第19話 稲妻 紀元前52年
文字数 3,928文字
ガリア・オーヴェルニュ地方 ジェルゴヴィア
「お主 、セラヌリウスと言ったな。この家族を、お前達の故郷に連れて行っておくれ。頼んだぞ」
長老はそう言い残して立ち去って行った。
私は呆然 と床に座り込んでいた。
片腕の兄セラヌリウスだけが、家の中をせわしなく動き回っている。必要な物を集め、当座の食料を確保していたのだ。
弟セラヌリウスは一人壁に向かい、言葉を並べ続けていた。
「許す事は出来ない。人々を殺し、我が故郷を滅ぼしたローマ人よ。お前達は又、私の大切な友人を殺し、我等を支配し尽そうというのか!? ヴェルキンゲトリクスを、ヴェルカツシベラヌスをどうしようというのだ!? お前達は呪われる。この私が、お前達を呪い尽そう!」
弟セラヌリウスは、余りの怒りに我を忘れているようであった。
(温厚な弟セラヌリウスが、おかしくなってしまった)
私はそう感じていた。
外では、降り続く雨の音が更に激しさを増していた。
「ソフィー。パトリシア。しっかりしてくれ!!」
片腕となった兄セラヌリウスが私達の肩を揺さぶる。
「二人とも、母さんを守るんだ。オイルコートを着て、急ぎこの街から脱出する。一刻も早く出て行かなければ、どんな運命が皆を飲み込んで行くのか!? 今はそれを想像するのも恐ろしい」
兄セラヌリウスの必死な呼び掛けに、何とか正気に戻った私は、使用人と共に旅の支度を急いだ。
放心状態の母と、弟セラヌリウスの不穏 な素振りは変わらない。それでも何とか母に外套を羽織らせ、私達は家を出る事にした。
これから何処 に行けばよいのか? 何を頼りにすればよいのか? 不安が私達を支配していた。
「家の明かりは、灯したままにしておこう」
兄セラヌリウスが提案 する。
「それがいい。我らが家に居るように思わせた方が都合が好い」
使用人の爺 やが応えた。
母を左右から抱きかかえ、私達は暗い夜道を歩き始める。
「誰か来る!」
ソフィーが下の集落より駆け上がって来る人間の集団を見つける。
小高い丘の上に建つ私達の家に続く小道を、確かに集団で駆け上がって来る者達がいる。それぞれが武器を携 え、私達に向かって来る。
恐ろしい予感に、胸の鼓動 は頂点に達する。
「いたぞ。一人も逃すな!」
男達から大きな声が上がった。
不安は適中した。男達は私達家族を捕らえに来たのだ。
急ぎ家の裏に回り、森へと続く山道を懸命に駆け登る。しかし、女子供の脚ではとても逃げ切れるものではなかった。
私達の遅い足を気遣って、使用人の爺やが道に立ち留まり、下から登って来る男達の前に立ち塞がる。
「お待ち下さい。同じ部族でこのような事を… どうか、今はお見逃し下さい」
爺やは背中を丸め、男達に懇願 する。
「ええい。一振りで斬 り捨てろ!」
後ろから甲高 い男の声が聞こえた。
命令を受けた男が、爺やに駆寄る。
男は腰から引き抜いた剣を振り上げ、爺や目掛けて殺到 する。その行為に、爺やのからだは、膝から大地へと崩れ落ちた。
「あれは親ローマ派長老の息子、メルティベスの声。ヴェルカツシベラヌス兄さんを、凄く僻 んでいた男」
私は、振り向きざまに見た恐ろしい光景に、足が竦 むのを感じた。
坂道を登って来た集団は、私達へと更に近づく。足が縺 れ転倒した叔母は、背中を剣で刺し抜かれ、哀れな悲鳴と共に絶命した。
「いいか。生け捕りにする必要はない。首 だけ持って行けば好いのだ。皆殺しにしろ」
親ローマ派長老の息子メルティベスは、情け容赦 のない言葉で部下に指示を告げると、自らも長い剣を引き抜いた。
「私は関係がない!」
