第45話 優しい嘘

文字数 1,078文字

勇とベンチに横並びに腰を掛けた。
前には広場しかない。



「トイレは大丈夫?」



明美は相変わらずよく喋るが、勇はあまり喋ろうとしなかった。
何も喋ることがなくなり、明美は癖でお腹を撫でていた。
勇はそれに気づき、明美を見た。
明美は勇の視線に答えるように言った。



「赤ちゃん」



明美は勇に微笑み、お腹を優しく擦った。
勇は神妙に明美のお腹を眺めていた。
しばらく明美のお腹を眺めていたが、急に何か思い出したように勇がしゃべった。
珍しく感情的だった。



「お父さんなんて嫌い」



勇は明美を見た。
勇は正人のことを「お父さん」と呼んだ。
正人はやっぱり勇にとって父親だった。




「それが話したかったこと?」



それは明らかに嘘だった。
そう明美が思ったのは勇の表情が苦しく今にも泣きだしそうだったからだ。
勇はこの嘘に自分で気づいているのだろうか。
勇は今まで自分ではない子どもが大切にされる姿を見る度に今みたいな気持ちになったのだろうか。
その度に自分の感情に嘘をつくことで、自分を守ってきたのだろうか。



「本当に?」



勇は自分でもなぜ明美にそんなことを言うのか分からないのかもしれない。
でも明美に知ってもらいたかったのだ。
明美は勇の心の叫びをちゃんと聞こうと思った。
聞こえていないふりならいくらでもできたがそれは絶対にしたくなかった。





「何でそんな嘘つくの?」



明美は勇が明美の前だけでも嘘をつかずにいられることが少しでも心が楽になれる方法だと思った。
でも勇にとって、明美のそんな配慮は大きなお世話なはずだった。
スマホが鳴っていた。
正人からだった。
スマホは鳴り続けている。
スマホは鳴り続けていたが、明美は出なかった。



「嫌い」



それでも勇は頑なにただその言葉を繰り返すのだった。
まるでその嘘が本当であることを自分に言い聞かせているかのようだった。
その時の勇には嘘が必要だった。
ただそれが勇の心を救うことはなかった。
それでも本当の感情に向き合うことよりは勇にとってずっと楽だったのだ。

この小さな背中にこの子はどれだけのものを背負っているのだろうか。
勇の嘘は時に優和を救っていたはずだ。
優和はその勇の優しさに気づいていたのだろうか。

明美は自分でも意識していないうちに勇に同情していた。
明美のそういう態度が一番勇の心を傷つけるのを明美はよくわかっていなかった。

スマホは鳴り続けたままだったが、明美はその電話に出ることができなかった。

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