石神井公園のほとりにて。

文字数 3,301文字

「良い所に引っ越したわね」
 キッチンでカレーを仕込んでいる僕に向かって早苗が放った言葉はそれだった。
 僕が新しく引っ越した家のすぐ目の前に広がる、夏の緑を湛えた石神井公園を見て言っているのだろう。
「まあね、前に住んでいた街は飲み屋街の近くだったから、夜になると酔っ払いが出たよ。それに比べれば、ここはきちんとした閑静な住宅街かな」
 僕は隠し味の赤ワインを鍋に入れた後、ローリエの葉を三枚散らして鍋に蓋をした。旨味が出るまで暫く時間が掛かるから、それまで彼女との会話に集中できる。
「聞こえてくるのは蝉時雨、吹いてくるのは土と水の臭いが混じった爽やかな風。落ち着いて小説が書けるわね。先生」
「まだ僕にその言い方は恐れ多い身分だよ」
 僕はそう漏らした。確かにネット公募の新人賞を取ったが、まだ書籍は出していない。この石神井公園の近くに引っ越してきたのも、去年の終わりから決まっていた事だ。今のところ僕が持っているのは、引っ越してきた家に、今度父親から三十万円で譲ってもらう六年落ちのメルセデスE250だ。この家には元々僕の遠戚の人が住んでいたのだが、その家の人が仕事の為に山梨に引っ越す事になってしまったのだ。それまで僕は大宮近くの喧噪が絶えない地域に住んでいたから、東京にここまで静かで緑が近くにある街があるとは想像できなかった。車窓から見る夏雲も、大宮から池袋に向かう時には見栄を張って必死に夏を謳歌しようとしている感じがした。だが西武線に乗り換えて池袋からここに来るときは、夏雲は高い所から柔らかい眼差しで下界を見下ろしているような感じがした。
「小説ではまだ食べれないのでしょう?」
「だから、親戚の会社の仕事をしているよ。西武線で一直線の池袋に会社がある」
 僕は鍋の火を弱火にした。じっくりと中身が滞留しながら、旨味が出るのを待つ。
「君はどうするんだ、この前まで勤めていた整備工場を辞めたんだろ?」
 僕は早苗に言って、冷蔵庫の方に移った。彼女とは同じ埼玉の高校の同級生で二年ほど付き合った事があるが卒業と共に別れた。僕は都内の大学に進学して、彼女は専門学校に言ってバイクの整備士になったのだ。その後大手の中古車バイク販売店に就職したが、八年間働いたあと辞めてしまったのだ。
「機械を修理するのは得意だったけれど、人間関係を修理できなくて辞めたの」
 早苗はそう漏らした。僕は冷蔵庫から冷えた缶ビールを二つ取り出し、一つを早苗に手渡す。
「ありがとう。夕飯前にいいの?」
「食前酒だよ」
 僕はそう答えた。すると早苗は僕に促された訳でもないのに、自分語りを始める顔つきになってくどくどとこう話し始めた。
「実はさ、あたし前の仕事場で付き合っていた相手が居たのよ。工業高校で整備士の資格を取って入った子。未成年で弟みたいな感じだったわ」
 早苗はそう漏らして、缶ビールの栓を開けて一口飲んだ。僕も缶ビールの栓を開けて、一口飲んだ。
「それで、私が先輩になって色々指導したのよ。好きなバイクの話題とか、バイクレースの話題で盛り上がってね。そのうち連絡先を交換して、バイクで出かけたり、その他の事をしたわ」
 その早苗の言葉を、僕は黙って聞く事にした。バイクの事はよくわからないのもあるし、現場にいたわけではない僕が何か口出しできる要素は無かった。
「彼が二十歳になって酒が飲めるようになったら、一緒に飲みに行くようになって男女の関係になった」
 早苗は言葉をそこで止め、窓の外を見た。夕方に近づいた外の景色は淡いオレンジ色に染まりつつあり、石神井公園の木々と池の水の緑色が闇に染まりつつあった。恐らく早苗の心境も、光が照らす面積が消えて闇の気配が濃くなっているのだろう。
「外の公園、静かだし綺麗よね」
 早苗は外の景色を見ながらそう漏らす。やはり僕が想像したのと同じで、光が遠ざかっている緑の公園に、自分を重ねていたのだ。
「良ければ少し散策しようか?」
 僕は早苗に提案して、缶ビールをまた一口飲む。
「いいの?カレーはどうするのよ?」
「火を止めて、食べる前にカレールウを入れればいいよ」
 僕はそう答えた。





