第1話

文字数 21,805文字

 高齢者が交通事故を起こし問題になっている。結論からいえば老いぼれが若い命を奪ったとしたら、償いきれるものでは到底ない。
 
 母を癌でなくした後、父は実家で一人暮らしをしていた。私の父は元船員で自由な遊び人。八人兄弟の末っ子で金持ちの家に生まれたのだが、末っ子故か気の弱い男だった。何から何まで家を仕切っていた母が死んだ後は、もっぱら遊び呆けていた。母の葬儀の後は私もマメに実家に行っていたのだが、一ヶ月もすると「お前が来ると遊びに行けない」と言い出した為、徐々に頻度は減っていく。大体、男は家庭のことより自分の遊びに夢中になる生き物ではあるのだが、父の場合はやんちゃ坊主がそのまま年老いた感じだった。
 父は戦時中に生まれ、高度成長やら丘の三倍と言われた船員の収入やらで生活レベルを一生落とせなかった男だ。ところが金はいつまでもある訳ではない。
 ボケる数年前には、祖父の残した田畑を売るから子である私に判子くれと来たのだが、アッという間に飲んでしまった。年金額は二ヶ月に一度、三十万少々。年々一万づつ上がっていた年金額は数年前に上昇をやめ、毎回引かれる介護保険料に文句を言っていた。小泉内閣の頃から不景気になり、おかしくなったと父は言う。
 時々、父とは飲みに出る事があり、そこでよく父の知人と出会ったのだが、毎日飲み歩いているのは元教員だとか公務員ばかりであった。そんな歳を取った金持ちの大学生みたいな輩と飲み歩いても金も続かないだろうとは思ったものだ。
 本人が言うには「もう長くはない。好きに楽しく生きる」であった。
 
 そんな私の父も八〇間近になり、ボケ始めた。完全に突然ボケるのもいるが、ほとんどが徐々におかしくなっていくようだ。
 親子なんだから他人よりは些細な変化に気付き始める。
 キッカケは、ある日一緒に飲みに出た日の帰り、実家に着き代行運転から下りると「金が足りない」と言い出した。途中スナックで飲んでいた時、タバコを買って来いと言うので、サイフを渡され買いに出た事があった。その時、金を抜いただろうと言うのだ。勿論、濡れ衣である。否定はするのだが言い出すときかない。結局、その日は喧嘩別れし、私は乗ってきた車の中で夜を凌いだ。父は尋常でない叫び声と台所を蹴飛ばす音で騒いでいた。老人達は体力の衰えや生活への不安や不満でイライラする事が多くなるようだ。時代が寛容になり甘やかすのと同時に、昔の年寄りのように若い世代により良い世の中を残そうという気概はほぼ無いからだろう。世の中が悪い云々、お前らが作った時代の結果だろと言いたいが。
 
 それからが狂騒劇の始まりだった。まず車をぶつけたと電話がきた。生憎、私は県央に住んでおり、父は県南であった為、実家近くに住む同級生に頼み事故現場に行ってもらった。幸いな事に人の家の庭木の塀にぶつけた自損事故だけで、本人は無事なようだ。だが車は傷ついたようで修理に出したのだが廃車は免れないと言う。
 
 数日後、仕事で県北まで行き、車で走っていると父から電話が入る。
「岡山の親戚が死んだから行かんといかん。五万持って来い。すぐに出にゃあいけん」
 一時間後の電車に乗るというが、それは物理的に無理である。そういえばこの前一緒に飲んだ際、昼間はカラオケ喫茶かパチンコに行き、夜は隣町のスナックに通っていると言っていたが、金もないんじゃないだろうか? パチンコで七万勝ったから女二人を連れて飲みに出たと親戚に自慢したり、突然、出て来いと言っては「お前が来ないからパチンコで五万負けた」などとほざいたりしていた。金の使い方が派手になっている予感はあった。
 とにかくそれは無理だと言うと、次第に話は勝手にフェイドアウトしていき、父は電話を切った。
 
 その二日後、私の携帯が鳴った。夜中の二時である。誰だ? こんな夜中に? と思い出ると、県南の警察署からであった。
「息子さんですよね? お父さんを飲酒運転の現行犯で逮捕しました。つきましては引き取りに来て頂きたいのですが」
 はあ? 岡山の親戚に行ってたんじゃないのか? 何で県南の飲み屋街にいるんだ? 
 話によると、繁華街の駐車場で酒を飲んで移動中、遮断器にぶつけた上、逃げようとしたところを通報され逮捕されたらしい。
 とはいえ、夜中である。おまけに私は少量だが酒を飲み、寝ていたところだ。酒呑んでるが、迎えに行っていいのか? と聞くと「それはちょっと……」という。仕方ないので実家の近所の叔母さんに頼んで引き取りに行って貰う事にした。
 翌日、叔母にお礼の電話を入れると、帰りの車内で父は反省どころか警察の罵倒に明け暮れていたらしい。叔母さんは、最近、朝から飲んでるし、言うことも曖昧だからボケが入ってるんじゃないだろうかと言う。確かに母親が死んだ際は保険金も入った為、随分、気楽そうだったが、一年もしないうちに金がない、遊べないと嘆き出した。ところが最近、めっきり強気で金ならあるなんて言っている。年金が増えた訳でもなく、仕事を始めた訳でもない。何が原因で突き抜けたかは定かではなかった。
 
 翌日、早朝に父は警察署に押収されていた車を取りに行ったようだ。驚くべき事に飲酒の現行犯で逮捕されても、引き取り人が来れば免許は即本人に返却されるらしい。警察署からは駐車場にあった車が消えているという電話はなかった。
 
