第五章

文字数 7,595文字

第五章

翌日。華岡が運転する覆面パトカーが、製鉄所の玄関先にやってきた。

「ほら、迎えに来たよ。いってきてちょうだい。」

恵子さんが、四畳半のふすまを開くと、水穂は、もう着物も着替えて袴をはき、支度を整えて待っていた。

「今日は、杉ちゃんも一緒だし、もし医者がバカにすることをいうようであれば、バカにすんなこの野郎!くらい怒鳴ってきてね。」

「無理ですね。怒鳴る体力はどこにもありません。」

水穂は、恵子さんに苦笑いをしてかえした。一応笑ってはいるが、その顔からいきたくないという気持ちがみてとれる。

「じゃあ、代わりに杉ちゃんに怒鳴ってもらって。今日はちゃんと、先生の話をきいて、生活の注意とか、食事の注意とか、しっかり聞いてきてね。」

「生活なんて、寝ていろしか言われることはないですよ。」

水穂は、よいしょ、と立ち上がり巾着をとって咳き込みながら玄関先に移動した。

「もし、点滴でもするんだったら、しっかりやってもらってきてね。今日は、おそくなっても構わないから。ご飯は作っておきますからね。」

「あ、わかりました。まあ、そのときは杉ちゃんに代理で連絡してもらうようにしますから。」

咳き込みながら、玄関に出て草履をはいた。もしもの時のために、ブッチャーがやってきて、玄関先に控えていた。

「大丈夫ですか?すみませんね、俺もつきあえればいいんですけど。ちょっと用事がありまして。あんまり待たされると、間に合わなくなりますから。」

「なら、わざわざこっちまで来てくれなくてもよかったのに。」

「そんなこと言わないでよ。ブッチャーも心配になって来てくれたのよ。」

「すみません。いってきます。」

恵子さんたちの心配をよそに、軽く敬礼してさらに咳き込みながら、水穂は、玄関から外に出ていった。

「あーあ、大丈夫かなあ、まあ、杉ちゃん、口がうまいから、うまく誤魔化してくれるとはおもうんだけどねえ。うまくやれるかどうか、、、。」

恵子さんは、大きなため息をつく。

「水穂さんは、若い頃ヴロンスキーとあだ名されていたようだが、少なくとも本物は、ああいう弱々しい感じではなかったと思うなあ。」

不意に、ブッチャーがそんな発言をした。

「あら、ブッチャーも読んでたの?トルストイのあの本。」

「はい。男の恋愛におけるお手本として読んでいました。俺も、ああいうきらびやかな世界に憧れたことがありまして。」

「まあ、嫌だわあ。あれはねえ、お伽噺で、現実にあんな女たらしの色男がいたら、いい迷惑なだけよ。それに、水穂ちゃんとは、比べ物にならない、贅沢男よ!中年おばさんには、いっちばん迷惑ねえ!」

笑いながら恵子さんは、そう豪語した。

「はい!すみません!やっぱりイケメンは得だ!俺は、書物でなければああいうちやほやされることは絶対体験できないんだからな!」

「それにしても、ブッチャーがそんなおせんちであるとは、知らなかったわ。」

恵子さんは笑っていたが、聰は、がっかりとため息を付いた。



一方。華岡の覆面パトカーに乗って、水穂と杉三は、例の生田記念病院の玄関先で降りた。

「じゃあ、俺、捜査会議があるから、悪いけど署に戻るけどさ、もし、迎えに来てほしい時間になったら、俺のスマートフォンに電話をかけてくれな。」

そういって華岡は、改めてパトカーに乗り込んだ。

「悪いねえ。華岡さん、富士市の平和のために、頑張ってくれよ。」

「悪いのはこっちのほうだ。俺も本当は付き添いたかったが、どうしても捜査会議をしたいって、部下のものは聞かなくてさあ。」

「いいよ。どうせ、そうなるって予想できてたもん。病院って少なくとも、二時間は待つからさあ。もうそれで、捜査会議に遅刻したら、部下の人たちから、大目玉を食らうわ。」

「すまん。じゃあ、また連絡する。くれぐれも体調に気を付けてくれよな。」

「はいよ。」

華岡は、パトカーを走らせて、病院を後にした。杉三とこのやりとりをしている間、水穂は何も返答ができずに、ただせき込んでいるしかなかった。

病院の自動ドアが開いて、二人が中に入ると、

「来た!あの人よ!」

中で待っていた中年の女性患者たちが、さっと散っていく。

「ああ、またやるのかな。気持ち悪いわあ。」

「あんなにきれいな人なのに、かわいそうとは思えないわねえ。どう見ても、ヨーロッパ系の顔してるでしょ。あそこのあたりでさ、ああいう病気になるほど、不衛生な国家ってあった?」

