第5話 月明かりの夜の事件

文字数 2,783文字

《トモダチ・ゲストハウス》での暮らしに満足だ。

 ロビーに行けば、必ず誰かがいる。オーナーや従業員たちの人柄は良く、私の他愛のないお喋りにも快く付き合ってくれる。特に受付係のアラティとは気が合い、よく話し相手になってもらった。
 日本人御用達(ごようたし)の宿なので、日本人旅行者とも知り合える。人恋しさに悩まされずに済む。

 廊下の本棚には、過去の宿泊客たちが置いていった日本語の書籍も充実している。外出禁止令のために出歩けない日には、部屋で読書をして過ごす。

 時には、日本に比べて不便に感じることはある。電気系のインフラに問題があるのか、頻繁に停電した。

 部屋の照明が落ちるたびに、ゲストハウスの従業員であるゴヴィンダさんが、火の灯った蝋燭(ろうそく)を部屋まで持ってきてくれる。蝋燭の光を見詰めながら、物思いに耽る時間も悪くない。

 現代の日本では、停電は滅多に起こらないが、私の子供の頃には頻発した。家族で懐中電灯の光で過ごした時間が思い出される。不便さもまた、心の余裕さえあれば、楽しみと捉えられる。

 常連宿泊客に聞いたのだが、日本人の年金受給者の中には、カトマンドゥに長期滞在する人も多いらしい。私が留学していた当時は、贅沢さえしなければ宿泊費込みで3万円で十分に暮らしていける。経済面の都合だけではない。停電しやすい電気設備や舗装されていない道路などに、古き良き日本の懐かしさがあるらしい。

 国としては内紛状態にあるものの、国民一人一人は穏やか。親日家も多い。国際協力における日本の援助やボランティア活動でネパールを支援し続けている状況を知っており、日本人に対して概ね好意的である。

 不便はあっても心穏やかな暮らし。
 留学中は、このままこのままゲストハウス暮らしをすることになるだろう――そんなふうに考えていた私だが、滞在が3カ月を経過する頃には退居を考え始める。心変わりには、切っ掛けがあった。

 日本から自分で発送していた船便が、ついに届いた日だった。

 ネパールには海がない。なのに船便で荷物を送れるとは、可笑(おか)しな話だ。(実際には、インドの港まで船で来て、インドからカトマンドゥまでは陸路だそうだ。長い道のりである)

 郵便局で、あっちこっちを(たらい)回しにされた後、面倒な手続きを済ませる。ついに、自分が送った段ボール箱と対面を果たした。
 郵便物が届くなんて当たり前のはずなのに、謎の感動がある。実は、荷物が迷子になって届かない可能性も考慮に入れていた。届いたらラッキー、ぐらいの気持ちでいたのである。

 ちなみに、カトマンドゥから荷物を送る場合は、もっと面倒である。段ボール箱に荷物を詰め、封をしないまま郵便局へ。窓口で中身のチェックを受ける。周辺には、荷物の封をする職人が露店を開いている。職人に頼むと、(ろう)を垂らして密封してくれる。現代社会において、(いま)だに蠟で封じているのだ。

 日本から届いた段ボール箱を抱え、オート・リクシャー(3輪バイクのタクシー)で《トモダチ》に戻る。早速、箱を開けた。衣料品と文房具。読みかけだった村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』のイタリア語版も入っている。

 久しぶりに村上春樹を読みたい。部屋の窓から明るい月を鑑賞した後、カーテンを閉める。窓硝子(まどがらす)は開けたまま。乾いた夜風が吹き込み、室内を快適にしてくれる。

 読書の前に、シャワーを浴びた。完全にリラックスした私は、上半身が裸、下はパンツ一枚。なぜか黒のハイソックスを履く。他人には見せられない恰好(かっこう)で、ベッドに仰向けに寝る。ハイソックスの足を高く組んで、激しく貧乏揺すりをしつつ、両手で『ダンス・ダンス・ダンス』のイタリア語版を掲げる――すべてにおいて、変質的要素に満ち溢れた状態である。