 と、これでは終わらなかった。数日後、父から電話。今度はスーパーの塀に車をぶつけたらしい。又、金がいると嘆く父。今回も自損事故だけのようである。
「ジジイが人でも轢いたら償いきれんぞ。運転はせんほうがいい」
 と私が言うと。
「車がなかったら生活できるか! 買い物にも行けんが」
 と反論する父。バスもタクシーもあるだろと言うのだが、聞かない。老人は生活の利便性最優先なのだ。確かに車はアクセルを踏めば、間違いなく進むのだが、自分が鉄の塊の凶器となる物に乗っているという自覚はない。一度、轢かれてみれば分かるかもしれないが。
 昨今の老人の交通事故の根本は自分に限って事故はしないという根拠のない自信と、人の事など知ったことかという戦後の人間性にある。どんどん経済成長を続け、頭数も爆発的に増えた為、学歴や職業によるコンプレックス、平和ボケに準じた危機感の欠如。人権主義の膨張に伴う無知性の増加。今の日本はこいつらの結果でしかない。
 運動機能や認識力の衰えた老人が車に乗るという事はテロに等しい。どうせ長くも生きない人間が将来のある人間を殺めたとしたら、釣り合うものではない。でも、聞かないのだ年寄りは。命が惜しい、自分の人生の尊さ以上の物はないらしいから。
 
 翌日、電話が鳴ったので出てみると叔母からであった。話によると父は傷ついた車を近所の車屋に持ち込んだらしいのだが、来た時点で泥酔状態であり、心配に思った車屋の主人が自宅まで送ったらしい。着いた途端、近所の爺さんと口論になったらしく、叔母が呼び出されたらしい。世間体が悪いと泣きついてきた。
 どうも暇さえあれば酒を飲んでいると言う。はて? 酒は飲めない方ではなかったが、昼から飲む事はなかったはずだが。
 それからは叔母からの電話がよく来るようになった。夜中、タクシー代を貸せと言って来たり、踏み倒したタクシー会社から請求されて代わりに払ったりしたとか。ある日は、通販で北海道の蟹を着払いで買ったらしいのだが、手元に金がなく隣に借りた為、叔母がそれを払ったとか。
 勿論、知る限りは叔母には私から返済はしたのだが。
 父からの電話も増えた。そのほとんどは「お前、金盗っただろ。あるはずの金がない」というものだった。そもそも通帳や印鑑の在処もキャッシュカードも暗証番号さえ知らない。そんなに疑うのなら警察でもどこでも行けよと言ってやった。
 すると父は歩いて四キロ近くある派出所に「息子が金盗った」と行ったらしいのだが、日に三度も来られた派出所の巡査は困り、私に電話をしてきた。この金を盗っただろ疑惑の電話は三日に一度はかかってくるようになる。ある日などは
「お前、八〇万盗っただろ。無くなってる、お前しかいない。今返せば五〇万でご破算にしてやる」
 何言ってんだろ? ギャグだろうか?
 とにかく、父は『息子は盗人』という事を親戚中、知人、スナックに来る知らない客まで吹聴しており、私はいちいち説明もする気もないので放ったらかしていた。叔母は「この前は六〇万盗られたと言ってたけど、増えたのね」なんて言っていた。
 ある日、近くの地方銀行の支店に行ったらしいのだが、待たされた事に怒った父は解約してしまう。光熱費から年金から全てのメイン口座である。父は「地方銀行のくせに偉そうにしやがって」と言うのだが、年金の口座変更は最低三ヶ月以上かかる。本人は郵便局に聞いたら簡単に出来ると聞いたらしい。金もないくせに年金も入らないではないか、息子に集る気だろうか? 私は即座に役所廻りをし事を治めようとしたのだが「すぐには無理です」と袖にされる。実際、父の年金は四ヶ月間入ってはこなかった。
 その後、父は近所の簡易郵便局に籠城するという暴挙に出る。
 理由は年金が入っているはずだから出せというものだった。籠城した父は連絡を受けた叔母に連れられ帰宅した。その日も叔母の悲痛な訴え「カッコが悪い」と。簡易郵便局の職員も地元の知人であり、非常に弱っているらしい。そうである、ただでさえ人の顔色を見ながら生きていかねばならぬ田舎である。私は言っても聞かないから、又、来たら警察に電話させてと叔母に言った。
 実際、言っても無理なので痛い目に合わせないと分からない。言わば至上の愛である。
 普通、あるはずのない金をよこせといえば立派な銀行強盗であるのだが、ボケ老人は免罪なのだろうか?
 叔母とも話し「又、やるな」と思った私は県南の警察署に電話した。
「明日、うちの父が郵便局にやって来て金出せと籠城するだろうから、捕まえてくれ」
 えっ? と驚く職員。まあ、普通、明日父親が銀行強盗に入るから宜しくという電話は来ないのだろう。
 しかし、さすがは親子である。予言通り翌日父は郵便局に籠城する。困り果てた簡易局のオバさんは警察に電話したところ、五人も警官がやって来たらしい。叔母さんからの報告で聞いた。この頃になると、叔母も父の奇行に右往左往する事をやめ、私の「それがどうした」って対応に若干ではあるが安心したようである。
 
