第2話 相沢美桂という女性

文字数 1,737文字

 朝、一人で寝るには広すぎるベッドで目が覚めた。
 頭がボーっとしている。ここはどこだろう? って、そうか。
 相沢美桂が夫の拓海さんと住んでいたマンションに戻って来たんだ。
 なるべく、記憶を失う前の日常にいた方が良いと思って……。

 昨夜は、拓海さんの作った夕飯を食べて、ふろの用意をしてもらって、着替えまで出してもらって……。
「ベッド、占領して悪かったな」
 ぽつんと私はつぶやいた。

 とりあえず寝間着から、昨日退院の時に着ていた服に着替える。
 そして、部屋の外に出た。コーヒーの良い香りがする。
「あっ、おはよう」
 拓海さんが、私のそばまでやってきた。
「昨日はよく寝られた?」
 ニコニコ笑って訊いてきている。
「はい。おかげさまで……」
 そういえば、良く寝られた。病院にいるときは夜不安で涙が出た時もあったのに。
「そう、それは良かった。朝ごはん、パンで良かった? フレンチトーストにしたんだけど」
 なんだか、拓海さんはずっと笑っている。

「あのっ、キッチンの使い勝手とかいろいろ教えてください。私が普段やっていたことくらい、やりたいです」
「そう? 僕は美桂ちゃんのお世話するの楽しいけど、記憶無くしてもそういうところは変わらないんだね」
 変わらない? 以前の私と?
「美桂ちゃんも働いていたから、家事は僕と交代でしてたんだ。だから、それで良いかな」
「でも、今は働いてないですし」
「いずれ、仕事にも復帰するだろ? その時きついよ、僕を甘やかしちゃうと……。それと、敬語は無しね。同じ年だし。じゃあ、洗い物手伝ってもらおうかな」
 と言って、少しだけ手伝わせてくれた。


 お昼から、私の実家に行く。小さな頃の、アルバムを見せてもらった。
 写真の中に、小さい子どもが二人いる。多分女の子の方が私だ。
「拓海くん、いつも美桂の事世話してくれてねぇ。ほら、うちは共稼ぎだったから……。思い出さない? こういうの見てたら、ああこの時はねぇ」

 私の母だという人が、一生懸命アルバムの説明をしてくれている。
 私の知らない私。アルバムには、知らない女の子の思い出がいっぱい詰まっていた。


「美桂ちゃん。疲れちゃった?」
 拓海くんは車を走らせながら私に訊いてきた。
「大丈夫。自分の実家だから……」
「無理しないでね。横で寝ていても良いから……。昔から、疲れてても平気な顔するんだよね、美桂ちゃんは」

 昔から……。
 また、知らない私と比べられている。
 私の母だという人も、私はこうだったと知らない私を見せていた。

 正しいのだと思う。私が覚えていないだけで、今まで親や夫の前にいた私はそうだったのだろうから……。
 拓海さんの運転している横顔を見る。
 以前の私に戻ってもらいたいよね。だって、そっちの私を好きだったんだろうから。


「今日は、私がソファーベッドに寝ます」
 私は、枕と毛布を持ってリビングに出ていた。拓海さんは、ソファーを平らにしながら
「駄目だよ。美桂ちゃんをこんなところに寝せるわけにはいかないよ」
 そう言って、自分の枕をポンと置いていた。
「でも、本来ならベッドに寝てたんでしょ?」
「そりゃ、ね。でも、今は事情が違うから仕方ないよ」
「だから、交代で」
「駄目」
 拓海くんは、少し怒った顔をしていた。私は思わずビクッとなる。
「ごめんね。美桂ちゃんの事、大切なんだ。だから、言う事聞いて」
 そうして、手を引いて私一人を寝室に押し込んで、「おやすみ」と言ってドアを閉めた。

 拓海さんは、優しい。だけど時々前の私と比べるように、「以前と変わらないね」と言ってくる。
 早く思い出さなきゃとは、思っているのだけれど。
「拓海さんは、仕事に行かなくて良い……の?」
 気を抜いたら敬語を使ってしまう。
「うん。しばらくは溜まっていた有給……リフレッシュ休暇として取ったから一か月は大丈夫。会社から、とれとれって言われてうるさかったんだよね。これで義務も果たせたよ」
 なんでこの人は、にこやかにしているのだろう。
 
 私の親からアルバム見せられて、拓海さんの親御さんからも、同居時代や幼い頃の話を聞かされて、思い出せないことに少しがっかりした顔をされて。

 拓海さんは、がっかりしないのだろうか、自分の事を忘れ去られてしまっているのに。
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