おわりに

文字数 1,224文字

 わたしは、何が云いたかったのか? 何も云いたくはなかったのです。ただ、安楽椅子というのは、無いのだということ。順風満帆、形だけ見れば、憧れの年金生活に入り、孫も生まれ、傍からいくら幸せそうに見えたとしても、安楽椅子は無いのだということ。これを自分に言い聞かせる、確認のようにして、この手記を書き始めたのでした。
 ものを書くのは、わたしの本意ではなかった。飲み込むことを人生にしてきた自分にとって、書く作業は吐き出すことになります。教訓めいたことを云うつもりもありません。今もわたしは、この現実、家庭を含め、わたしに現前する事実を、飲み込んでいます。

 今、プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいるのですが、読んでいるそばから、内容を忘れていくようで、わたし自身が失われていく気がします。
 飲み込むところの容器であったわたしは、今や

になっているのかもしれません。

 図書館で本を読むようになったのは、健康のために歩くこと(図書館まで15分ほど掛かります)、そして家に物を増やさないためでした。治験のために、定期的に病院に行き、この薬の効用が調べられるとともに健康診断もされます。もともとこの治験薬は高脂血症のそれで、わたしはこの病気以外、異常はないようです。子どもの頃からのド近眼は、白内障の手術をした際、眼内レンズを入れてもらい、眼鏡が要らなくなりました。
 長男のお嫁さんが律儀な人で、お正月とGW、お盆休みには必ず九州から、みんなで来てくれます。この孫に、わたしの妻はぞっこんで、この時ばかりはわたしがいても満面に笑みを讃えています。親戚とはめっきり疎遠になった今、このような来訪は、ありがたいものです。冷えた夫婦間の壁に、暖かい風穴があく思いがします。

 家の、二階へ上げる揚水ポンプがたまに故障するので、その時に妻と顔を合わせますが、こういった現実的な問題が持ち上がらない限り、ひとりとひとりで日常を送っています。便りがないは元気な知らせ、携帯電話も持っているから、危急の時には連絡が来るでしょう。そう考えると、平和な日々を、夫々に暮らしていると言えます。
 物は増やさぬようにしているが、無いなら無いで不便さもある。妻は、「家事をする物」として、わたしに扱われてきた意識があるのかもしれません。するとわたしは、「外で仕事をする物」にすぎなかった、と言えなくもないですが、わたしは、わたしの人生を送ってきました。悔やまれるのは、料理をしてこなかったことですが、これも致し方ない。

 時の流れの前に、人間は無力です。物である肉体も、朽ちていきます。ものの弾みに、弾めなくなります。老婆心ながら、もしこのパソコンを開き、目を通した方があれば、どうぞ健康に留意して下さい。元気があれば何でもできる。弾める時に、心おきなく弾んで下さい。
 わたしは何が云いたかったのか。何も云いたくなかったのです。ただ、時の流れをやり過ごし、今もやり過ごしています。
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