#14
文字数 2,468文字
“Pater Noster”
(僕の後ろに追い立てるものがいる。狩り立てるものがいる。逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ――――)
おそろしいものから、おぞましいものから、ハカナはただひたすらに逃げ続けた。彼の背後からけたたましい音が立ち続ける。幸いなことか、追い立てるものはそこまで足が早くなかった。
だが、ハカナの体も動く度に悲鳴を上げる。彼は息を切らしながらも、全身に響くような痛みを無視して、騙し騙し、それでも構わず走り続けた。
(神様、神様、神様――――)
彼は祈り続ける。しかし、いくら祈ろうとも、肉体の限界は近付いていった。息を切らせ、疲労で濁りつつある視界でハカナは先を見る。視界の中に、ほとんど崩れていない廃墟を捉えた。外装は剥げてはいるものの壁は崩れてなく、丈夫そうに見える。
(あそこに……行こう。それで、やり過ごすんだ)
ハカナはその廃墟の中に滑り込むように逃げ込んだ。廃墟の入り口は狭く、丁度、人が一人通れる程度のものだ。あの巨体じゃこの中に入れないであろう。扉を閉め、少しでも遠くに逃れようと建物の奥まで駆け抜ける。
(このまま、あの怪物が諦めてくれたら……)
なんて、短絡的な甘い考え。そして、そんな甘い考えは即座に現実に塗り替えられた。建物が揺れる。怪物には廃墟なんてものは関係なかった。その巨体をぶつけ、廃墟自体を破壊しようとし始め出したのだ。
「マッテ、マッテ、マッテッ!」
「誰も、待つ訳がないだろ……」
なんて、ハカナが独り言を溢してもこの中は袋小路だ。逃げ場はない。あの怪物ならともかく、彼には家屋の壁なんて壊せる訳がない。
体が震える。彼は怪物に捕まった時の事を思い出し、『恐怖』が体を締め付ける。
「なんで、僕が……こんな目に……」
訳が分からない。一体、僕が何をしたんだ。自問自答しようにも答えが返って来るはずもなく――――
「誰……?」
――――代わりに、逃げ込んだ部屋の中から別の誰かの声が聞こえてきた。女の子の声だ。小さくても透き通るような、しかし無機質な、人の感情らしきものがまるでないような声音。
反射的に身を強張らせながらも、ハカナは恐る恐る声のする方を向いた。声の主と視線が合う。
「あ……」
彼は言葉を失った。この廃墟は元は教会だったのであろう。斜めに崩れかけている十字架、その後ろには手に百合の花を持つ天使の描かれた、所々にひびが入ったステンドグラス。そこから差し込む光の下に佇む一人の少女。
歳はハカナより少し下に見える。長い蒼い髪は、どんな蒼より深く、陽の光を吸い込み輝いていた。紫の瞳は淡く、月光に清められた宝玉。白い肌は何もかもを透き通すようでいて、まるで人の形をした宝石のような。
少女の表情からは感情があまり感じられない。人の気配とは別の――――神秘的な存在だった。
一つの完成された宝石のようなその娘は、あまりにも綺麗だったから。ハカナの思考は止まり、動けなくなる。
そんな彼にお構い無しに少女――レキナは近づいた。無表情に鼻をクンクンと彼を嗅いだ。その姿はどこか猫を彷彿とさせる。
「……あなた、変な臭いね」
「なっ」
まるで場違いなレキナの言葉に、ハカナは我を取り戻した。さも当然といった風に無表情に言われると、余計に傷つく。例の怪物になる前の少女には真逆の事を言われたけれど。やっぱり、臭ってるのか……?