 再三、車をぶつけ足もふらつくボケ始めの老人に、車を与えるなどテロリストに核爆弾を与えるようなもの。私は全力で父を車に乗せない事にする。
 私は叔母他親戚中に電話を入れ、車には乗せないよう手を回す。皆、同意見であった。修理に出している車も本人に渡さないよう車屋に念を押す。父には年金もしばらく入って来ないので、預けている車は売って急場を凌げと説得した。
 しかし、こちらの想像をいつも超えてくるのが父である。
 今度は車屋に金を出せと通い始める。ついには車の中に籠城し、店の夫人が悲鳴をあげた。
 それから数日、朝昼晩と父は押しかけた。叔母にも連絡が行き、困り果てたようだ。
 そしてついに車屋の夫人から電話がきた。
「息子なのに何とかするのが当り前でしょ」
 と期は熟したようだ。出ていかねばなるまい。
 買取額は三十万で折り合いがついたのだが、父は五万借りていたらしくそれを引いた二十五万を受け取った。領収と共に一切関わりませんという誓約書を書かされた。目の前で父に二十五万渡し「これしか年金が出るまでないぞ」と念を押した。
 金を手にした父は繁華街まで送れと言うのだが、私は今日ぐらい飲みに行かなくてもいいだろうと家まで送る。それが無駄な事は重々承知ではあったのだが、案の定、その後タクシーを呼んで夜の街に出て行ったようだ。
 翌日、午後に見知らぬ電話番号からの電話。出てみると救急車の隊員からだった。
「お父様が一〇号線で倒れているとの通報で来たのですが。電柱にぶつかられたようで手に少し傷がある程度なのですが」
 はいはい、それから?
「ちょっと意思疎通がおぼつかない所がありまして、心配なので自宅まで送りますよと話したんですが」
 ほうほう、それから?
「飲みに行くから市内まで送れと言われまして。自宅までは送れますが、飲み屋街までは。するとタクシーを呼べと。どうしたものかと思いまして」
 このジジイは這ってでも飲みに行くつもりなのだろうか? 私は
「恐らく今からそちらに向かったところで、父は飲み屋街に消えてるでしょう。取り敢えず自宅まで送ったら放っとけばいいですよ」
 と答えた。すると隊員は分かりましたと言った。
 気の弱い男がこの頃になると無敵であった。老化で広い思考は無理になり、より狭い範囲での判断しか出来なくなるようだ。よく産まれて間もない乳飲み子が日々知恵をつけるのを実感するが、老化はその逆なんだろう。 
 
  それでも父は車に乗りたがった。ある日、電話をかけてきて「お前に車を買ってやる。しばらくはわしが乗っとく」と言う。
 はて? 何だろう? と思う。よくよく聞いてみると近所の車屋で車を買おうとしているらしかった。恐らく、年齢からローンが組めないので私名義で車を買い、自分で乗るつもりらしい。姑息な奴である。
 
 私も遊んで暮らしている訳ではなかった。仕事もあるのだが、事ある毎に実家周辺に呼び出されていた。介護のヘルパーを頼もうと、役所や包括を行ったり来たりもした。この包括、介護保険はキッチリ取っているのに手続きは大変である。脅そうが空かそうが数カ月は変わらない。叔母は精神病院にでも入れた方が良いと言う。というのも、アルコールの依存が激しくなり、ちょっと飛ぶことが多くなったからだ。それから一番厄介だったのはパチンコ依存。毎日、スロットをしては負けてくるのである。案の定、渡した二五万は底をつきかけていた。
「スロットばかりしてたら首括らないといけないぞ」
「スロットで負けても二万じゃ。大した事ねえ」
 阿呆が。二万づつ負けたら一〇日で二〇万だ。酒とギャンブル依存、おまけに想像を超える奇行。二四時間とは言わないが昼間ヘルパーでも来て食事を作ってくれれば死ぬことはないのだが。後の行動は言っても聞かない父である。車に乗るかもしれないし、酒呑んでトラブル位平気だろう。包括に行くと『やっぱり地域ぐるみの介護ですね』などと寝惚けた事を言うので『地域ぐるみで一団となって私に苦情が来るんだけど』と言ってやった。
 行政が当てにならないので、私は地元の最も大きな精神病院にコンタクトを取った。まずは本人と面談せなばならない。父には介護ヘルパー申請に受診しなきゃいけないと嘘ついて連れて行く事にした。
「しばらく入院したらいいんじゃねえか。生命保険も出るし、飯の心配もいらない。頭もボケ始めてんだろ? スッキリした方がいいだろ?」
 と父を説得し、最初の面談に臨む。本人は持病の糖尿病で入院する病院位に考えていたんだろう。飯食って入院患者と雑談に興じ、気が向けばタバコを吸いに表に出る。気ままな入院生活を。
 初診においては、父も医者の質問に素直に答えていた。アルコール依存と認知症初期症状が認められ、一週間後入院となった。しかしあくまでも任意入院である。本人が出たいと言えば退院させねばならない。介護申請やら状況が整う為の取り敢えずの時間稼ぎである。
 一週間後、迎えに行くと、あれだけ念を押していたのに父は実家に居なかった。逃げたのである。予測も出来たので二時間前に来たのだが、もぬけの殻。慌てた私は行きそうなパチンコ屋や様々な場所を探すがいない。携帯を鳴らすがでない。父がよく来る駅前のスナック周辺の派出所にも頼んでみた。諦めかけた時、やっと父が電話に出る。
 何してるんだ? と聞くとショッピングモールにサイフを買いに行き、これから駅前の温泉に行くところだと。舐めてるのかジジイ。
 慌ててショッピングモールから歩いてくる父を車に乗せる。
「これから入院だぞ。前から言ってただろ」
 と言うと「行かん、パチンコ屋へ行け」と言う。はあ? 
「あそこは精神病院だ。わしはパチンコに行く。パチンコでもせにゃあ生きとられるか!」
 もう約束の時間まで三〇分しかなかった。いい歳こいてギャンブル依存もなかろうに。エキサイトした父は怒り出す。
 こっちも車から蹴落としてやろうかって勢いで怒るのだが、それよりまずは説得である。
「パチンコ屋は逃げないだろ。早く死ぬと言っときながら、結局、永く生きるんだぜ。少しぐらい時間を使ったところでどうって事ないだろ? おまけに金も無いだろうが……」
 説得出来るのは私しかいない。何故なら親子である。こいつとは五〇年以上のつきあいなのだ。
 
 と、機嫌の戻ったところで急いで病院へ。何とか間に合った。
 入院に際し、持ち物は全て没収される。患者が自殺や他の患者を傷つける恐れもあるからだ。患者のいる階はテレビや団欒室もあり、自由に動き回れるが、外には出れないようになっている。恐らく父の事である。ゴネ出すに違いないが、取り敢えず一ヶ月でももってくれれば御の字だった。
 