叫び声を上げ、道を逸れ森に逃げ込んだ使用人のネネも、容赦のない男達に追われ、絶叫と共に殺されていった。
片腕の兄セラヌリウスは、細長い剣を敵に向けて突くように構え、私達家族を背中に隠し男達の動きを牽制 する。
弟セラヌリウスは、太く逞 しい両腕を広げ、肉厚 の中剣を左右に構えると、ゆっくりとした足取りで男達に近づいて行った。
「おい、取り囲め!」
メルティベスの声が聞こえる。
「いいか。油断 をするな。皆で取り囲み、一斉に斬り掛かるのだ」
円を描き、弟セラヌリウスを取り囲む男達の後方に、声の主は居た。長髪とヒステリックな金切 り声が、メルティベスの特徴である。
「お前らのような、既にローマに魂を売った卑怯 な者達には、遠慮 は無いものと思え!」
口上を述べると、弟セラヌリウスは前面の敵に向い飛び込んで行った。
一瞬にして二人の男が斬り倒される。
肉厚の中剣で袈裟 斬りに割られた男の肉体。心臓にまで達した斬り口からは、大量の血液が一気に吹き出す。
(強い)
素早い動きで敵の背後に回り込み、背中から心臓を一突きにする。背中から血が吹き出した時には、弟セラヌリウスの姿はそこには無い。
既に敵の囲いは崩している。
襲い来る男達に対し、弟セラヌリウスの剣が容赦なく振るわれて行く。血飛沫 を上げ、修羅 の如く舞う弟セラヌリウス。凶暴な男達が次々と倒されて行った。
だが、そこ迄であった。
「下がれ」
親ローマ派長老の息子メルティベスが金切声を上げる。
「皆、奴 から離れろ。離れて弓で取り囲むのだ」
剣や手斧を下げ闘う男達が、弟セラヌリウスから離れ一定の距離を保った。代わりに弓を構える者が前に出て、弟セラヌリウスを遠巻きに取り囲む。
激しい雨の中、骸 から流れ出た血が、雨水に混じり大地に広がって行く。
「ちぇっ。暴れやがって。但し、それもここまでだ!」
長老の息子は舌打ちをする。
弓矢で取り囲まれた弟セラヌリウスに、幾本もの矢が放たれようとしていた。
その時である。暗闇に稲妻が光り、僅 かの間を置いて雷鳴が鳴り響いた。弟セラヌリウスの姿が電影 に照らし出される。網膜 に弟セラヌリウスの残像が残される。
修羅の形相 をした弟セラヌリウスの姿は、とても美しいものであった。
稲妻が消えると、闇夜の中に、弟セラヌリウスの姿を見いだすことが出来ない。
「おい。何処 だ? 奴が居ないぞ!?」
「慌てるな。冷静に探すんだ」
弓矢で取り囲んだ弟セラヌリウスの姿を見失い、戸惑う男達の声が聞こえてくる。
「ヒィ、ヒィー」
そこに突如 として、メルティベスの声が聞こえる。
「ええっ。どうした?」
仲間の男達が声を掛ける。
「俺の後ろに、俺の後ろに誰かいる。助けてくれ!」
メルティベスの声は震えていた。低く小さな声で、仲間に助けを求めていた。
「おい、構えろ」
誰かが大きく叫んだ。
弓を持つ男達は一斉に向きを変え、メルティベスの背後に標準を合わせる。
「待て。矢は射 るな。私に当たるだろう!?」
メルティベスは必死に命令する。
ふたたび稲妻が閃 く。メルティベスの首筋に当てられた刃 が青白く光った。暗闇に雷鳴が轟いている。
「おい、奴だよ!」
男達は頷き合う。
何時の間に位置を移したのか? 弟セラヌリウスはメルティベスの背後に回り込み、彼の首筋に刃を押し当てていた。
降りしきる雨を切り裂くように稲妻が閃く。妖 しくも美しい弟セラヌリウスの姿態 が、夜の森に映し出される。
「お前の首を斬り裂いて、残る仲間を殺し尽すのも容易 い」
虚勢 とはとても思えぬ弟セラヌリウスの言葉であった。
(確かに弓で取り囲んだ筈だった…)
男達は弟セラヌリウスに恐怖を感じていた。
(闇に包まれた森の中で、この男を捕える事など不可能ではないのか?)