 それから僕達は家を出て、夕方になりつつある石神井公園の池のほとりを歩いた。頭上の木々と池の水は緑色の中に闇を湛え始め、夜の静寂の装いを始めている。頭上から響いてくる蝉時雨も、昼間のピーク時に比べて少し大人しくなったような気がした。
 僕と早苗は途中で立ち止まると、深い緑色に染まった池の水面を見た。水面には都会の雰囲気に慣れきってしまった感じの鴨が三羽おり、その向こうの小島には黒いカワウが一羽、暇な警備員の様に佇んでいた。
「それで、さっきの続きなんだけどさ」
 早苗は重くなった気持ちを、同じように思い色と表情の水面に向かって話し始めた。
「彼は色んな所で私を慕ってくれた。私も彼の事が好きだったけれど、彼と私の認識には差があった」
「どんな風に?」
「私は彼を一人の異性として捉えていたけれど、彼は違った。私を姉よりちょっと遠い存在だと思っていたのだと思う。付き合い始めて二か月もすると、お店に免許を取ったばかりの女子大生が来るようになったの」
 僕は何も答えなかった。ただ黙って聞き手に徹しようと思ったのだ。
「私も彼と一緒に、その子に親身になって接したわ。でもその子は次第に客から女になって行って、私の彼氏と接し始めた。そして仕事を終えて自分のバイクで帰宅する途中、店の近くにあるマクドナルドで、私の彼氏と二人きりになっている彼女を見たの」
「それで?」
 僕は続けた。煙草があるならば吸いたかったが持っていなかったし、この公園は園内が全面禁煙だった。
「それから彼の家に行った。彼は単なるお客さんとして接していたけれど、越えちゃいけない一線を越えてしまったって謝ったわ。でももう関係は直らなかったし、私も越えてはいけない事をした」
「その女子大生に、何かしたの?」
「バイクを見てもらいたいって店に来た時、何気なく彼との関係を聞いたの。そしたら悪びれる事無く付き合っている。と言われてね。気が付いたらレンチで殴りかかろうとしていたわ。幸か不幸か彼女に怪我は無かったけれど、痴情のもつれで客に手を上げた私は仕事をクビになった」
 僕は黙って聞いていた。彼女の事は十年前に色々知っていた筈なのに、約十年間会わなかっただけで彼女の立場がこんなに変化しているとは思わなかった。
 早苗は一通りの気持ちを出し終えたのか、視線を水面から真正面の風景に移した。何が瞳に映っているのかは分からなかったが、少なくとも夢や希望は映っていない筈だ。
「あなたの所に来たのは、自分よりこういう事に詳しいと思って。小説を書いているなら私より賢くて、助言をしてくれると思ったから」
「助言ねぇ」
 僕はそう漏らした。
「俺に言える言葉は無いな。君以外に付き合った人が居ないから」
 僕はそれだけ答えた。隣の早苗の気持ちがろうそくの火みたいに小さくなってゆくのが、気配で分かる。
「そう言う事は、家に戻ってカレーでも食べてから考えようよ。一人での食事より、二人の食事の方が楽しいし」
 僕は自分でも意外な言葉を漏らした。すると早苗の顔が起き上がって、僕の事を見つめた。僕はその早苗の意外そうな表情を見つめながら、こう続ける。
「引っ越した家はさ、実を言うと俺一人には広すぎるんだよね。同居人と言うか、話し相手が居てくれる方が気楽だし楽しくなる気がするんだ。細かいことはその後でもいいと思うよ」
 僕の言葉に、早苗はそっと俯いて「ありがとう」と小さく漏らした。
「とりあえず、戻ろう」
 僕はそう言って、早苗と共に石神井公園の池のほとりから離れた。家に戻り窓から石神井公園を見ると、それまで単なる緑色と静寂しか感じなかった公園の姿に、急に熱と生命の息吹が宿ったような不思議な感覚を覚えた。



                                     (了)
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