 予想は当たっていた。入った翌日の朝から電話が来た。? 携帯電話没収のはずだが? どうも看護師を脅迫して奪還したようだ。
 それからは朝昼晩とはいわず日に一〇回以上電話が鳴り「タバコを吸わせろ」「パチンコに行かせろ」「出させろ」と執拗にかけてきた。最初のうちは「若い頃、我慢した事もあるだろ? 少しぐらい頑張れよ」と言っていたのだが、どんどん過激になっていき「親をなんだと思ってるんだ」とか「ドアをぶち破って出てやる」と威勢が良い。
 ジジイの力で玄関の強化ガラスをぶち破れるものかと私はタカをくくっていた。
 私じゃおさまらなくなった父は親戚や妹にも電話を入れ皆を困らせた。
 ちなみに私は一人っ子ではない。妹がいて県北に家庭を持っている。しかし、この妹は最初から父に関わろうとしないばかりか、今まで問題を起こした際、叔母が心配して妹にも電話を入れたのだが、逆に私に激昂して文句の電話をかけてくる始末。「何で私の所に電話がくるのよ!」って具合。父は女の子である妹は私以上に可愛がっていたのだが。
 私らの母親は世間体を異常に気にする女であった。世の中に対して厳しく育て過ぎたのだろう。妹のように情に欠落した人間を作ってしまった。元々、醜女で生まれた事もあって、人を信じない、人から蔑まれようと生きていく防衛本能が彼女を形成したのだろう。
 叔母には妹には電話をするなと伝えた。父のことを報告したところで文句を言われるのは私である。叔母は「同じ家族なんだから、それじゃあいけんけどねえ」と言ったが、そんな人間も世の中には居るのである。
 言わなくても妹は即座に通話拒否にしたが、叔母さんにも通話拒否にしてくれと頼み、父の怒号は届かなくなった。
 その間、何度か病院の要請で着替えや履物や日用品を届けに行ったが、父には会わないようにした。顔を合わせれば言う事は分かっている。大体、二週間毎に医師やケースワーカーらと会議をせねばならない決まりがある。状況に応じてどうするか決めるのである。
 やっと一ヶ月になろうかというある日、夜一〇時位に病院から電話。
「お父様が玄関ドアを椅子で破壊されました」
 はい。それで?
「一応、報告と思いまして」
 はい、分かりました。明日でも参ります。
 私の想像を超えてくる父。本当に破壊したらしかった。
 
 翌日、病院に行くと、ものの見事に玄関の巨大なガラスドア三面粉々だった。ダンボールで覆われていて患者が逃げないようにバリケードも置かれている。そこからは入れないのでインターフォンを押すと、裏口から通された。
 面談室で待っていると担当医師とケースワーカーがやって来た。医師は話し始める。
「お父さんは食事も一人で出来ますし、今後治療を続けても変化はないと思われます。判断能力もあると判断しました」
 ほお、玄関をぶち破る輩が判断能力に問題ないのだろうか? 
「取り敢えず、本人さんも退院したいという強い希望ですし、任意入院である以上は認めざるを得ません」
 早い話、玄関ドアを壊すような危険な男を置いとく訳にはいかないって事だろう。尤もではある。
 仕方ない父と話してみる事にする。面談室を出て、別室に移動する。
 やがてやって来た父は私を見るなり、激昂した。
「お前、親を親と思っとらんだろうが! 殺すど!」
 他人のジジイなら私は二,三発殴っているところである。しばらく話すのだが、私は駄目だと判断した。
「分かった。明日は土曜日で退院手続き出来ないらしいから、月曜日に迎えに来る」
 そう言って病院を後にした。その足で包括に寄り、ヘルパーの件を問いただすと早くて一週間後だと言う。何ヶ月前から言ってんだ?
 
 打開策の無いまま、退院当日を迎えた。結局、朝迎えに行って手続きが終わったのが三時。途中、病室を下りる際に行方不明になる父。又、逃げたのかと思ったが、ケースワーカーが見つけた。帰り際、父は「又、来ます」と愛想良くケースワーカーに手を振った。
 ケースワーカー二人は顔を見合わせ苦笑いをした。
 車の中で父はタバコをくれと言うので渡すと「株で儲けてやる。一千万にはしてやる」と言う。幾ら持ってんだと聞くと二五〇万はあると言う。そういえば証券会社の営業マンを病院に呼んだという話は聞いた。どうやら病院での投薬の影響だろうか? 切れかかった脳神経を繋ぎ止めるのだろうが、野心だけが膨張した気がする。そういえば入院中に「一〇〇万持って来い」とか「車は取りに行ったのか?」とか意味不明の事も言ってはいた。確かに治療で行動的にはなるのは違いないようだ。
 この時点では父の言うように金があるか無いかは定かではなかったのだが、見える所では無であったので私は五万だけ父に渡した。一週間後にはヘルパーも来るから、それまで凌げと言った。すると父は帰りにスーパーに寄れと言う。
 スーパーに入ると私の持った買い物カゴの中にどんどん食品を入れていく。弁当や焼酎、惣菜、ビタミンドリンク、鰻まで入れ始めた。そんなに食えないだろ? と言うといいんだと聞かない。まあ、少なくとも三日分位はあるだろう。
 買い物の後、飲みに行くから街まで送れと言う。食材も買ったんだ、今日ぐらい家で過ごせよと説得するが、恐らく自宅からタクシーに乗って出掛けるだろうという予感もする。まあ、私に出来る事は取り敢えず実家まで届ける事であった。帰りの車内で、今後の事は運に任せるしか無いのかも知れないと思った。
 