「うーん、ヨーロッパでつい最近まで戦争をしていたとなると、ボスニアあたりかしら?」

「ちょっとイメージ違うなあ、、、。」

「きっとそういうところで、偶然もらってきて、日本に密入国して、こっちに来たのよ。」

「うるさいね、あんたらは!つまんない他人の噂話で、盛り上がっている暇があれば、ご飯の支度でもしろ!」

若い主婦と思われる女性患者たちが、ひそひそしゃべりだしたので、杉三はでかい声で怒鳴りつけた。

「ほら、あんなひどいこと言われるんなら、怒ってもいいんだぜ。怒鳴ってやれ。」

「いいよ、杉ちゃん。こういわれても仕方ないから。」

水穂本人は、もう反論する体力すらないので、杉三にそっと言った。

「ええー。だってさ、そんなこと言われて、いやにならないの?そういうときは、男らしく怒ればいいんだよ。」

「もういいよ。杉ちゃん。とりあえず受付を済ませなきゃ。」

とりあえず、せき込みながら受付に向かっていったが、それを若い女性患者たちが、いやらしそうに見つめていた。

受付を済ませて、呼吸器内科の立て看板前に設置された椅子に座らされ、待っているように告げられたが、二人がそうすると、周りで待っていた患者たちはさっと離れてしまい、椅子は空っぽになってしまう。

「あーあ、いやだねえ。てか、いやらしいねえ。今の女たちは、自分が恵まれているのを忘れているのか、他人のいじめに快楽を持っちゃうのよね。早くそっちに目を向けろ!」

空っぽになった椅子に座ったまま、水穂はせき込んで杉三の言葉を聞くしかできなかった。

「大丈夫か?苦しいか?もう少しだから、座ったままで我慢しろよ。」

「あ、ごめん。ここで二時間以上待つから、、、。」

言い切る前に、咳で止まってしまうのであった。

「え?ここでそんなに待たされるの?まったく不親切だなあ。椅子さえあればいいとでも思っているんだろうか。あ、そうだ、どうせ空っぽなんだから椅子に横になっちゃえ。」

「いい。そんなことはしたくない。」

それだけはしたくないと思った。そうしたら、看護師にまで嫌味を言われるような気がする。

そのまま、杉三に背中をたたいてもらったりして、しばらく待たされることになった。確かに、何人かの看護師が二人の前を通ったりしたが、声をかける看護師は一人もいない。

「おい、不親切だぞ!」

杉三が看護師に怒鳴っても、彼女たちは無視していってしまうのだった。

「冷たいな。と、いうことはもう、ばれてんだろうか。」

思わず杉三がそう口にすると、

「杉ちゃんお願い、それだけはやめて!」

水穂は、そこだけは強く言った。というか、いうことはできたのだが、また胸部に痛みを感じて、呻く羽目になるのであった。

「磯野さんどうぞ。」

やっと目の前の診察室のドアが開く。

「あの、僕も手伝っていいですか!」

また杉三がでかい声で言ったので、二人で診察室に入ることが救いだったのであった。

そのまま、診察室のドアは閉まったが、待合室で待っている患者たちは、例の気難しいことで知られている、呼吸器内科の医師と、対抗して一人の男性とが、激しいガチンコバトルを繰り広げるのを聞くことになった。時折、その中から、別の男性が、弱弱しく、しかし激しくせき込んだり呻いたりする声が混じってきて、なんとも哀れな光景であった。

このガチンコバトルは実に長時間にわたった。診察が終わって、二人が出てきて、新しい患者が呼び出される時には、小一時間近くたってしまった。



「ああん、もう!あんな馬鹿医者の世話になるなら、入院なんてするもんじゃないよ。よかったねえ。化けの皮がはがれてくれてさあ。もう、あんなひどいこと平気でいう医者は、ただ医学の知識があるだけの、鼻たれ小僧様だ!」

診察室から出た杉三が、まず発した第一声はこれ。

また周りの患者たちがざわざわと騒ぎ出す。非難するものもいたが、中にはこの発言を支持するものもいた。

「そうね。確かにあの先生は、うちの子が喘息の発作で担ぎ込まれたときも、この程度で呼び出すなとか、あたしに怒鳴ってたわよ。」

「うちは、おじいちゃんなんだけどね。肺炎で入院したいといったんだけど、うちでこの程度の軽い患者さんはみないって、高圧的に言ったの。こんな軽い患者だったら、病院がパンクするって、笑ってたわ。」

