バイブル・スタディ・コーヒー ~スラスラ読める! 聖書入門

作者 mika

[歴史]

298

149,883

79件のファンレター

バイブル・スタディの仲間たちの会話をちょっとだけ覗いてみてください。
寝ころんでスラスラ読める! 「物語」がわかれば、聖書は楽しい。
聖書を最初から最後まで読み通すのは大変です。途中でいやになってしまうことも珍しくないでしょう。
なんとなく難しそうでも、聖書のことばの向こうには、豊かな歴史と文化が広がっています。
どなたでも、実際に聖書を読んでみようというかたのお役に立てればうれしいです。


アイコンはTopeconHeroesダーヤマ様の「ダ鳥獣戯画」より使用させていただきました。

ファンレター

創世記22-23章「息子を殺そうとしたアブラハム」「ナホルからの知らせ/サラの死」 キルケゴール「おそれとおののき」 エフタの娘

創世記23章でアブラハムが要求された土地の値段が法外なものだったというのは驚きで、この情報でエフロンのイメージが、私の中で変わりました。さらに「マクぺラの洞穴」に関する近現代の痛ましい事件については、現代人としては知っておきたい情報で、宗教のネガティブな側面についてあらためて考えさせられました。

創世記22章で息子を殺そうとしたアブラハムについて、キルケゴールが「おそれとおののき」の中でコメントしていた話は勉強になりました。私はキルケゴールの著作は「死に至る病」をはじめ、いくつかは読んでおり、私にとって実存主義関連の勉強をするきっかけになったものでありました。しかし「おそれとおののき」については、知識がまったくありませんでした。こちらは全集に収録されているのですね。「おそれとおののき」の内容を紹介しているものを読んでみますと、「悲劇的英雄」として、アガメムノン、旧約聖書のエフタ、ブルータスの三人が、共通に、倫理的なものの領域のなかで自らの子供を犠牲にしたということが書かれていました。エフタは士師記11章に語られる話で、アブラハムの場合とは異なり悲劇的な結末となります。なぜ、アブラハムの場合に息子は救われ、エフタの娘の場合は救われなかったのか、キルケゴールがどのように解釈しているのか興味があるところです。ちなみに、「息子の犠牲と神」いう話で、私が思い出しますのはモーツァルトのオペラ「イドメネオ」です。このオペラの解説にもエフタの話の「イドメネオ」における影響なども論じているものがありました。旧約聖書を読み進めていきますと、異教徒が自分の子供を犠牲にすることを非難する記載が数か所にあります。ここでは、何故、異教徒が子供を犠牲にしたのか理由は書かれておらず、「第三者が子供を犠牲にする理由がわからない」という条件は、アブラハムと同じであると言えます。かつて、私は、この箇所を読むたびに、イサクを殺そうとしたアブラハムの逸話を思い出したものです。異教徒が自分の子供を犠牲にする理由もわからずに一方的に非難しておきながら、「イサクの犠牲」を美談にするのはダブルスタンダードでないか?エフタの場合との相違は?など、私にとっては、疑問であり、今回のmikaさんのキルケゴールの引用は、ひとつの回答のヒントになりました。

前回の私のファンレターの「ユダヤ古代誌」のユダヤ人虐殺の該当箇所について、詳細にご回答いただきありがとうございました。ちくま学芸文庫の第4巻をじっくり勉強しようと思っておりますが、かなり手強い印象であります(苦笑)。mikaさんの私のファンレターへの回答は、時にバイブルスタディの本文より長く、嬉しいと感じる半面、mikaさんの貴重な御時間を割いてしまうことになってしまい恐縮しております。「ユダヤ古代誌」は、これからも「バイブルスタディ」の進行にあわせて座右において読んでいこうと思っております。

最後に、別の方とのファンレターで、絵画のなかで「黄金伝説」の聖人伝が題材のものはわからないものがmikaさんでも多いと書いておられました。私も聖人については詳しくないのですが、聖人関連の絵画や、引用があるときには、ひとつひとつ「黄金伝説」の該当箇所を読むようにしております。そうしますと、絵画や小説の楽しみも理解も深まるという場合が多いです。和訳は平凡社ライブラリーから全4巻が出版されており、最終巻に全巻の索引がありますので、まずは全巻を揃えてから利用しております。mikaさんが触れられた芥川の「きりしとほろ上人伝」を読んだ時も、「黄金伝説」のオリジナルと比較するなどしました。この時は、読書メーターに感想を投稿しましたが(https://bookmeter.com/reviews/92344635)、こちらには、mikaさんに「ナイス」をいただき、喜んでおります。

次回も楽しみにしております。

荒野の狼

返信(1)

荒野の狼さん、いつもお読みいただきありがとうございます!
わたしも芥川の「きりしとほろ上人伝」や「奉教人の死」を読んでから、『黄金伝説』の聖クリストフォロスや聖女マリナの物語を読んでみました。読み比べると、芥川が独自に追加したキャラクターや大胆に省略しているエピソードが明らかになって、興味深かったです。
オルガンの勉強でイタリア滞在中、たくさんの歴史ある教会に行く機会があり、そこでよく目にしたのは聖クリストフォロスの像でした。クリストフォロスは旅人の守護聖人とされていて、現代では長距離運転手さんたちの守護聖人としても親しまれているそうです。
オーストリアとの国境が近い、山間のある教会ではクリストフォロスの大きな木像があって、長い間信仰されてきた歴史を感じました。山越えの旅人が多く訪れたからでしょうね。また別の田舎の教会では、幼子キリストを背負っているクリストフォルスの絵が描かれたカードをお守りとして来訪者に配っていました。そのカードのクリストフォルスが持っている杖は、なんと本物の木の枝で作られていたんです。その地域の間伐材を有効利用する取り組みなのだそうです^^ わたしも記念にひとつもらってきて、今も大切に飾っています。

