もっと『闇の左手』~ゲセンへの秘密の扉~

[SF]

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15件のファンレター

私の戯曲『闇の左手』の、原作小説(アーシュラ・K・ル=グウィン著)を紹介するコーナーです。
詳しくは「はじめに」をお読みください。
(2023.12.13) ただいま整理中です。一時的にリンク切れなどご不便をかけますが、しばらくお待ちいただければ幸いです。

ファンレター

いよいよ旅も佳境(19-1~3)

 出版されている本と読み比べています。翻訳でこんなに雰囲気が変るんだ……に驚いています。(今から読まれる方には、出版されている本も買って読み比べてみるのも私的にはおすすめしたいです。エストラヴェンの脳内画像が二つの訳では違うんじゃないかな。作品世界が広がります)
 ああ、いよいよ旅も佳境ですね……(寂)

 エストラヴェンがクレヴァスに落ちるシーン。うわごとのようにエストラヴェンが目の当たりにした恐怖と荘厳な美しさを断片的に語る部分が大好きです。自分も底なしの蒼い深淵を覗いた気持ちになります。「白い天気」無影の氷原が、のっぺりという言葉で不気味な雰囲気とともにイメージが広がります。虚無の恐怖に立ちすくむアイの姿が浮かびます。そして、太極図を書くシーンから後の訳。ああ、泣ける。生きることのさみしさと、そして共に居ることの強さを感じて、何度も読み返してしまいました。

返信(3)

ありがとうございます。このクレヴァスのシーン、全編でも屈指の美しい、そして怖くて、愛おしい場面ですよね。わたし大好きなんです。「歩くためには影が要る。光だけではだめなんだ」というエストラヴェンのつぶやきにル=グウィンさんがこめた、深くて壮大な意味。「あなたの中には両方あって、完成している(both and one)」というゲンリーの眩しいような賛辞。エストラヴェンはそれに答えないのだけど、どんな表情をしているのだろうといろいろ想像してみるのも楽しいですよね。
エストラヴェンを少し中性的、女性的に描きすぎているでしょうか。でも現行の訳は少し男性的に描きすぎている気がします。まだ試訳なので、ご意見があれば素直にうけたまわりたいと思います。そうではない風景描写の部分などは、とにかくパワー全開、フルスロットルで訳しています(笑)。

今回、エストラヴェンがゲンリーに引きあげられるときに、まちがいなくいったん自分で体を反転させてクレヴァスのへりをつかんでいますよね。こうくるっと回って、つかんで、上がってきて……と自分でぶつぶつ言いながらテーブルのへりでシミュレーションしてました(笑)。直訳で言うと「彼の体重が今度は僕を助けてくれていた」という部分があるのですが、現行訳では「彼の体重がかからなくなってその分軽くなったから僕は助かった」みたいになっていて、いやさすがにこの英文でそうは読めないだろうと。むしろエストラヴェンもこちらのほうへ体重をかけていっしょに押しているんだろうと。そういう作業の連続です。つまり、現行訳だとエストラヴェンはお人形のようにゲンリーに引っぱり上げられるだけになります。でもたぶんそうじゃなく、自分でも氷をつかんでよじのぼって来て、上半身がクレヴァスの上に出てからはゲンリーのほうへ橇を押し戻しているんじゃないかなと思うんです。それくらいの判断と行動力が彼らしい(彼女らしい)と思うんですね。
こういうときは原作者が生きておられたら質問して確認できたのになあと思います。
 同じ料理の描写を見ても、読者の舌は違う味を感じるように、訳される方によって本の雰囲気が変るのは当たり前だと思います。(日本語の古文だって大違い~)英語を読めない私にとって、訳をされる方は暗闇に光を灯してくださる導き手です。こんな私は赤ん坊が初めて見たものを親と思うように、初めての訳がその話のメインイメージとしてすり込まれてしまいます。私にとってのエストラヴェンは男性的ですが、出版されている本の雪焼けした彼の顔の訳は情け容赦なく思いっきり男性的(笑)……いや、美青年として無理矢理王子様的妄想してきたのに突き落とされる感じです。(ねじ曲げて読んでる方が悪い……)未村さんの訳で少しキラキラ感があって嬉しかったです。どのようにして訳すか、は、商業的に言えば、どの雰囲気の訳を読者が欲しているかになるんでしょうか。未村さんの訳はみずみずしくて、感性が若いので好きです。
 それにしてもクレヴァスから引っ張り上げるシーンはそうだったんですか! ちょっと原文も読んでみたくなりましたが、私は多分1分で挫折するでしょう。
私じつは不二原さんの王子さま幻想にすごく助けられているんです。私だけじゃなかったんだ!と(笑)。無理やりにでもそうしたくなる何かがあるんですよね。私の訳は少し「補正」が入っていると言えますけど、でも言い訳を聞いてください。例えばその雪焼けの笑顔、原文では「uglyな裂け目」なんです。uglyは「醜悪な」、みにくいアヒルの子の「醜い」で、本当に容赦のないひどい言葉です、辞書的にはね。この辞書的にはというところが問題だと私は思うんです。
この小説は基本的に、ゲンリーの一人称か、エストラヴェンの一人称で書かれていますよね。ニュートラルな三人称のナレーションではないんです。だからエストラヴェンの顔の描写があるとき、読者はかならず「ゲンリーの目を通して」彼を見ている。大好きな人の笑顔をまぢかで見て「みにくいなあ」と思うとき、ゲンリーはどんな気持ちなんだろうと私はまず考えるんです。一字一句考えてます。私だったら、あくまで私だったらですよ、いとおしいと思うんですね。自分のために命を賭けてここまでいっしょに来てくれて、それでこんな凄い顔になっちゃって(笑)。もう抱きしめたいですよ。その感じがね、「醜い」って訳すと、出ないと思うんですね、あまりに漢字のインパクトが強くて。脚本だったら俳優さんに愛おしさをこめた演技で「醜い」って発音してもらえるけど、小説ではそれができない。「醜い」って読んだ読者さまが、ゲンリーがここで幻滅しているように感じてほしくないなあと思うんです。だったら「醜い」じゃなく、「みっともない」「ぶさいくな」などなど、ちょっとコミカルな雰囲気の語を選んだらどうかな?と。

翻訳に正解などない、それはじゅうじゅう承知です。ただ、不二原さんが的確に指摘してくださったように、私にはゲンリーの「若さ」がとても沁みるんです。これはすごく若々しい小説だと思います、深くて哲学的であっても。何がこの小説の肝かって、新しい世界を知って変化していくゲンリーの心のみずみずしさだと思うんですね。それをね、少しでも多くのかたに味わってほしいです。現行訳の小尾先生は偉大な存在ですが、ただ一点わたしが勝っているとしたら、原作に対する愛情というか妄想というかはっきり言って萌えの程度です(笑)。そこだけは、自信があります。^^