「ほらあ。あの医者はやっぱり馬鹿医者だ。ああして、弱い人に不適切な発言をする。だから、堂々としていれば、それでいいだよ!」

杉三が、水穂にそっと言った。少なくとも、彼女たちのいうように、弱い人に対して、暴言を平気で吐いている医師のようであり、やっぱり鼻たれ小僧様と言っても過言ではない。

でも、二人に対して、直接礼をいうとか、そういうまねをする女性はいなかった。でも、彼女たちにとっては、直接礼を言いたかったに違いない。

でも、そうされてもせき込むしかできない水穂である。



近くの椅子から、一人の男性が立ち上がって、水穂たちの下へ近づいてきた。たぶん、年齢は50歳前後で、水穂より少し年上のようだ。やっぱり痩せてやつれているが、水穂ほど悲惨な印象はなく、貫禄のようなものも感じさせた。となると、一般的な人物とはいいがたく、何か商売をしているというか、実業家なんだろうなという雰囲気があった。

「すみません。」

彼がせき込んでいる水穂の肩をたたく。

「誰だい、あんたは。」

代わりに杉三が返答した。そういうと、

「あれれ、理事長にそういう口の利き方ができるとは、すごいもんだな。」

「もしかしたら、暴力団とかそういう人かなあ。やだあ、怖いわ。」

また患者たちはざわつき始めた。でも、その人は、何も気にしていないようで、

「外出ましょうか。ここにいても、みんなが噂して、落ち着かないでしょうから。」

と、聞いてきた。

「あ、でも、会計があるんだ。もうちょっと待ってなきゃまずいんだ。」

杉三がそう返答すると、その人は、近くを通りかかった看護師に向かって、

「すみません。磯野さんという方の、会計の準備が済んだら、庭へ呼びに来てくれるように言ってくれませんか。僕たちは、病院の中庭で待っていますので。」

と、言う。

「はい、わかりましたよ。理事長さん。受付ちゃんたちに言っておくから、待ってて頂戴ね。」

親切な高齢のおばさんの看護師であったから、助かったようなものであった。もし、若い看護師なら、ちょっと変だなとかいうかもしれない。

「じゃあ、磯野さん。中庭で待ってましょうか。」

その人は、水穂に手を出して立たせ、肩を支えて中庭に移動した。中庭には外来患者は誰もおらず、入院患者が、看護師と散歩をしているだけで、水穂たちを変に噂する人はいなかった。ただ、通りかかって、よう理事長さん元気かい、なんていう患者たちはいた。

「ここどうぞ。座ってください。もし、何か飲みたければ、自動販売機で買ってきますから。」

彼に促されて、庭のテーブルに、水穂はよろよろと座った。それを追いかけてやってきた杉三が、隣に車いすを停止させた。

「一体あんたは、どこの誰なんだよ。みんなが理事長理事長と言っているが、なんか会社の役員でもしてるのか?」

杉三が、そう聞くと、

「あ、申し遅れました。僕、曾我と申します。正式な名前は曾我正輝です。」

と、その人は言った。

「曾我?」

水穂も思わず聞き返す。

「曾我って、曾我兄弟の曾我?水穂さんもそれなら聞き覚えがある名前だよな。」

「ああ、それと血縁関係があるわけではなく、偶然同じ苗字だっただけなんですけどね。この富士の松岡に住んでおります。」

「松岡の曾我と言いますと、もしかしたら、、、。」

なんとなく思い当たる節があるが、水穂は思い出す前にせき込んでしまった。

「もったいぶらないで早く言え。ただでさえ咳で苦しい水穂さんに、あまりしゃべらせるな。ちなみに、僕の名前は影山杉三。杉ちゃんと略して呼んでくれや。そして、こっちは、僕の親友の、磯野水穂さんだ。よく、労咳と間違われて困っているが、まったく違うからな。」

「あ、わかりました。皆さん、その症状になじみがないから、そう見ちゃうんですよ。僕もよく、病名を口にしても、わかってもらえないので、あきらめていますから、その気持ちはよくわかります。ちなみに、僕の家は、松岡でジンギスカアンというしゃぶしゃぶ屋をやっていますが、店の経営は実質的には弟がしていますので、一応理事長として店には籍を入れていますけど、病気のために、ほとんど実務には出てないんです。」

と、その人はわらってそう説明した。

「ジンギスカアンというと、有名なしゃぶしゃぶ屋ですね。よく、宴会なんかが開催されることもありますし、テレビで中継されたこともあったと思いますが。」

「へえ、肉を食べてはいけないと言われている、水穂さんでさえも知っているんだから、相当有名な店だなあ。そこの社長だったのね。」

水穂と杉三はそれぞれの感想を述べた。

「違いますよ。社長は弟がやっていて、僕は名ばかりです。一応、年上ということもあり、社長よりさらに上の理事長職になっていますが、何の役にも立ちはしません。」

「へーえ、そう?じゃあなんで看護師さんたちは、君のことを理事長というんだろう?尊敬していることの表れなのでは?」

「いいえ。違います。この病院が新病棟を立てるときに、弟が僕を治療させることを条件として、かなり高額な融資をしたものですから、それでそう呼ばれているだけなんですよ。それに、弟と僕は血縁関係ではないですから、あくまでも義理の兄弟なので、さほど仲がよいということもないですよ。」

