統合失調症・三昧

[日記・個人ブログ]

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4件のファンレター

二十代の半ば、私大医学部在学中に統合失調症を発症し、急性期を経てからはや二十年。大学は中退し、幸運にも、基本的には社会で働かせてもらいながら生きてこれた。その間にあった様々な出来事などを振り返りつつ、妻と二人暮らす今の事や、未来に向けての何かを綴りたい。およそ二十年間、統合失調症者として(かりそめにも社会でもまれながら)生きてきたにんげんの呻きと哄笑をここで響かせたい。

ファンレター

愛する理へ

意識することは、他者を意識しそこに存在しているというファーストステップの段階です。意識してなかったら、人とぶつかってしまいます。
意識すること、生きている存在しているそこにいる。それで安心することもあります。相手が安心できる人だと認識すると、好きになります。
人を好きになることは、素晴らしいこと。しかし、心配になること、不安に思うことが出てきます。それは、その人の言動に棘があったり、キツイ言い方だったり、態度が大きくて威圧感があったり、恐い容姿だったり、着てるものがおかしかったり、変だったり、顔が怖かったり、苦しそうだったり、よく分からなくて不安になり、怖くもなります。その存在を確かめる事、それが次のステップ、コミュニケーションです。私たちは、社会的にコミュニケーションがうまく取れないといった人と人とが、お互いを確かめ合うことを補っているツールに問題を抱えています。コミュニケーションなしでは、相手がどんな人物かは、わからないに、何度も何度もコミュニケーションを図ることで見えてくるものもあります。何かを知って初めてわかるものも中には存在するのです。

だから、表面上のコミュニケーションを重ねっていない情報に惑わされてはいけないと思います。

相手との深いコミュニケーションがうまく取れない特性のために、誤解、大きな誤解をずっと生み続けて生きずらさを抱え

それを補うかのように、空想、突飛な予測、自分本位な解釈、間違った思い込みにより、自分で自分の首を絞めてしまうのです。

統合失調症の部分、鬱病の部分、自分のせいで、自分が悪いから、

鬱病は特に自分が悪いと思ってしまう病気です。でも、根底には、誰かが悪いという強い気持ちがあります。
でも、ミスが続き、悪い者たちより悪くなっていく自分自身の心身の状況が許せなくなる。自分が悪くなったことに悲観しだすのです。
悪い奴より悪くなっていく自分が嫌になり、自己嫌悪に陥り、自分が悪いと、本当は、悪い奴がいるんで、原因がはっきりとしているのに
その人とかよりもっと悪くなってしまった自分が大きなミスをおかしていく、自信を失う原因を作ってしまうのです。
それは、鬱病が、心身の低下を招く病気だからです。心も体も不調になるので、まともに仕事が出来なくなり、家事もできなくなります。

私は、統合失調感情障害です。統合失調症と鬱病や躁などがあります。

理が、悪いことは、自分のせい。

そう思ってしまうのは、わかります。統合失調症、うつ、発達障害という色んなものを抱えている身ですから、

障害や病気を克服しなければ、いつまでも、病気や障害のせい、=自分のせいで

悪いんだと思ってしまう。

そういう風に思ったり感じたり考える人は、多いと思います。そのために、病気や障害を隠します。
そして、自分が悪いという事以前に

社会的にも、悪いと差別する今までが存在しています。分からない得体のしれない不気味さが
治らないとか、色んな問題を歴史社会は抱えイメージが悪かったのです。

これからの時代は、そういう社会も目を変えていく必要があります。
それは、偏見差別を減らしていくこと、

そう珍しい病気ではないという事です。

理解が進み社会のほうが先に、障害や精神病を克服することで、

救われることが多いと思います。そういう人たちに対する思いやりの気持ち、それが大事になってきます。

私たちは、共感する力、相手の痛み辛さ苦しみを自分のことのように感じること、その先に思いやれること、共感する力があります。

それは、介護や支援の現場で相手の立場にたって物事を考えられる力になります。

なので病気の部分を良くすることによって、とても素晴らしい特性、スペシャリストになれます。
なので、統合失調症や、鬱病は薬で良くなるので

薬の力も借りながら、発達障害の薬も借りて、

自己肯定感を養うために、成功体験を積み上げていかなちゃなりません。社会の中で、日常の中で

練習していきましょう。治しましょう。病気を良くしましょう。理のせいじゃない。

理のせいではないのです。


最後に、「悪くて上等!!悪いから良くなれるのだから、悪くても良い。いや悪いほうが良い。人生、善良になるために
滅茶苦茶、こんなに悪い人間として産まれてきたんだから、感謝しなちゃな。ありがとさん。」


