【雑談】電波観測所

[日記・個人ブログ]

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111件のファンレター

夢のお告げ(嘘)で始めました。日記を書こうとしたら雑談になりました。不定期です。

ファンレター

11話~20話拝読しました

苦行についての佐久田さんの率直な意見、とても面白く読みました^^「人里に降りてきてボランティアでもやった方がいい」「もっと人と絡んで泥にまみれた方が修行になる」というのは、断食行などの苦行全般に対してのツッコミですね!
以前読んだ、『タイ仏教入門』には次のような説明が書いてありました。出家者の修行の目的は自己の救いにある。出家することは、修行のために全力を投入する態勢を意味している。修行のさまたげとなる人間のきずなを全て断ち切って、世俗の幸福とは無縁な徹底した個人主義を求めること。修行者たちにとって、世の人の救済は出家の目的ではなく、本源的な任務ではない。
千日回峰行は天台宗なので、タイやミャンマー、ラオスなどの上座仏教とは違いますが、修行者が苦行をする意味は同じなのではと考えます。座禅や瞑想や断食は、自己を救済するための効率的な自己訓練の方法の一つなのでしょう。
「社会に対する貢献度がよくわからない」という佐久田さんのツッコミには思わず笑ってしまいました^^ タイでは「仏教には社会性がない」という批判がキリスト教の宣教師や欧米留学の経験を持つ国内インテリ層から出されて、バンコクのスラム地区で仏教日曜学校(貧困児童の救済・教化をめざしたセツルメント運動)が行われるようになったのだそうです。ただ、出家者集団は超俗的でなければいけないので、社会福祉活動を行うのは在家者の役割なのだとか。
一方で、十牛図の入鄽垂手は、悟りを開いた後に再び俗世に入り、人々を救済するという思想で、自己の救済のみに専念する思想とは違うなぁと思います。もともとは同じブッダの教えが、さまざまな伝承者によって全く違う解釈が生まれ、発展していったのが分かって、面白いですね。佐久田さんのエッセイ、引き続き楽しみにしていますね!

返信(3)

mikaさん、とても勉強になりました、ありがとうございます!(^^)
タイ仏教の修行者たちにとって、出家の目的は自己の救済で、世の人の救済は本源的な任務ではない、と。目から鱗でした。
私、シッダールタが山に籠もって断食とか苦行を何年か続けて死にそうになって、村の娘スジャータに乳粥をもらって生き返って、今までの苦行の無意味さを知り瞑想で悟りを開いたという中途半端な記憶があったので、「お釈迦様は苦行を推奨していないのに」という思いが頭の片隅にあったんですよね。(笑)
「出家者集団は超俗的でなければいけない」なるほど、それも驚きでした。

そして『十牛図』は禅なので仏教かと思ったのですが、あやふやになっていました。
私はいろんな宗派をざっくり「仏教」と見ていたのですが、調べたら結構違うんですね。「上座部仏教」は救われる対象が「出家僧」で目指す方向が「修行による解脱」、「大乗仏教」は救われる対象が「すべての人」で目指す方向が「他者を救う利他の行い」とか。「上座部仏教」が初期仏教なんですね。私の中で仏教イコール大乗仏教になっていたみたいです。
mikaさんの知識量は本当にすごいですね。多分、私、今後も浅い知識でやらかすと思いますので、なにか気がついたことがありましたら、また教えてください(^^;)よろしくお願いいたします。<(_ _)>
わたしが参加している読書会に、仏教に詳しいメンバーがおられるんですよ。もともとは国語の先生で、校長先生まで勤め上げた後、佛教大学で学ばれて、趣味でパーリ語の仏典を研究されています。いつまでも勉強熱心で尊敬する女性です。わたしは仏教に詳しくないのでいつも教えてもらってます^^ 経典で自分で読み通したのは、般若心経と阿弥陀経だけです。漢訳(日本のお坊さんが唱えるあれ)は難しいので、英訳で読みました。漢訳で意味を訳さず、音だけ訳している箇所が、英訳ではちゃんと意味を訳しているんですよ。例えば、「般若波羅蜜多」という音訳の部分、英訳では「知恵の完成」とあります。觀自在菩薩が「知恵の完成」のために研究をしていたんだな、と分かるんです。だから英訳おすすめです! どうせパーリ語もサンスクリット語も読めないんだから、わかりやすい翻訳で読んだ方が良いです^^

千日回峰行は、天台宗の行事ですが、山の宗教(修験道)との結びつきもあるのではないか、と考えます。これは仏教民俗学の分野になるのですが、山に登る苦行によって、身をもって懺悔し贖罪するのが山の宗教なのだそうです。この懺悔贖罪は個人のためではなく、社会全体のため、または村落共同体に代わってする。これを「代受苦」と呼ぶそうですが、共同体の安全のために修行者が代参して、災いの原因となる罪と穢をはらう。庶民の宗教であった山の宗教の根底には、この代受苦精神があったのだとか。
平安時代の修験道は、人々の罪を贖うために、人々に代わって命を捨て、神の怒りをやわらげなければならないと本当に考えられていて、「難行苦行捨身の行」と『古今著聞集』などで書かれています。山の行場から捨身したり、焼身する僧尼があとをたたず、大宝律令の僧尼令で「焚身捨身」が禁じられたのだそうです。すさまじいですね。人々の罪を贖うためにイエス・キリストの受難があるのと似ていますね。
輪廻転生思想では、現世の不幸(貧困や生まれつきの障害や病気など)は前世で犯した罪によると考えるので、現世における不幸から解放されるためには、懺悔贖罪が不可欠だったのでしょうね。かつて千日回峰行に取り組んだ修行僧たちも、自己の救済のためばかりではなく、疫病や天災に苦しむ故郷の村のためを思って、代受苦精神で山を歩きまわったのかもしれませんね。
長々と書いて、失礼しました。佐久田さんのエッセイのネタに何か役立ててもらえたら、うれしいです^^
mikaさん本当にありがとうございます!すごく理解できました。
mikaさん、般若心経と阿弥陀経を経典で読み通すなんて、私からするとそれは仏教通ですよ。(笑)そしてmikaさんは一体何カ国語操れるのですか?
千日回峰行と修験道との結びつきは、こう、なんていうか、とても腑に落ちました。
「代受苦」精神や「難行苦行捨身の行」なのに、「社会に対する貢献度がよくわからない」なんて、私ったら酷い……。そして凄まじい歴史があるんですね。なんにも知らずに本当にすみませんという気持ちです。(-_-;)
非常に興味深い刺激的なお話しで、思わず前のめりになりました。ありがとうございました、感謝です!