 ふと、窓の外に、人の気配を感じた。

 ここは3階だ。人が来るはずがない。気の所為(せい)だと思い直し、再び『ダンス・ダンス・ダンス』の羊男の世界に入っていった。

 その時だ。

 カーテンの隙間から、大きな手が、ぬっと現れた。

「ぎゃああ」と叫ぶ。

 声に驚いたのか、手はすぐに引っ込んだ。

 カーテンで身体を隠しながら、顔だけ窓から出した。ネパール人の男が、屋根伝いに逃げていく。猫のような素早さだ。



 変態的な恰好を、見られた。

 恥ずかしさと恐怖で、血が騒ぐ。急いで窓を閉めた。窓の内鍵を掛け、服を着る。部屋を出て、廊下や階段の電灯を1つずつ()けながら、1階へ下りていった。

 ロビーには誰もいない。宿直しているはずの、従業員のゴヴィンダさんの姿も見当たらなかった。電灯のスイッチの場所もわからない。ただ、暗い闇が広がるだけだ。

 部屋に戻るのも怖い。困惑しながら階段を上がっていると、2階の一室から漏れる光に気付いた。男性が歓談する声がする。ドアに近づいて耳を(そばだ)てると、日本語の断片が聞こえた。

 思い切って、ドアとノックした。
「夜分遅く、すみません。ちょっと、お話があるんです。出てきていただけます?」
 部屋の中が、しんと静まり返った。物音一つ、聞こえない。
 もう一度、ノックした。「いらっしゃいますよね?」

 やがて、ドアが静かに開いた。日本人の青年が、不審そうな顔で立っている。
 気持ちはわかる。深夜に得体の知れぬ女が訪ねてきたら、それは怖いだろう。
「ご用でしょうか? 何か、ありました?」

 私は〈窓からの侵入事件〉、〈従業員の不在〉を説明した。

「ああ。そういう話でしたか。それはそれは、大変でしたねえ」
 青年の頬に赤みが差す。緊張の()けた表情だ。

 部屋の中にいた別の男性も顔を出す。
「ゴヴィンダさんが、ロビーにいるはずだけどなぁ。おかしいね」
「そうなんです。私もてっきり、1階で宿直をしていると思ったんですけど。夜中は誰もいないんでしょうか。そんな宿って、あります?」
「いや、誰かはいるでしょう。こんな時に、参ったね。女性が1人だと、いろいろと不安でしょう?」
「今回ばかりは、もう、びっくりです。もう一度、ゴヴィンダさんを捜そうかなぁ。すみませんが、ロビーまで一緒に来てもらえませんか?」
「わかりました。行ってみましょうか」

 2人を連れて、再び1階へ下りた。やはり誰もいない。真っ暗だ。電灯のスイッチを捜して3人でウロウロしていると、階段の下から、誰かがぬっと現れた。またしても、「ぎゃああ」と絶叫である。

 現れた男は、電灯を点けた。ゴヴィンダさんだった。階段の下のスペースを寝床にしていたのだ。

 事情を説明した。

 今度はゴヴィンダさんも含めた4人で、3階の私の部屋に上がる。

 ゴヴィンダさんは部屋を見回したあとで、「まあ、大丈夫でしょう。部屋を変えてあげるから」と。

 釈然としない。簡単に侵入できる建物構造も心配だし、犯人が捕まっても困る。変態的な姿で寝ていた秘密が明るみに出るからだ。

 せめて、ハイソックスだけは脱いでおけばよかった。

 
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登場人物紹介

リカルド

クラスメイト

メキシコ人

40代半ば(当時)

神話やインドの文学に興味があり、『ラーマーヤナ』(インドの代表的な文学作品。ラーマ王子の英雄譚)を原文で読みたい

きっちりした性格

ダニエル

クラスメイト

イスラエル人

30代半ば(当時)

アメリカでカメラマンをしていた際、ヨーガを学び始める。精神世界・瞑想に興味ありいずれはサンスクリットでヨーガ・スートラ(ヨーガの経典)を読みたい

大の甘党。ディスコでの夜遊びがやめられない

篠田さん

クラスメイト

日本人

65歳(当時)

ヨーガ、瞑想の(自称)エキスパート。日本の某私立大学の英語講師を25年に亘り勤め上げた。サンスクリットを学んで教本を出版したい

本人曰く、動物をも感動させる歌声を有し、森で鹿を泣かせたことがあるらしい

ディーパ

教師

ネパール人

25歳(当時)

幼少の頃から英才教育を受け、サンスクリットをマスターした才女

3児の母でもある

宏美(私)

日本人

27代半ば(当時)

大学1年生の時にインド旅行で衝撃を受け、インドの虜に

基本的にボーっとしてる

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