愛と呼べない夜を越えたい 3

文字数 2,290文字

 仕事から帰って来た実さんは、黙ってその赤紙を見ている。
「実さん」
 私は不安になって、思わず実さんの名前を呼んでしまった。
「大丈夫ですよ。僕がいないのなんて、いつもの事でしょう? おめでとうと言って下さい」
 そう言って、実さんは笑っているけど……。いつ、死んでもおかしくない。
 そんなところに、行くのに「おめでとうございます」なんてとても言えない。

 私は、泣きそうになりながら畑の物やまだ残っていたお肉の燻製を使って、出来る限りのご馳走を作った。
 …………それしか、私にできる事なんて無かったから。

 赤紙が来て数日後に、実さんは戦地に旅立って行った。せめて駅までと思ったのだけど
「女性一人じゃ、危ないよ。僕は大丈夫だから」
 と一緒に行くことを許してもらえなかった。

 入れ替わる様に、実さんの妾達がやって来る。
「結構な屋敷だねぇ。さて、私はどの部屋にしようかな」
 幸恵さんは三味線と少しの荷物を持ってズカズカと上がり込んできた。
「幸恵さん。ご挨拶もしないで……。私達、実さんにここに住むように言われて来たんですよ。奥様どうぞよろしくお願いします」
 三上由美さんが、実さんからの手紙を渡しに差し出し、息子と共に頭を下げた。
「私は奥の静かなお部屋が良いで~す。奥様よろしくお願いしますね」
 女流作家の綾小路沙喜子さんも相変わらずだ。

 私が何か言う前に、4人ともさっさと屋敷に上がり込んでしまっていた。
 正直、私はムッとしていた、本宅に上がり込むなんてなんてずうずうしいんだろう。いくら実さんの許可があるとは言え。
 

 その内空襲が頻繁に起こる様になって、町から少し離れているとはいえ、私たちも空襲警報と共に、夜の街を逃げまどうようになっていった。
 実さんが大量に床下に入れてくれていた食料で何とか食つなぐ。

 そんな時でも彼女たちは「実さんの奥様ですから」と、色々な事を優先させてくれている。私は、ずうずうしい人達と思った事を内心恥じていた。

 隣組に登録していたので、みんなの分も配給が貰えた。
 
 ある日、あれはよく晴れて空が高く見えた日。私と幸恵さんは配給を受けて屋敷に戻って行く途中だった。
 のんびりと田舎道を歩いていたんだと思う。
 いきなり爆音がして飛行機が私たち目掛けて撃ってきた。
 相手のパイロットが見えるような低空飛行。女性だと分かっていて狙っていた。

 怖い。怖い、怖い。
 私たちは必死で逃げまどった。
 その内、私は足が絡まって転んでしまった。

 撃たれる。
 私は覚悟して、目を固く瞑った。
 背中に何か暖かいものが覆いかぶさる。その体は、撃たれるたびに私の背中の上で跳ねた。

 爆音が遠のき、私はソロっと起き上がった。
 私の背中から何かがずり落ちる。
 配給が入ったリュックを背負い、血だらけになった幸恵さんが目に入った。
「いやー‼ 幸恵さん。幸恵さん。目を開けて、お願いだから、死なないで」
 私は、変わり果ててしまった幸恵さんに縋って泣き喚いた。

 それを見た人が屋敷に連絡を入れてくれたのだろう。
 屋敷から由美さんと沙喜子さんがやって来て、私を屋敷に連れ帰り。幸恵さんをお寺で弔ってもらう手はずをつけてくれた。

 幸恵さんを無事荼毘(だび)()す事ができ、私が落ち着いてから、幸恵さんが配給入りのリュックを背負っていなかったら、弾が貫通して私も死んでいたかもしれないと聞かされた。
「私が死んだ方が、実さんの為には良かったのかも」
 そう言った途端、沙喜子さんから殴られた。

「ふざけた事言ってるんじゃないのよ。このバカが。何で幸恵さんがあんたを庇って死んでいったか、分かってるの?」
 怒りが脳天に達しているって感じで、フーフー言ってる。
 叩かれた私も痛かったけど、叩いた方も痛そうな手になっていた。

「幸恵さんはね。実さんの事が好きだったんですよ。だけど、実さんは私たちをそういう対象に見てませんでしたからね。だから、せめて実さんが大切にしている奥様を守りたかった、ただそれだけなんです」
 そう言って由美さんは、私を抱きしめて頭を撫でてくれた。もう、子ども3人も生んで、そんな年齢(とし)じゃ無かったのに、温かくて、幸恵さんに申し訳なくて涙が出た。

 8月の暑い日。ラジオから、終戦の玉音放送が流れた。

 そして実さんが帰って来て、私達の生活はアッと言う間に改善された。
 物が無い時代のはずなのに、由美さんはすぐに洋装屋を始めることが出来たし、沙喜子さんは、戦時中の体験を元に小説を書き始めた。
 長男も学童疎開から戻り。子ども3人そろって、私も通常の生活に戻ることが出来た。

 高度成長期に、今の交通の便が良い住居に移って来た。
 実さんとの関係は相変わらずだったけど……。

 そこまで思い返して、ため息を吐いた。

 
 ここは病院の一室。
 実さんが横たわっているベッドの横で、パイプ椅子に座っている。
 先ほどまで、お医者さんと看護師さんたちが忙しく何かをしていたが、今は状態が安定しているからと戻って行った。
「何か異変があったらすぐに呼んで下さいね」
 そう言われていた。
 お医者さんが言うには、今日明日が峠なんだそうだ。

 もうすぐ夜が明ける。

 子どもたちも、駆けつけてくるわ。
 実さんが亡くなってしまったら、上手く私は泣けるかしら……。
 そんな事を考えながら、実さんの方を見ると。
 酸素マスク越しに口が動いているのが分かる。
 
「ありがとう。里美……」

 確かに実さんの声でそう聞こえた気がした。


                          おしまい

ここまで読んで頂いて、感謝しかありません。
ありがとうございました。
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