第1話
文字数 1,998文字
「犯人の足取りはつかめたかね、平井君」
高木が訊ねた。
「犯人って言わないでください。私たちは、探偵で、単なる浮気調査なんですから」
高木探偵事務所で、コーヒーをすすりながら、所長の高木は、助手の平井の冷たい視線を気にせず会話を続けた。
「私が君に求めているのは、YesかNoだ。
A word is enough to the wise. (一言が賢者には十分だ)私は一を聞いて十を知る人間だよ。一言で足りるのだよ」
平井は、胸を張って、
「Yesです。変に英語をはさまなくても伝わります。ラブホテルに入るところと出てくるところの写真をしっかり撮りました。もちろん、十分な時間滞在をしていました」
不倫の証拠写真については、ラブホテルの出入りとその間の所要時間も重要であることを、基礎知識として高木は平井に教えてある。高木は、ちょっと、会話に外国語を入れる癖の強い探偵であるが、助手を教育する力はあるようだ。
「それじゃ、この写真をもって、依頼者の奥さんに報告すれば、終了ですね。さっそくお願いします」
すると、高木は、人さし指を立てて、平井の顔の前で振って、
「ちっち。君は、森の中で猿を捕まえるには、ゆっくりに限る。ということわざは知らないようだね」
「知りませんよ。それは、どこのことわざなんですか」
「ああ、私が青年のころ行ったアフリカのセネガルで聞いた言葉なのだよ。意味は、目的を達成するためには、あせっちゃいかんということだな」
「ストレートに言って下さったほうが、ありがたいのですが」
「いいかい。調査は、一日いくらで計算されるのだよ。あまり簡単に結果を出しては、探偵事務所の経営が苦しくなる。それに、報告書の書きぶりも注意しなきゃならん。
「悪徳探偵と一言で言えそうですね」
二人の間に気まずい沈黙が走った。
「平井君、un ange passe(今、天使が通ったね)この沈黙は、嫌いじゃないよ」
「所長は、金稼ぎの他にフランス語もお得意のようですね」
平井は、嫌みを込めて言い返した。しかし、平井自身も、自分はフランス語は得意なのだというアピールも忘れなかった。大学は仏文科を卒業している。
「今の沈黙は、僕があきれて言葉を失っただけです」
「せっかく君の得意なフランスの言い回しでこたえたのに……。よし、今日は仕事を終わりにして、駅前のパブ『立ち飲みケンタ』で一杯やろうじゃないか。その前に、Nature calls me.(自然が呼んでいるぜ)トイレに行っておこう」
夕方5時をまわっていなかったが、2人は連れ立って事務所から駅前の『ケンタ』に向かった。事務所の前には大きな公園があり、そこを通り抜けると、近道だ。時間的には、子どもたちは家路につき、大人はこれから仕事を片付けるというところで、公園はちょうど人がいない時間帯だった。
公園の中を歩き始めると、植え込みがあり、人があまり通らない所に、1人の少女が、倒れていた。
所長は、見なかったことにしようと目を背けたが、
「所長、大人としては、誉められませんね」
と、平井は、少し所長に苦言し、身をかがめて、
「もしもし、お嬢ちゃん、どうかしましたか」
と、声をかけた。すると少女は、
「ええと、お父さんとケンカして、走って先に行ったら、はぐれちゃって……。のどがカラカラで、歩けないんです」
高木は、冷たく
「水は、すぐそこに水飲み場があるよ」
「いえ、わたし、屋根の下で、コップに入ったお水じゃないとダメなんです」
「まあ、なんてお嬢様なんだ。これは、お父さんのところに連れて行ったら、謝礼がもらえるかな」
高木は、急に、少女の服の土埃をたたいてやるなど態度が変わった。話を聞くと、駅に行く途中で、口ゲンカをし別々になったようなので、駅に行けばなんとかなりそうだった。高木と平井は目配せした。それに2人の目的とするパブも駅前だ。
「パパが、駅で待っているかもしれないから、送ってあげるよ。もしいなかったら、一緒に待ってあげる」
高木が少女に背を向け、しゃがんだ。
「歩けないなら、おんぶしてあげるよ」
少女は、おんぶされたとたん、
「クッ、クッ、ク」
と笑い始めたかと思うと、地面が揺れ、高木は少女をおんぶしたまま、地面にめり込んでいった。
「おい、なんなんだ。俺は女の子をおぶっているんだよな。けっして子泣き爺なんかじゃないよな」
慌てて高木が叫ぶと、平井も、
「どちらかというと、首都直下型地震か。液状化現象なのかもです」
冷静なのか、あわてているのか訳がわからなくなった。
そのうちに、少女は鳩のように小さくなって、空に消えた。
二人は唖然として、空を見上げたまま、沈黙が二人の間を……。
「おお、また、天使が通った」
「いえ、天使じゃなくて、妖怪……じゃなくて、妖精ということで、報告書には書いておきましょう」