「て、ことはつまり、弟さんは、婿養子として会社に入ったのか?君が、社長として業務できないから、平社員の人を、婿に取ったとか?」

と、杉三は聞いた。

「それか、ライバル会社と合併するときに、その会社の御曹司と政略結婚で入ってきたのか?」

「いえ、どちらでもないですよ。もともと、先代である父が、社長をしていたんですけれど、その父がすぐになくなってしまったので、母は、一年後に平社員の男性と再婚したんですね。先代の父との間に生まれたのが僕で、再婚相手との間に生まれたのが弟でした。もちろん、この取り決めが決定されたのは、僕がまだ赤ん坊のころでしたので、まったく記憶にありませんが。まあ、仕方ないですよ。母としてみたら、店の後継者として、健康な子供がどうしてもほしかったでしょうしね。母だけではなく、店の従業員も、みんな望んでいましたから、すんなり決まりました。」

「へえ、ジョチみたい。ほら、有名な逸話であるじゃないの。本物のジンギスカンが知らないうちに、奥さんであるボルテ夫人が、ライバルのメルキト族の族長と姦通して生まれた私生児でさ。」

「あ、ああ、そうですか。よく知ってますね。そんなこと。」

「杉ちゃん、それを言うならジョチではなくジュチでは?」

やっと二人の長い自己紹介の間に、水穂が介入することができた。

「いえいえ、あってますよ。最近は歴史の教科書の表記も変わってきてますし。すでにジンギスカンを描いた映画でも登場してますが、ジュチと表記する映画もあるし、ジョチと表記している映画もあります。うちの店が、しゃぶしゃぶ屋であることもあり、従業員からそれになぞらえて、からかわれたことも珍しくないです。」

そういって、彼はカバンの中からチリ紙を出して鼻をかんだ。その鼻水は、なんだか異様に黄色っぽくて、独特のにおいがした。

「まあいいや。すでに店の従業員にも認められているんだし、どうも理事長と呼ばれるのも嫌だろうし、本名もどうも覚えるのが苦手なので、僕は君のことを、ジョチと呼ばせてもらうわ。僕のことも、杉ちゃんと呼んでくれよな。それに、敬語でしゃべられるのも苦手だから、平気で君僕でしゃべってくれ。」

「あ、はい。わかりました。これからそうしますよ。」

「よろしくう!」

杉三は彼の手をがしっと握った。

「杉ちゃんは本当に、誰かとすぐに仲良くなるんだね、、、。」

このありさまをみていた水穂は、呆気に取られてそういう感想を漏らす。

「ちょっと失礼。」

ジョチは、もう一回鼻をかんだ。また黄色い鼻水が、どっと出る。

「しかしひどいですね。蓄膿症か何かなんでしょうけど、それにしては。」

「あ、違いますよ。僕も水穂さんと近いかもしれませんが、生まれつき遺伝子の欠落のせいで、鼻水を含めて体液が異様に濃くなるという病気なんです。専門的に言ったら、嚢胞性線維症とか言うようですが、あんまり詳しく知らないんですよ。こないだまで、ただの風邪なのに、ひと月近く入院させられて、本当に嫌でした。」

「あ、聞いたことありますよ。ヨーロッパではよくあるらしいですけど、日本では本当にまれだと聞きました。そうなると、理解度も極めて低いだろうし、難しいでしょうね。」

「まあそうかもしれませんね。運のいいことに、弟夫婦も理解してくれて、代理で店の経営もしてくれてますし、恵まれているほうなのかなとは思います。本当は、長男なんですから、店の責任者としてしっかりやらなければなりませんが、文句ひとつ言わず代理でやってくれますので。」

「そうですか。本当にね、珍しい障害を持ってしまうと、どうしても偏見にさらされて孤独になりますよね。そこに耐えていかなければならないのが、どうしても宿命的なところなんでしょうが、、、。あれ、杉ちゃんは?」

いつの間に、二人が障碍者特有の話をしていると、杉三の姿がなかった。

「自動販売機でも行ったかな?」

「かわいそうな水穂さんとジョチの友情成立に乾杯だ!」

いつの間にか、杉三が、三本のペットボトルの水を買って戻ってきたのであった。

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