 次の日の夜中に又、電話が鳴る。見知らぬ電話番号、誰だと思って出ると駅前のビジネスホテルからであった。
「お父様が泊めて欲しいと来られたのですが、サイフを落としたという事を言っておられるのですが、言葉もはっきりしなくて」
 再び想像を超える行動に出た父。時計を見ると深夜三時前である。どうしたら消灯九時の生活を強いられていた人間が夜中まで飲み歩けるのか? おまけにサイフを落としたと言っているようだが、先日渡した五万をもう使い果たしたというのか?
 私は仕方ないので父を迎えに車を出すことにした。県南の駅前まで一時間少々の距離である。
 ビジネスホテルに着いた時、父は玄関入ってすぐのソファーで居眠りをしていた。泥酔していた。手を取り起こそうとすると
「呼んどらんど。帰れ」
 と手を払い除け、言う。どこでどう飲んで金を使ったのか、ポケットには数百円の小銭があるだけだった。確かにボケかけていて、よく物を失くすのだが、変に確信犯的な人を舐めている所がある。私はろくに歩けない父を車に乗せ、実家に向かった。
 すでに辺りは明るくなり始めている。駅前から車で三〇分少々なのだが、車内では互いに無言だった。何も話すことはないのだ。
 実家に着くと、父は居間に座るなり即座に焼酎を持って来て飲み始めた。私は「また来るわ」とだけ残し帰る事にする。
 途中、母が眠る納骨堂が見えた。あれだけ世間体を気にした母である。恐らく今の父の状況を見れば、刺し違えても行動を阻止するだろうなとふと思った。
 
 その日はそのまま仕事に向かった。途中、介護ヘルパーの地区代表のような人から電話があり、実家に寄っていますとの事。父は一〇分もじっとしておられず、遊びに出ようとするらしいのだが、話をして留めている様子。相変わらず金はあると言っているらしいが、ありそうもないと言う。先日買ったビタミンドリンクを飲んだりしているらしい。夕方位まで居ますとの事だ。
 いよいよ、ヘルパーが来週から来てくれるようで安心する。
 眠らずに仕事をしていた私は今日ぐらい父から開放されたいと思い。携帯電話の電源を切り、早めに就寝した。
 いつもより早く寝たせいだろうか? 明け方の四時には目が覚めた。何やら予感があって、携帯の電源を入れる。すると五分もしないうちに電話が鳴った。叔母からであった。
「実家が火事になった。全焼だった。お父さんは病院に運ばれたよ」
 又、想像を超えてくる父。幸い焼け死んだ訳ではないのだが、火事の場合、煙が良くないらしい。多量の煤煙を吸い込み、喉が火傷状態になるのだと。私は急いで実家に向かう。
 
 実家に着いたのが五時位だったろうか? 木戸口から二台程、消防署の車が塞いでいる。現場検証が終わっていない為、人が入らないように車内で仮眠をとり、見張っているようだ。私は職員らしき人を起こし、息子ですけどと伝えた。
 職員は「現場検証まで時間があるので待っていて下さい」といい、規制線の貼られた現場の方へ案内した。
 実家は、ものの見事に焼け落ちていた。二階建ての実家は四方の柱だけが残っていて、屋根も落ち、下に真っ黒な燃えかすが山盛りである。サッシは溶けており、中の電化製品も折れ曲がった冷蔵庫やレンジが分かるだけだ。隣の納屋の棟は五分の一程、残っていて燃え残った雑誌や書籍が山になっている。以前、祖父母の隠居だった棟は実家側半分が溶けている。隠居の裏には親戚の家があったのだが、幸い被害はほぼ無いようだ。確かに昔から父には「家も財産も期待もしてないし、いらない。災いの元だ」とは言ってはいたのだが、燃やして良いとは言ってはいないぞ。
 壮絶な様子に『普通では起きない事』だとつくづく思う。恐らく何かの因果か、罰か、警告だろうか。飾られていた祖父母や母の額に入った写真や神棚、霊璽も燃えて消滅していた。母親達が「もう終わりにしなさい」と燃やしたのでないかとふと思った。
 
 朝八時を過ぎると、消防署の職員が大挙してやって来た。息子である私が立ち会う事となった。
 職員は灰の塊を掘り起こす人、アルコール検査機のようなもので油を感知しないか調べる人や、私と一緒に各部所を細かに検証していく人、それを撮影するカメラマンなどがいた。重要な事は原因を解明する事らしく、灯油を撒いて火をつけてないかが検査される。写真の枚数にしておよそ二〇〇枚、各部所を指差すように指示された。まるで私が火をつけた犯人のような気になってくる。よっぽどピースサインでもしてやろうかと思った。
 なるほどなとは思ったのだが、火元になった場所が一番激しく被害を受けるものらしい。ガスコンロの近くにカートリッジコンロが転がっていた。そういえば父はガスを止められていたので先日、ガス代位払えよと金を渡したばかりであった。その為、ガスコンロの上にカートリッジコンロを置いていたのを思い出す。ガスコンロの右側と左側の凹み方が違うと分かり、原因はガスコンロの上のカートリッジコンロを消したつもりが下のガスコンロのスイッチを入れたらしかった。ガスコンロを下から火で燃やせば爆発するのは当り前。実際、隣の家で三回爆発音がしたという証言通り、カートリッジボンベが三つ転がっていた。ガスコンロはボタン式、カートリッジコンロはダイヤル式なのだが、ボケ始めた老人にそんな注意力はない。
 父の証言からはトイレに行こうとして、コンロのスイッチを切ったと思ったら突然爆発したとの事。恐らく消したつもりが、下のガスコンロのスイッチを押したんだろう。火のまわりは爆発的だったらしく、父は助けてくれと隣の親戚の叔母さんの名前を叫びながら飛び出してきたらしい。約三〇〇坪の土地に三棟の建物が建っていたのだが、遠くからも火の手が見え、現場周辺は大騒ぎだったとの事。
 現場検証が終了したのが正午過ぎだった。それからは父の運ばれた救急病院に行く事にする。
 移動する車の中で、これからの処理の段取りについて色々と考える。果てしない処理であった。まず父は火災保険に入っていない事が明白であった。あれだけ事故を起こしながら自動車の任意保険にも入ってなかった男である。一度「人でも轢いたら一生終わるぞ」と脅した事もあったのだが、自分は幸運な人間だから災いはやって来ない位にしか思っていない今時の老いぼれである。実際、スーパーや店舗に突っ込んで破損させる高齢者ドライバーで保険に入っていない高齢者は多い。被害にあった数店舗の店長から聞いた話なので間違いはない。
 下水も通っていない田舎に住むつもりはなかったので、家が勿体無いとは微塵も思わないが、燃えかすを放ったらしには出来ない。そのうち異臭もすれば、虫もわくだろう。近民住人から苦情が押し寄せるのは必至である。私はまず何をしなければならないかを考えた。
 