高木が訊ねた。
「犯人って言わないでください。私たちは、探偵で、単なる浮気調査なんですから」
高木探偵事務所で、コーヒーをすすりながら、所長の高木は、助手の平井の冷たい視線を気にせず会話を続けた。
「私が君に求めているのは、YesかNoだ。
A word is enough to the wise. (一言が賢者には十分だ)私は一を聞いて十を知る人間だよ。一言で足りるのだよ」
平井は、胸を張って、
「Yesです。変に英語をはさまなくても伝わります。ラブホテルに入るところと出てくるところの写真をしっかり撮りました。もちろん、十分な時間滞在をしていました」
不倫の証拠写真については、ラブホテルの出入りとその間の所要時間も重要であることを、基礎知識として高木は平井に教えてある。高木は、ちょっと、会話に外国語を入れる癖の強い探偵であるが、助手を教育する力はあるようだ。
「それじゃ、この写真をもって、依頼者の奥さんに報告すれば、終了ですね。さっそくお願いします」
すると、高木は、人さし指を立てて、平井の顔の前で振って、
「ちっち。君は、森の中で猿を捕まえるには、ゆっくりに限る。ということわざは知らないようだね」
「知りませんよ。それは、どこのことわざなんですか」
「ああ、私が青年のころ行ったアフリカのセネガルで聞いた言葉なのだよ。意味は、目的を達成するためには、あせっちゃいかんということだな」
「ストレートに言って下さったほうが、ありがたいのですが」
「いいかい。調査は、一日いくらで計算されるのだよ。あまり簡単に結果を出しては、探偵事務所の経営が苦しくなる。それに、報告書の書きぶりも注意しなきゃならん。
浮気
なのか気の迷い
なのか。経営者はこのくらい考えないとな」「悪徳探偵と一言で言えそうですね」
二人の間に気まずい沈黙が走った。
「平井君、un ange passe(今、天使が通ったね)この沈黙は、嫌いじゃないよ」
「所長は、金稼ぎの他にフランス語もお得意のようですね」
平井は、嫌みを込めて言い返した。しかし、平井自身も、自分はフランス語は得意なのだというアピールも忘れなかった。大学は仏文科を卒業している。
「今の沈黙は、僕があきれて言葉を失っただけです」
「せっかく君の得意なフランスの言い回しでこたえたのに……。よし、今日は仕事を終わりにして、駅前のパブ『立ち飲みケンタ』で一杯やろうじゃないか。その前に、Nature calls me.(自然が呼んでいるぜ)トイレに行っておこう」
夕方5時をまわっていなかったが、2人は連れ立って事務所から駅前の『ケンタ』に向かった。事務所の前には大きな公園があり、そこを通り抜けると、近道だ。時間的には、子どもたちは家路につき、大人はこれから仕事を片付けるというところで、公園はちょうど人がいない時間帯だった。
公園の中を歩き始めると、植え込みがあり、人があまり通らない所に、1人の少女が、倒れていた。
所長は、見なかったことにしようと目を背けたが、
「所長、大人としては、誉められませんね」
と、平井は、少し所長に苦言し、身をかがめて、
「もしもし、お嬢ちゃん、どうかしましたか」
と、声をかけた。すると少女は、
「ええと、お父さんとケンカして、走って先に行ったら、はぐれちゃって……。のどがカラカラで、歩けないんです」
高木は、冷たく
「水は、すぐそこに水飲み場があるよ」
「いえ、わたし、屋根の下で、コップに入ったお水じゃないとダメなんです」
「まあ、なんてお嬢様なんだ。これは、お父さんのところに連れて行ったら、謝礼がもらえるかな」
高木は、急に、少女の服の土埃をたたいてやるなど態度が変わった。話を聞くと、駅に行く途中で、口ゲンカをし別々になったようなので、駅に行けばなんとかなりそうだった。高木と平井は目配せした。それに2人の目的とするパブも駅前だ。
「パパが、駅で待っているかもしれないから、送ってあげるよ。もしいなかったら、一緒に待ってあげる」
高木が少女に背を向け、しゃがんだ。
「歩けないなら、おんぶしてあげるよ」
少女は、おんぶされたとたん、
「クッ、クッ、ク」
と笑い始めたかと思うと、地面が揺れ、高木は少女をおんぶしたまま、地面にめり込んでいった。
「おい、なんなんだ。俺は女の子をおぶっているんだよな。けっして子泣き爺なんかじゃないよな」
慌てて高木が叫ぶと、平井も、
「どちらかというと、首都直下型地震か。液状化現象なのかもです」
冷静なのか、あわてているのか訳がわからなくなった。
そのうちに、少女は鳩のように小さくなって、空に消えた。
二人は唖然として、空を見上げたまま、沈黙が二人の間を……。
「おお、また、天使が通った」
「いえ、天使じゃなくて、妖怪……じゃなくて、妖精ということで、報告書には書いておきましょう」