「って、そんな場合じゃない! 君、逃げないと――――」
――――ハカナは自分は馬鹿だな、と思う。さっきも似たようなことがあったばかりじゃないか。そして、その結果がこの今の状況 だ。
『恐怖』も確かにあった。きっと、この行いは無意味なものになるだろうと、諦観に似た感情もあった。しかし、ハカナは手を伸ばした。
「でも、どこかで――――どこだったかしら?」
ハカナの思いと裏腹に、マイペースにそんな独り言をつぶやいたレキナは、自身に伸ばされたハカナの手を無感情に見る。続けて彼女は彼の後ろに目を移した。
その視線に気付いたハカナは後ろを振り返る。
「マッテ、マッテ、マッテ――!!!」
聖堂の扉が強引に開かれ壊れた。向こうから聞こえる、壊れかけた蓄音機の音。音源からは同じ音が繰り返され続けていた。
「あ……」
怪物の肢体の失われた箇所からは止めどなく血が流れている。きっとその全てが怪物の血ではないだろう。非対称で歪な姿で怪物は建物の壁を壊そうと、その身を無理矢理、押し込もうとしていた。
何がそこまで駆り立てているのだろうか。巨体が引っ掛かっているものの、化け物は建物の天井や壁を押し潰しながら、ゆっくり、しかし、確実に近付いてくる。
再び恐怖を、死を、ハカナに与えるために。
「……あぁ、思い出した」
そう小さく呟いて、レキナはあろうことかハカナの横を通り、怪物に近付いた。
「待っ……」
止めようと言葉を発しかけるも、ハカナは動けなくなった。
『恐怖』だ。
だがきっと、それだけではないのだろう。幾度となく狂気を刻み付けられた彼の魂が、悲鳴を上げている。全く体が動かない。呼吸もままならない。まるでタールのプールに沈んでしまったかのように、彼は蝕まれている。
レキナはそんなハカナの様子など気にも留めず、怪物の前まで歩を進めた。横切った時、彼女を包む雰囲気がわずかに変わったようにハカナは感じた。
そして、レキナは怪物を前にして、指を組む。
静かに目を閉じた彼女からは、怪物に対する恐れを感じない。
しかし、彼女は畏れていた。目の前の怪物とは別の存在に。この場に居ない存在への敬虔なる畏怖。
レキナは目を瞑り……そして、まるで祈るように。謳い上げるように、聖句を捧げる。
「宙 にまします、われらが神 よ――――」
と。
――――――その聖句と共に、世界が揺れた。
(僕の後ろに追い立てるものがいる。狩り立てるものがいる。逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ――――)
おそろしいものから、おぞましいものから、ハカナはただひたすらに逃げ続けた。彼の背後からけたたましい音が立ち続ける。幸いなことか、追い立てるものはそこまで足が早くなかった。
だが、ハカナの体も動く度に悲鳴を上げる。彼は息を切らしながらも、全身に響くような痛みを無視して、騙し騙し、それでも構わず走り続けた。
(神様、神様、神様――――)
彼は祈り続ける。しかし、いくら祈ろうとも、肉体の限界は近付いていった。息を切らせ、疲労で濁りつつある視界でハカナは先を見る。視界の中に、ほとんど崩れていない廃墟を捉えた。外装は剥げてはいるものの壁は崩れてなく、丈夫そうに見える。
(あそこに……行こう。それで、やり過ごすんだ)
ハカナはその廃墟の中に滑り込むように逃げ込んだ。廃墟の入り口は狭く、丁度、人が一人通れる程度のものだ。あの巨体じゃこの中に入れないであろう。扉を閉め、少しでも遠くに逃れようと建物の奥まで駆け抜ける。
(このまま、あの怪物が諦めてくれたら……)
なんて、短絡的な甘い考え。そして、そんな甘い考えは即座に現実に塗り替えられた。建物が揺れる。怪物には廃墟なんてものは関係なかった。その巨体をぶつけ、廃墟自体を破壊しようとし始め出したのだ。
「マッテ、マッテ、マッテッ!」
「誰も、待つ訳がないだろ……」
なんて、ハカナが独り言を溢してもこの中は袋小路だ。逃げ場はない。あの怪物ならともかく、彼には家屋の壁なんて壊せる訳がない。