 病院に行くと父は集中治療室にいるという。妹夫婦もさすがに来ており、一緒に治療室に入った。
 父は口からは大きなチューブが突っ込まれていて、色んなケーブルが張り付いている。死ぬことはないのらしいが、喉の火傷で器官が癒着しないようにしてあるらしい。横たわる父の耳元に看護婦が話しかける。
「ご家族の人たちが来てくれましたよ」
 すると父は痙攣するようなビクつき方をした。それが異様で、どうしたんだろう? と思った。考えてみれば、何度か私も肉親の死に目に立ち合っているが、必ず危篤時には親族が集められるものである。父は自分が死に目に遭遇しているのではないかと恐怖に震えたようだ。けっ! 相変わらず気の弱い男である。
 妹夫婦は、今後あまり来れないからと言う。ハナから期待はしていないが。
 その後、着替えや日用品やおむつ等、必要な物を病院から聞き、買いに出かける。それを終え、病院に届けた後は消防署に行き、罹災証明を取る。三〇〇円ほどで簡単に出来るのだが、これが様々な手続きに必要になる。署に行くと私は有名人であった。二〇〇枚も写真に撮られていたからだ。それから生命保険会社や電気、水道と電話を入れたのだが、実は火災になると放っておいても電気水道ガスといった光熱費関連のものは止まるものらしい。二次災害の恐れがある為、テレビなどでも放映するのはそれが理由らしい。保険会社については申請しない事には死んでも永遠に出ないから注意が必要だ。罹災証明を持って役所に行けば、減税の申請や見舞金の支給などもあるので色々調べた方が良い。明日から役所廻りである。
 
 市役所を回るとほぼ一日かかる。それも幾つかの処理は残るので、覚悟は必要。慌ててはいけない、下手にバタバタするとたらい回しにされた上、結果も出ないので。しばらくは役所、包括、病院を行き来しなければならなかったのだが、包括はやっと只事ではなかったと気付いたようで、警察、病院、ケースワーカーらを集めて会議を開きたいと言ってきた。前から私が散々言っていた父の奇行だったのだが、やっと役人が気付いたのか? 無視して職務怠慢とされるのを危惧したのか? 後日、利用価値不明の福祉事務所のような所に集められた。
 行くと赤十字のマークの入った円柱の被災者救援バックとタオルケット二枚、ブルーシートを渡された。バックの中身は軍手や絆創膏や包帯、懐中電灯、ロープなどが入っていて、被災者でないと手に入らないレアなものである。これで野宿でもしろという事だろうか?
 これまでの経緯を私が説明し、話し合いになる。聞いていると具体案は皆無。何の為に呼ばれたのか分からない。
 そもそも役に立つとは微塵も思っていなかったので、行政の役立たずを散々罵倒してやった。これはこれで良いストレス解消にはなった。
 酒飲み過ぎて死ぬのは自己責任であるが、酒飲んで運転をして人を傷つけたり、ギャンブル依存で他人に金を借りまくったり、他人に迷惑かけて貰っては困る。病院の担当医には事情を話し、脱走だけは気をつけてくれと頼んだ。
 家はもう燃えてない為、色んな施設や病院をあたったのだが、素行に恐れをなしたか? 市内全ての病院に断られる。仕方ないので県央の病院で一箇所だけ受け入れてくれる病院を見つけた。だが、一週間もしないうちに悪行がバレたのか断ってきた。入院していた救急病院も回復したら出なければならない。恐らくあと一ヶ月が良いところであろうから、時間はなかった。すでに父は歩ける程度には回復していた。
 見舞いには行っていたのだが、朝と午後では調子が違うようであった。朝早い時間に行くと、よだれを垂らし虚ろで返答も曖昧だったりする。午後に行くと意外としっかりしている。しっかりしている時間に話すと「金ならある。証券会社の営業に言えば一〇〇万位ならすぐ持って来る」と言う。証券会社に電話すると当り前だが、個人情報なのでと教えないと言う。では、直接、父と話してくれと病院で待ち合わせをし、私も立ち合った。よだれを垂らす父は名刺を受け取ると「はあ?」といった素振りで寝返りをした。
「駄目ですね」と言う営業マン。以前、精神病院に入院していた父に呼び出され行った際には「一〇〇万分株を買いたい」などと言っていたらしいが、すでに三年前から口座に残金はないようだ。そうだろうなとは思っていたが、金など持っていないという事実は判明する。
 火事の残材処理の見積を二社ほど取ってはみたものの、一四〇万と一七〇万の見積が出ていた。既に携帯の解約金や光熱費の残、親戚への借金、前の病院の入院治療費などは返していたが、先を考えると目が眩む。
 そんな折、検察庁から電話があった。飲酒運転の罰金を払えという催促である。払わないと勾留すると言う。私は「どうぞ」と言った。五〇万の罰金なら、勾留してくれれば一日五千円づつだから、一〇〇日は拘束してもらえる。
 それを聞いた検察庁の職員は激怒する。勾留すると言えばビビるとでも思っているのか? 平和だな。何で息子が親の罰金を払わなきゃいけないんだよと言うと、反論は出来ない職員。当り前だ、親の罰金は子が払うって法律はない。
 警察ってのは只捕まえるだけの末端で、刑罰や罰金を決めるのは検察である。五〇万払えと言われても父の入院費や今後の費用、火災の残材処理など幾ら金がかかるやも分からない状況。当然、後回しだ。税金は自己破産しようが本人が死んでも遺産相続を放棄しない限り子に請求され払わねばならぬ、言わば史上最強の借金ではあるが、罰金なら本人の懲役で払える。
 すると今度は車のディーラーから電話。ディーラーに置いたままの、父がぶつけた車の代金を払えと言ってきた。父は前回の退院後、車のローンの残金五〇数万を翌月一括で払うと契約変更していたらしい。以前、人の家の植木にぶつけ廃車になる予定だった車である。はあ? 何だそれ。取り敢えず、父と話してくれと言う。問題は後回しである。
 ひょっとしたら、私の知らない知人に借金していたり、飲み屋のツケがあるのかも知れないが、知った事ではない。問題が発覚した時点で考えよう。
 要は慌てて真っ白にならない事である。実際、随分後になるが、この二件については一銭も払わなくて済んだ。それぞれに父に面談させ、状況を分からせる事で解決に至った。検察は、本人が免許返納の意思を示し、返却すればチャラにするとなり、後日、父を連れて免許返納に行った。車のディーラーは保管していた車を引き取りして貰い、残金は欠損処理された。
 