敵を瞬時にして斬り払い、薙 ぎ倒した剣の舞い。弟セラヌリウスの動きは、とても人間の成せる業ではなかった。
「始めるぞ」
弟セラヌリウスが落ち着いた声で、親ローマ派長老の息子メルティベスに告げる。
弟セラヌリウスはメルティベスの首に巻き付けた腕に力を込め、剣を引く仕草を見せた。刃 がメルティベスの首に食い込み、皮膚からはうっすらと血が流れた。
「解った。お前の言う事を聞く。ここは、私達の負けだ」
これには堪らずに、メルティベスが泣きを入れる。
「おい、弓を下ろせ。剣も収めるんだ」
親ローマ派長老の息子は、自身の首が僅 かにも動かぬよう細心の注意を払いながら、絞り出すような声で部下に指示を与える。
部下が武器を収める様子を見て、メルティベスは弟セラヌリウスに懇願する。
「先ず、剣に込めた力を緩めてくれ」
咽を反らした姿勢で必死に頼み込む。
「ここは私達が退 く。お前達の逃亡は見逃す。それで許してくないか?」
堅い表情で再度懇願した。
「信頼の証しは何か?」
セラヌリウス弟の低い声が聞こえる。
「私もオーヴェルニュ族の男だ。全てはオーヴェルニュ族の為を思ってした事なのだ。しかし今、自らの過ちを悟った。私はオーヴェルニュ族の未来を、別の方法で切り開く事としよう」
「誓えるのか?」
「部族の誇りに掛けて誓う…」
メルティベスの言葉を信じた弟セラヌリウスは、剣を鞘 に収める。
命の危機を脱したメルティベスは尻餅をつき、その場に座り込んでいた。
弟セラヌリウスが私達の所に戻って来る。兄セラヌリウスが荒い呼吸をみせる弟に寄り添い、火照 ったからだを抱き締める。熱気で上気した弟セラヌリウスの肉体からは、湯気が立ち昇っていた。
「さあ行こう!」
兄セラヌリウスに促 され、私達は森の奥へと脚を進めた。
使用人の爺や、ネネ、そして優しかった叔母の亡骸 を埋葬 出来ない事に心が痛んだ。
だがその時であった。弟セラヌリウの背中目掛けて、一本の矢が撃ち放たれる。
敵の不意打ちにいち早く気付いた兄セラヌリウスが、弟のからだを突き飛ばし、私達に覆い被さる。矢は兄セラヌリウスの背に突き刺さり、貫通 した。
振り向いた私の顔に、真っ赤な血飛沫が吹きかかる。飛び出た矢の先端が兄セラヌリウスの胸から顔を覗 かせていた。
「お
長老はそう言い残して立ち去って行った。
私は
片腕の兄セラヌリウスだけが、家の中をせわしなく動き回っている。必要な物を集め、当座の食料を確保していたのだ。
弟セラヌリウスは一人壁に向かい、言葉を並べ続けていた。
「許す事は出来ない。人々を殺し、我が故郷を滅ぼしたローマ人よ。お前達は又、私の大切な友人を殺し、我等を支配し尽そうというのか!? ヴェルキンゲトリクスを、ヴェルカツシベラヌスをどうしようというのだ!? お前達は呪われる。この私が、お前達を呪い尽そう!」
弟セラヌリウスは、余りの怒りに我を忘れているようであった。
(温厚な弟セラヌリウスが、おかしくなってしまった)
私はそう感じていた。
外では、降り続く雨の音が更に激しさを増していた。
「ソフィー。パトリシア。しっかりしてくれ!!」
片腕となった兄セラヌリウスが私達の肩を揺さぶる。
「二人とも、母さんを守るんだ。オイルコートを着て、急ぎこの街から脱出する。一刻も早く出て行かなければ、どんな運命が皆を飲み込んで行くのか!? 今はそれを想像するのも恐ろしい」
兄セラヌリウスの必死な呼び掛けに、何とか正気に戻った私は、使用人と共に旅の支度を急いだ。
放心状態の母と、弟セラヌリウスの
これから
「家の明かりは、灯したままにしておこう」
兄セラヌリウスが
「それがいい。我らが家に居るように思わせた方が都合が好い」
使用人の
母を左右から抱きかかえ、私達は暗い夜道を歩き始める。
「誰か来る!」
ソフィーが下の集落より駆け上がって来る人間の集団を見つける。
小高い丘の上に建つ私達の家に続く小道を、確かに集団で駆け上がって来る者達がいる。それぞれが武器を
恐ろしい予感に、胸の
「いたぞ。一人も逃すな!」
男達から大きな声が上がった。
不安は適中した。男達は私達家族を捕らえに来たのだ。
急ぎ家の裏に回り、森へと続く山道を懸命に駆け登る。しかし、女子供の脚ではとても逃げ切れるものではなかった。
私達の遅い足を気遣って、使用人の爺やが道に立ち留まり、下から登って来る男達の前に立ち塞がる。
「お待ち下さい。同じ部族でこのような事を… どうか、今はお見逃し下さい」
爺やは背中を丸め、男達に
「ええい。一振りで
後ろから
命令を受けた男が、爺やに駆寄る。
男は腰から引き抜いた剣を振り上げ、爺や目掛けて