体が震える。彼は怪物に捕まった時の事を思い出し、『恐怖』が体を締め付ける。
「なんで、僕が……こんな目に……」
訳が分からない。一体、僕が何をしたんだ。自問自答しようにも答えが返って来るはずもなく――――
「誰……?」
――――代わりに、逃げ込んだ部屋の中から別の誰かの声が聞こえてきた。女の子の声だ。小さくても透き通るような、しかし無機質な、人の感情らしきものがまるでないような声音。
反射的に身を強張らせながらも、ハカナは恐る恐る声のする方を向いた。声の主と視線が合う。
「あ……」
彼は言葉を失った。この廃墟は元は教会だったのであろう。斜めに崩れかけている十字架、その後ろには手に百合の花を持つ天使の描かれた、所々にひびが入ったステンドグラス。そこから差し込む光の下に佇む一人の少女。
歳はハカナより少し下に見える。長い蒼い髪は、どんな蒼より深く、陽の光を吸い込み輝いていた。紫の瞳は淡く、月光に清められた宝玉。白い肌は何もかもを透き通すようでいて、まるで人の形をした宝石のような。
少女の表情からは感情があまり感じられない。人の気配とは別の――――神秘的な存在だった。
一つの完成された宝石のようなその娘は、あまりにも綺麗だったから。ハカナの思考は止まり、動けなくなる。
そんな彼にお構い無しに少女――レキナは近づいた。無表情に鼻をクンクンと彼を嗅いだ。その姿はどこか猫を彷彿とさせる。
「……あなた、変な臭いね」
「なっ」
まるで場違いなレキナの言葉に、ハカナは我を取り戻した。さも当然といった風に無表情に言われると、余計に傷つく。例の怪物になる前の少女には真逆の事を言われたけれど。やっぱり、臭ってるのか……?
「って、そんな場合じゃない! 君、逃げないと――――」
――――ハカナは自分は馬鹿だな、と思う。さっきも似たようなことがあったばかりじゃないか。そして、その結果がこの今の
『恐怖』も確かにあった。きっと、この行いは無意味なものになるだろうと、諦観に似た感情もあった。しかし、ハカナは手を伸ばした。
「でも、どこかで――――どこだったかしら?」
ハカナの思いと裏腹に、マイペースにそんな独り言をつぶやいたレキナは、自身に伸ばされたハカナの手を無感情に見る。続けて彼女は彼の後ろに目を移した。
その視線に気付いたハカナは後ろを振り返る。
「マッテ、マッテ、マッテ――!!!」
聖堂の扉が強引に開かれ壊れた。向こうから聞こえる、壊れかけた蓄音機の音。音源からは同じ音が繰り返され続けていた。
「あ……」
怪物の肢体の失われた箇所からは止めどなく血が流れている。きっとその全てが怪物の血ではないだろう。非対称で歪な姿で怪物は建物の壁を壊そうと、その身を無理矢理、押し込もうとしていた。
何がそこまで駆り立てているのだろうか。巨体が引っ掛かっているものの、化け物は建物の天井や壁を押し潰しながら、ゆっくり、しかし、確実に近付いてくる。
再び恐怖を、死を、ハカナに与えるために。
「……あぁ、思い出した」
そう小さく呟いて、レキナはあろうことかハカナの横を通り、怪物に近付いた。
「待っ……」
止めようと言葉を発しかけるも、ハカナは動けなくなった。
『恐怖』だ。
だがきっと、それだけではないのだろう。幾度となく狂気を刻み付けられた彼の魂が、悲鳴を上げている。全く体が動かない。呼吸もままならない。まるでタールのプールに沈んでしまったかのように、彼は蝕まれている。
レキナはそんなハカナの様子など気にも留めず、怪物の前まで歩を進めた。横切った時、彼女を包む雰囲気がわずかに変わったようにハカナは感じた。
そして、レキナは怪物を前にして、指を組む。
静かに目を閉じた彼女からは、怪物に対する恐れを感じない。
しかし、彼女は畏れていた。目の前の怪物とは別の存在に。この場に居ない存在への敬虔なる畏怖。
レキナは目を瞑り……そして、まるで祈るように。謳い上げるように、聖句を捧げる。
「
と。
――――――その聖句と共に、世界が揺れた。