 一ヶ月も過ぎるとそろそろ救急病院も追い出される。丁度、一週間前になって受け入れてくれる病院が決まった。何と受け入れてくれるのは玄関ドアを破壊した例の病院である。まさか「又、来ます」と言った父の有言実行になるとは誰も予想できなかった。病院もなかなかのチャレンジャーである。まあ、火災発生後の病院や行政関係を集めての会議の効果かもしれない。
 ベット横の棚の上にメモ書きを見つけた。メモには「やめることに決めました」と書いていて日付も入っている。
 何をやめるのだろうか? パチンコ? 身内に迷惑をかける事? まさかな。
 その後、病院での打合せを担当医としていたのだが、自家用車で転院して下さいと言う。こいつ最初から言っている事を理解してないな。もし、車で運ぼうものなら「パチンコ屋へ行け」「入院はしない」と抵抗した挙句、脱走し手がつけられないのは歴然としている。あくまでも自然な転院が理想である。脱走されたところで帰る家は燃えてないのである。所詮、他人の戯言くらいにしか考えないものである。
 それではと救急車を使い転院する事になった。最初からそうしろよ。
 Xデイが決まり、私は父の転院の為の準備をした。
 転院日当日、私が病院に着くと、間もなく父はケースワーカーに連れられ一階の診察室に入ってきた。担当医が幾つかの質問をする。
「今日から保護入院という形で再入院になりますが、よろしいですね」
 という担当医に父は応えた。
「わしはもう永くは生きない。だから運を天に任せ、好きに生きる。保険の為に我慢するのはやめた。だから入院はしない。家は半焼だ、まだ住める」
 と宣言する父に担当医は
「火事の事は覚えてるんですね。でも半焼でも住めないよね」
 我が父、大したものでボケてもこれぐらいはスラリと言えるのである。前の病院で「やめます」といったメモは、保険金をアテにして入院生活を送るのをやめますといった意味だったようだ。火事の原因はトイレに溜まったメタンガスが着火爆発した為と思っているようだ。こういった会話を聞いているとボケというよりは確信犯なのか? いいや、気の弱さからきた狂気であると思うのである。
 母が生きている時や金のある時は良かったのだが、次第に将来に対する危機感、恐怖に押し潰され、それから逃げる為妄想に支配されたのではないかと思う。情けない男ではあるのだが、父なので仕方ない。母親が生きている間は父親の存在が希薄だったのだが、遊び好きで忍耐力がなく、楽天的なところは間違いなく遺伝していた。スポーツや才能といった事は父親からは遺伝しない為、プロのスカウトも相手にしないらしいのだが、悪い性格は遺伝してしまうようだ。
 保護入院という事は任意入院とは違い、医師の承認なくしては退院出来ない。長ければ一〇年以上いる患者もいるらしいが、取り敢えず受け入れ施設などを並行して検討する方向で考えていた。火災で入院した救急病院の影響からだろうか、以前ほどの覇気は薄らいできた父だったが、入院患者の多いこの病棟では会話も自由に出来る上、元来、父はコミュニケーション好きだったので問題はない。過去は反省などしないだろうから、又、新たな問題も起きるかもしれないが当面の問題解決が先決であった。
 少なくとも後二年は生きるだろうと思っていた。
 
 やがて放っておいた検察庁から「免許の返納を条件に罰金を免除する事に決まりました」と電話があった。色々な状況と本人面談の上、責任能力がないと判断したようだ。後日、免許センターに父を連れ返納に行き、証明書を私が検察に持っていく事で了承した。
 当日、ケースワーカー二人と一緒に病院に迎えに行き、免許センターへ。この頃になると父は足腰が随分弱くなっていて、普通には歩けない為、車椅子を借りてセンターへ入った。検察が連絡しているものだと思ったら「免停期間を過ぎないと返還出来ません」という。相変わらず、行政や役所はブラックボックス化していて連携がないのだなと呆れる。仕方ないので書類だけ書かせ、後日、私だけが手続きに来る事で処理する事となった。
 書類を書こうとする父もスムーズには書けないようなので、耳元で住所などを教えてやる。漢字はちゃんと書けるようだ。
 一緒に来たケースワーカーが以前持って来て貰ったスリッパだとよくコケるのでスニーカーを用意して下さいと言う。幸い、免許センターの隣がホームセンターだったので「今から買ってきてやるけど、二五センチで良かったよな?」と父に聞いた。父は「それでええ」と応えた。
 それが親子最後の会話になるとは、その時は全く思わなかった。
 