「あれは親ローマ派長老の息子、メルティベスの声。ヴェルカツシベラヌス兄さんを、凄く
私は、振り向きざまに見た恐ろしい光景に、足が
坂道を登って来た集団は、私達へと更に近づく。足が
「いいか。生け捕りにする必要はない。
親ローマ派長老の息子メルティベスは、情け
「私は関係がない!」
叫び声を上げ、道を逸れ森に逃げ込んだ使用人のネネも、容赦のない男達に追われ、絶叫と共に殺されていった。
片腕の兄セラヌリウスは、細長い剣を敵に向けて突くように構え、私達家族を背中に隠し男達の動きを
弟セラヌリウスは、太く
「おい、取り囲め!」
メルティベスの声が聞こえる。
「いいか。
円を描き、弟セラヌリウスを取り囲む男達の後方に、声の主は居た。長髪とヒステリックな
「お前らのような、既にローマに魂を売った
口上を述べると、弟セラヌリウスは前面の敵に向い飛び込んで行った。
一瞬にして二人の男が斬り倒される。
肉厚の中剣で
(強い)
素早い動きで敵の背後に回り込み、背中から心臓を一突きにする。背中から血が吹き出した時には、弟セラヌリウスの姿はそこには無い。
既に敵の囲いは崩している。
襲い来る男達に対し、弟セラヌリウスの剣が容赦なく振るわれて行く。
だが、そこ迄であった。
「下がれ」
親ローマ派長老の息子メルティベスが金切声を上げる。
「皆、
剣や手斧を下げ闘う男達が、弟セラヌリウスから離れ一定の距離を保った。代わりに弓を構える者が前に出て、弟セラヌリウスを遠巻きに取り囲む。
激しい雨の中、
「ちぇっ。暴れやがって。但し、それもここまでだ!」
長老の息子は舌打ちをする。
弓矢で取り囲まれた弟セラヌリウスに、幾本もの矢が放たれようとしていた。
その時である。暗闇に稲妻が光り、
修羅の
稲妻が消えると、闇夜の中に、弟セラヌリウスの姿を見いだすことが出来ない。
「おい。
「慌てるな。冷静に探すんだ」
弓矢で取り囲んだ弟セラヌリウスの姿を見失い、戸惑う男達の声が聞こえてくる。
「ヒィ、ヒィー」
そこに
「ええっ。どうした?」
仲間の男達が声を掛ける。
「俺の後ろに、俺の後ろに誰かいる。助けてくれ!」
メルティベスの声は震えていた。低く小さな声で、仲間に助けを求めていた。
「おい、構えろ」
誰かが大きく叫んだ。
弓を持つ男達は一斉に向きを変え、メルティベスの背後に標準を合わせる。
「待て。矢は
メルティベスは必死に命令する。
ふたたび稲妻が
「おい、奴だよ!」
男達は頷き合う。
何時の間に位置を移したのか? 弟セラヌリウスはメルティベスの背後に回り込み、彼の首筋に刃を押し当てていた。
降りしきる雨を切り裂くように稲妻が閃く。
「お前の首を斬り裂いて、残る仲間を殺し尽すのも
(確かに弓で取り囲んだ筈だった…)
男達は弟セラヌリウスに恐怖を感じていた。
(闇に包まれた森の中で、この男を捕える事など不可能ではないのか?)
敵を瞬時にして斬り払い、
「始めるぞ」
弟セラヌリウスが落ち着いた声で、親ローマ派長老の息子メルティベスに告げる。
弟セラヌリウスはメルティベスの首に巻き付けた腕に力を込め、剣を引く仕草を見せた。
「解った。お前の言う事を聞く。ここは、私達の負けだ」
これには堪らずに、メルティベスが泣きを入れる。
「おい、弓を下ろせ。剣も収めるんだ」
親ローマ派長老の息子は、自身の首が
部下が武器を収める様子を見て、メルティベスは弟セラヌリウスに懇願する。
「先ず、剣に込めた力を緩めてくれ」
咽を反らした姿勢で必死に頼み込む。
「ここは私達が
堅い表情で再度懇願した。
「信頼の証しは何か?」
セラヌリウス弟の低い声が聞こえる。
「私もオーヴェルニュ族の男だ。全てはオーヴェルニュ族の為を思ってした事なのだ。しかし今、自らの過ちを悟った。私はオーヴェルニュ族の未来を、別の方法で切り開く事としよう」
「誓えるのか?」
「部族の誇りに掛けて誓う…」
メルティベスの言葉を信じた弟セラヌリウスは、剣を
命の危機を脱したメルティベスは尻餅をつき、その場に座り込んでいた。
弟セラヌリウスが私達の所に戻って来る。兄セラヌリウスが荒い呼吸をみせる弟に寄り添い、
「さあ行こう!」
兄セラヌリウスに
使用人の爺や、ネネ、そして優しかった叔母の
だがその時であった。弟セラヌリウの背中目掛けて、一本の矢が撃ち放たれる。
敵の不意打ちにいち早く気付いた兄セラヌリウスが、弟のからだを突き飛ばし、私達に覆い被さる。矢は兄セラヌリウスの背に突き刺さり、
振り向いた私の顔に、真っ赤な血飛沫が吹きかかる。飛び出た矢の先端が兄セラヌリウスの胸から顔を