第1話

文字数 500文字

 亨は大きくため息をついた。
 それは、深い哀しみと安堵からくるものだった。長く苦しい戦いではない、ほんの僅かな時間で最愛の妻を見送ることは、事柄だけを追うことに終始した。 (梓、今日も朝が来た。君がいない朝は空気が止まっているようだ)
 いっそのこと、自分もともにと何度も思う。生きている意味などどこにもない。春まだ浅い三月に梓はこの世を去った。一人娘の天音の成人式を無事に終わらせて、この先はまたあのころのように二人でゆっくりと時間を過ごそうと話したばかりだったのに……。

 亨は出会ったころの時間に思いをはせて、冷たい水をグラスに入れて口に運んだ。喉を通りゆく冷たい水の感覚を梓はもう感じることはできない。
「疲れたよ、何もすることが見当たらない。ごらん、部屋はこんなに荒れてしまって……」
 亨は雑草だらけのわずかな庭に向かって長い脚を子供のようにだして、梓の草履を見つめた。まだ涙がでるものなのか。目じりの涙はほほを伝い、草履の上に落ちた。
 水色のクロックスにはテントウムシの飾りがついていた。庭の端にいつもの雑種の猫がこちらを向いていることに亨は気が付いていた。また大きく息を吐きだすと空を仰いだ。
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