ちなみに、わたしの友人が「よく分からなかったけれどインパクト大だった」と教えてくれた名画は、あとから調べたところ、聖セバスティアヌスだったことが分かりました。セバスティアヌスの絵は、柱に縛られて無数の矢で射られている恐ろしい絵なので、一度見ると忘れられないですね。疫病避け(特にペスト)の守護聖人とされ、一時期は画題として大変好まれたそうで、セバスティアヌの絵は数多くあります。

荒野の狼さんは、もともとキルケゴールの『死に至る病』などを読んでおられたのですね。バイブルスタディの本文ではアガメムノンについてだけご紹介しましたが、『おそれとおののき』ではエフタについてもアガメムノンと同じく悲劇の英雄として分類されています。キルケゴール(沈黙のヨハンネス)の言葉を抜粋して少しご紹介しますね。(英訳からなので、全集におさめられている邦訳とは多少違うと思います)

「アガメムノン、エフタ、ブルータスが、決定的な瞬間に英雄的に痛みを克服し、英雄的に最愛の人を失い、ただ外見上の犠牲を成し遂げたとき、彼らの痛みに同情し、彼らの功績に賞賛の涙を流さない高貴な魂は、この世に存在しないだろう。」

「アブラハムの場合は状況が異なっていた。彼はその行為によって倫理的なものを完全に踏み越え、倫理的なものの外にあるより高い目的を持ち、それに関連して倫理的なものを中断したのである。」

「アブラハムがこのようなことをしたのは、民族を救うためではなく、国家の概念を維持するためでもなく、また、怒っている神々をなだめるためでもなかった。神が怒っているという問題があるとすれば、神が怒っていたのはアブラハムに対してだけであり、アブラハムの行動全体は普遍的なものとは無関係で、純粋に個人的な事業である。したがって、悲劇の英雄がその道徳的な美徳によって偉大であるのに対し、アブラハムは個人的な美徳によって偉大である。」

キルケゴールが言う「倫理的なもの」とは、共同体において、あらゆる瞬間において、すべての人に妥当する普遍的なものです。アガメムノンの場合は、「娘の命を守るべき」という原則より、国家の成員として艦隊派遣を成功させるために「娘を犠牲にするべき」という原則が上回ることになります。したがって、アガメムノンが娘を殺すことは倫理的に正しいと社会全体から認められるわけです。
現代社会で言えば、生存のくじびき(サバイバル・ロッタリー)の問題と同じで、わたしたちの直観に反しますが、功利原理からは正当化されます。
一方アブラハムは、国家の利益のためや、戦争に勝つために息子をささげたわけではありません。それでキルケゴールは、アブラハムは倫理的に偉大なのではない、と考えます。信仰によって偉大であるということは、倫理的な評価の枠に収まらないのです。

なぜイサクは救われ、エフタの娘は救われなかったのか? キルケゴールの議論をふまえて、わたしは次のように考えます。エフタはアガメムノンと同じく、戦争に勝つという目的が最初にあります。
アガメムノンが女神をなだめるために「娘を犠牲にせよ」という神託を受けたとき、娘の命を守るため、艦隊派遣を取りやめるという選択ができたはずです。あるいは、女神を侮辱して怒らせたのは自分自身なのだから、自分の命を犠牲にするという選択肢もあるでしょう。しかしアガメムノンはこのような選択肢をとらず、自分が将軍として軍を率いて戦争に行く、という目的を達成するために、娘を犠牲にすることを選びます。ギリシャ社会全体としても、戦争賛成なので、アガメムノンの選択を支持しています。
エフタも戦争に勝つため、自分の家の戸口から最初に出迎えに出た家族を犠牲にする、と神に誓います。しかし、そのような誓いを神は求めていたのでしょうか。エフタは、戦争に勝利させてくれたら自分の命をささげます、と誓うこともできたはずです。どうして真っ先に家族の命を犠牲にする誓いをしたのでしょうか。出迎えたのがたまたま娘でしたが、妻や自分の父母、兄弟姉妹ということもありえました。エフタは自分の家族の誰を犠牲にするつもりで、こんな誓いをしたのでしょうか。
さらに、エフタの娘が殺されるまで二カ月の猶予期間がありました。その間、エフタは娘を助けてください、と神に祈ることもできたでしょう。誓いを破棄して娘の命を守ることを選び、神に謝罪することもできたはずです。しかし、エフタは誓いを忠実に守って娘を殺しました。社会全体が戦勝の代価として娘の命がある、と見なしていたから、娘を殺さない、という選択ができなかったのでしょう。エフタの娘が犠牲にささげられることを最も望んでいたのは、神ご自身ではなく、戦勝に歓喜する人々だったのかもしれません。エフタの娘も、二カ月の間に逃げたりせず、自分の死を受け入れたのは、やはり自分と父親の名誉を守るためだろうと考えます。そこには信仰よりも、共同体の成員としての倫理や義務の方が上回っているのではないでしょうか。

今週のバイブル・スタディは、イサクとリベカの結婚のお話です。引き続きよろしくお願いいたします。