このように、皆悪い。だから、良くなるように、自分も周りも、社会も、地球も宇宙も、努力して調整していると
そう感じます。

丸くなる。そういうことですね。

一緒に、極悪人として、極悪仲間として、産まれた総ての人類の課題は、良くなっていける関係になることです。

だから、支えあい、助け合って、ありがとさんと心から言えるのです。

極悪人は、こんなにいいことできるようになったんだね。ありがとさん。と相手を敬う気持ちが出てくる。

皆が努力して、よきかなになるように生きていて、成長もバラバラ、極悪人のまま、死ぬ人もいれば
頑張って良くなって死ぬ人も出てくる。

それが、人類の天命、なんですね。

返信(1)

愛する美幸へ

メッセージありがとう。そして、いつもありがとうね。美幸がいるから、生活するための力が生まれてくるんだと思う。ただ生活できるというだけではなく、ぼくの場合、この社会に適応して生きていくための気力のすべてを、ぼくは美幸と、美幸が毎日一生懸命作ってくれる手料理の力に負っているよ。

美幸のメッセージの中で印象に残ったのは、「安心できると好きになる」という部分と、ぼくたちは、「コミュニケーションのパーツに障害がある」というところ。

ぼくという存在に、美幸は初めたくさんの恐れを抱いていた。ぼく自身もそういう自己表現を好んでいたし、ぼくのADHD特性からもくる、破壊的な言動や行動が、美幸に安心感を抱かせなかったんだと思う。(それは八年前ごろから五年前ごろまで)

コリン・ウィルソンという思想家からの影響が完全に抜けてきたのは、『無動機殺人犯』に対する興味が一段落したころから。ウィルソンは、無動機殺人犯の「動機」を、挫折、それも、創造的な自己表現の挫折によるものとしており、その著書の中で、『創造的な自己表現欲求へのはけ口を欠く社会は、(無動機殺人犯たちからの)暴力に脅かされ続けるだろう』と社会に対して警告を与えている。

こういうものにぼくはずっと影響を受けていたのだけれど、それはぼく自身が、ウィルソンの本を読んでからだろうけれど、「創造的な自己表現」にずっと憧れを抱くようになってきていたからだ。でも、振り返って考えてみると、創造的な自己表現欲求って、なんのことかわからない。一切か無か、って感じで、創造的な生活とやらに漠然とあこがれを抱いてきたのだけれど、今になると、創造的な自己表現は、必ずしもなにか特定のライフスタイルの中にしかないものではなくて、(それこそ)普通の生活の中にも、ビシビシと現れてくるものだという事がわかる。

今の問題は、そのビシバシ来る創造表現たちと、通常の腐敗した、だらけきった経済政策とやらとの調和をどうやって架橋していくかってことなんだけどね。

でもそれはもっぱらぼく自身の、技術的な問題だと思うし、であるからには、努力目標という事でもあると思う。

少しずつ勉強を続けたいと思うよ。

コリン・ウィルソンにはまっていた時代のぼくは、世の女たちからすると、商品としての魅力に乏しすぎる男だった。夢想家、という以外に何の取柄も特徴もなかったからね。その時代に終止符を打って、介護や漢字の勉強もやるようになった今のぼくは、ちょっとは商品価値を高めてきているのではないかと思う。それが美幸の言う「安心」に結び付くといいなって思うよ。

美幸がくれたメッセージの最後の部分には、卓越した宗教哲学が込められていると想う。悪人どもの中に、少しでも良くなろうと努力する者がいて、その人たちが出会うこともあるのだという思想は、孤独の問題に独特の光を与える考えではないか?

ぼくもまた、悪人として生まれ、悪人として生き、そして善と悪の問題に時折深い関心を呼び覚まされることがある。この世界で生きていく中で。

そんなこんなが、生きていくことに対して、まぎれもない充実感をもたらすんだ。ぼくはまだ、死にたくはないよ(今日もまた、心の中であまり実感もなく『死にたい』とつぶやいてしまったけれど)。

じゃあ、今から、美幸がいまこしらえてくれた、美味しい『火鍋』で二人だけの幸せな晩餐としゃれこむとしようか!ごちそうさま、美幸!!