です

なぜって、死んで困る人間なんてこの世にいないんですからね

具体的な困りごとなんて人の生き死にで発生しませんから、楽しいとか嬉しいとか気持ちいいとかそういうエゴで生きたほうが結果的に得だと思うよ

俺が死んで困る人間なんていないでしょ?

るるせさんが死んで困る人間なんて10人もいないでしょ?

死んだら悲しい、ぎゃはははは

ほーん、じゃあ殺したほうが嬉しい人は殺すのかね?

そんなわけがないでしょ


と、いう話を支えるためには自死推奨論を構えざるを得ませんね

命は人間のエゴ

なら死ぬのだって人間のエゴ

当然殺すのだって人間のエゴです

自分はたまたま殺さないほうが得だから殺してないだけだよ

とする一方で、エゴをむき出しにしすぎて失敗したことも自分自身多いのでね、あいまいな表現ですがバランスをとることは避けられないですねえ
ただ、ちょっとルサンチマンに思えてしまうところではある。


自死っていうか、「みんな死ね!」に見えるし、見えて良い、ってことなんですよね。


そう、困るか困らないかで言うと、家族はお金がかかるので困るんだけど、そういう意味じゃない死んでは困るよ、って人間はいない。代替可能ですよね。

それに「ぎゃははは」ってのはその通りで、例えば嫌われ者の僕が死んだら笑われるし、僕が死んだら笑うメンタルの奴らがほとんどだと思いますね。


何故かっていうと、秋照さんが言うまでもなく、かなりの数の人間は、エゴむき出しで生きているからだと思います。バランスを取って、社会生活を送れるようにはするけど、エゴで生きてる。

あえてエゴむき出しの方が、って言われるまでもない。

彼、彼女らの多くは、他人に対しては呪詛や怨念で生きるようになっていく。


なるほどなー、と思いました。

でも、自死推奨(要するに「死んだ方が良いよ!」って突きつけること)はしないかなぁ、僕は。

生きるのが下手なひとたちっていうのがいる。どんな社会になっても一定数は存在してしまう。生きることそれ自体に適応できないひとってのはいて、それは本人が悪いわけじゃない。他人もそういうのには敏感で、生きることが下手な人間を、攻撃の的にしてしまいがちです。社会はそれに対し、生きるのが下手な人間を包摂する、とか言いながら、実際やってることは隔離だったりする。

「牛頭、草をなめて病者を悲しみ、断し車をあやつって迷方をあわれむ。三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることをしらず。生まれ生まれ生まれ生まれ生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」って空海の言葉があるけど、そうだよな、と思うのでした。

「古代の神農は、薬草を見出して病気の者を思いやり、荀子は車を作って迷える人々を導いた。迷える世界の人々は、自分たちが迷っていることをしらない。あらゆる生き物たちは、自分たちが正しい目を持っていないということをしらない。そんななかで、何度も何度も色んな世界で生まれ変わったとしても、その原因が分からず、何度も何度も色んな世界で死んでいっても、それから後のことは全くわからないのである」ってな意味の言葉なんだけれども。


死生観もなにも、話を戻すと、秋照さんが「私は生命の存在を認めておりません。よって生も死も実在しないものとして考えております。当然、天国や地獄といったあの世や来世、転生や現世すらも存在を認めておりません」と、話していたけれども。

認める認めない、の前に、上記の空海の話はなにが言いたいのかな、と考えると、要するに、「わからない」のひとことになる。生まれた、その原因も、死んだその後のこともわからないし、それ以前に、わからないこと自体がわからない。

僕も、なにもわからない。おそらく、今後なにを学んでいっても、なにもわからないと思う。

認めるとか認めないとか、そういう段階まで至れない(だって、言葉は悪いけど、「認めない」って結構上から目線な言葉でもある)。

死生観と言ったときに、考えるのは生きているこの瞬間のことでありたいと僕は思う。

もちろん、生きてるも生きてないも存在しない、ってのでもいい。

でも、僕はこの瞬間のことを考えたい。

そうか、よかったじゃないか

わからない、ということがわかって

ご自身の考え方をよく分析されていますね

うーむ、僕はみんなから「こいつ、わかってねーな」と思われてたのかな。でも、「わかってる」ってなんだろうか、と疑問を持つのが僕の立場です。各々が自分内ルールを持ってて、他人の主張が自分のその自分内ルールに批准するかジャッジして「こいつはわかってる」「こいつはわかってない」ってやってるだけだもん。すごくくだらない。くだらないけど、そういうのに巻き込まれることが多いので、くだらないとは思われてないんだろなぁ。
僕は死生観というより僕は今この瞬間しかなくて、そして秋照さんはそもそも死生観ていうのを認めていない。

秋照さんは死生観にまつわる、流布している〈概念〉の否定をしていて、独自の考え方・概念を持って生きている。独自の立場から、それを行動で示すために自死推奨論って活動をしている。


お互い、噛み合わなそうなんだけど、多くのひとから見たら二人とも〈異端〉であることは確かで、その点では噛み合うと見えなくもないだろうな、と思いました。

『死生観対談』と銘打ちつつ「死生観?www なにそれwww」みたいなのがこの対談だった、というのが、僕が抱いた印象です。
要するに、斜に構えている、という。

対談をやると体力が削られて小説が書けない、というのがわかったので、勝手にまとめに入っちゃいましたが。

有意義だったな。成瀬川るるせは浅薄な奴である、というのがとてもわかったと思う。

一方の秋照さんは、てこでも動かない性格。

楽しかったな。

NOVEL DAYS、これを書いてる現在、評論が流行ってるみたいなんだけど、このコラボノベルも、読んで欲しいなぁ、と思ってます。

るるせが自滅していく過程が観れて、痛快だと思う。

噛み合う必要がなぜあるのでしょう?

自分はるるせさんの話から得られたものはたくさんありますし、生きている人の生(なま)の声を聴けたので大収穫祭です

台本なしで語り合えば混沌とした会話になって当然ですし、自分はるるせさんの感じ方が異端だとは思いませんよ

自分はるるせさんの考えや体験がくだらないとも思いませんよ

ありがとうございます。

僕はひたすらに否定されて生きてきて、偏屈になってしまったのだと思います。自分を否定されるのはキツい。エゴは出した方がいいな、と思います。

「エゴで生きる」は多くの自己啓発では基本中の基本だけど、僕は自分のことが信じられない場面が多く、そこを抜けられないでいる。


秋照さんにとって大収穫になったのなら、僕もハッピーです。

自己啓発の中のエゴっていうのは、『カルネアデスの板』って呼ばれるやつですね。これの肯定を、実際の場面はともかく、思考では意外とみんな出来ない。そこで、エゴの肯定をしていく。
秋照さんは、ちょっとだけ見るとトリッキーな主張をしてそうなんだけど、よく読むと、すっごいまともなことを言っている。〈流浪のトークノベラー〉の肩書き、伊達じゃない。

僕も大収穫でしたよ!

ああ、秋照さんの話と『カルネアデスの板』は関係ないので、あしからず。
スリリングで楽しかったぁ。

みんなもコラボノベル、やってみるといいよ!!

まきえ肴さん、お疲れ様ですー。
まあ、なんだ?

病気になったら親に家を追い出されて、暮らしてくための仕事が会社で犯罪行為だったらたいていの人間はこうなるんじゃないかなあ?

秋照さん、コラボノベルにお誘いくださり、ありがとうございました。

こういう場があるからこそ、尖った話も出来た。

普通に生活してたら、途中で会話はシャットアウトされてしまいますからね。

書いててスリリングでしたよー。

こちらこそありがとうございました

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