 それから一週間後、携帯を忘れたまま仕事に出た為、昼間自宅に帰った時だった。電話が鳴っているので出てみると親戚の叔母さんからだった。「お父さんが亡くなったよ。今、病院にいるけど家族でないとどうしようもないからずっと電話してた。すぐ来なさい」
 又、予想を超えてくる父。私は慌てて病院まで急ぐ。
 
 病院に着くと、母方の姉妹である叔母さん達と各旦那の叔父が皆集まっていた。親子でないと遺体の移動が出来ないというのだ。病院の看護婦に案内され、病室に横たわる父は白い顔掛けをされている。タオルケットがかかった上から組まれた手を触ると、随分、痩せていた。人間なかなか死ぬものではないが、逝く時はあっさりしている。午前中は普通だったようなのだが、途中、出たゼリーを喉に詰まらせたようだ。看護婦が気がついて蘇生措置を行ったが駄目だったらしい。別れを惜しむ暇はない。病院は早く手配をして欲しいらしい。
 今までもそうだったように私が仕切らない事には前に進みようがなかった。取り敢えず、実家に一番近い葬儀屋に電話を入れると、三〇分で来ると言う。迅速であった。本当に三〇分で来た。それから葬儀場に運び、葬儀の打合せだ。さすが餅は餅屋である。普通、突然死人が出れば家族はアタフタするものだが、任せっきりで大丈夫だった。通夜の段取り、祭壇に飾る遺影写真、死亡届、墓石への名入れ、宮司や坊主の手配、火葬場の手配まで全てやってくれる。問題は金だけである。実際、斎場につき、父の通夜の準備と共に打合せをするのだが、普通、葬儀代金は一〇〇万から出発する。色々とオプションを入れれば数百万にアッという間になってしまう。ちなみに散骨などと格好つけようものなら、火葬場で粉末にした遺灰を持って、ヘリコプターをチャーターし、遥か彼方の島に行かねばならない。莫大な金がかかる。おまけに時間も場所も指定だ。当り前だが近くの海岸で人骨が出てきたら事件にされる。一番金がかからないのはエホバ教のように、元来、墓を建てない、葬式をしない宗教だろう。ちなみに火葬場に頼めばゴミと一緒に棄ててくれるらしい。
 葬儀屋の従業員は明日、死亡届を出してくるので、銀行預金は凍結されるでしょうから、それまでに下ろしていた方が良いですよと教えてくれた。と言われても金はないのだが。
 状況が状況だけに見栄を張ってもしょうがない。うちの祖父は聖人と呼ばれた人だったので、葬儀、その後も一〇〇〇人を超える弔問客が訪れた。母の時でも六〇〇人位は来たのではないか? 父は生前の悪行と放蕩で大した客は来ないと思われる。来るのは飲み屋の借金取りか、金を貸してるんだが払ってくれないかって知らない輩だろう。かえって面倒だ。
 そこで家族葬程度に納める事にする。それでも総額からいえば八〇万はかかる計算だ。ちなみに火葬代や宮司を呼ぶための費用は前払いである。
 私は喪主となり、その場で葬儀場から出る事を禁じられた。風呂も台所も布団もあり、別に寒くも暑くもないのだが、テレビはない。いつ弔問客が来るやも知れぬ為、出るなと拘束されたのだった。
 とはいえ、要領も分からず着の身着のまま出て来た私。礼服はレンタル出来るが、葬式で着るシャツも靴さえない。
 私はすぐ帰って来るからと葬儀場に言った上、買い物に出た。取り敢えず、着る物と食うもの位は買ってこなくてはなるまい。
 一時間もすると「どこに行ってんだ?」という葬儀場からの電話が鳴る。うるせえな。
 
 だだっ広い広間の奥に祭壇が作られ、父の遺体が寝せてある。蝋燭の火が消えないように気をつけながら、私はする事がなく酒を飲み始める。葬儀は一日あけて三日後が最短であった。翌日の通夜の席には近い親戚を呼んで、料理を出す予定である。この際出すオードブルにもランクがあるのだが、あまりケチ臭い物もどうかと思い、それなりの物を頼んだ。酒は飲んだだけ計算される。
 田舎には古い迷信があって、祖父母の時も母の時も一周間は精進料理で、終わる頃には皆グッタリしたものだが、今は違うようだ。肉もオードブルの中に入っている。極力、親戚にもこれ以上迷惑をかけない為、葬儀が終わったらすぐ火葬をし、その足で親族の墓に納骨して解散する予定にしていた。
 
 父が横たわる大広間の横が大葬儀場である。この時期、暇なのか? 私一人に貸し切り状態であった。大体、一〇時過ぎにはあまり人も来なくなる為、私は広間の隣の休憩室でスケジュールを見直していた。何より、役所や香典返しの手配、火事の残材処理など問題は山積みであった。そうしていると、隣の広間から物音がする。往生際の悪い父が起き上がってきたのかと、襖を開けギョッとした。
 太った女が座っていた。よく見るとそれは妹であった。
 二、三、言葉を交わすうちに出てきたのは父に対する罵倒の数々であった。いくら何でもと思うのだが、仕方ない。そんな娘に育てたのは父である。世の中にはそんな人間もいるのだ。好き勝手に生きた父が気に入らないのは分かるが、いずれにしろ弱者である。もし騙す事を目的に近づいてきた悪党がいれば、赤子の手を撚るようなものだろう。弱者を無下には出来ないのは人の人情である。肝心な道理の判断が出来なかった父の末路ではあるのだが、盗人呼ばわりした息子に結局、葬式まで面倒見て貰うってのはある意味人間ぽいオチのような気もする。結局、一時間ほど父の罵倒をした妹は清々した顔で「明日、又、来る」と言って帰っていった。私は父の死に顔を見ながら「育てたお前が悪いんで」と呟いた。
 その後、夜一〇時過ぎに訃報を知った後輩夫婦が来てくれて、話したりしたが、その後は静まり返った斎場に一人。酒を呑むくらいしか、する事がないのである。そうするうちに別れた元女房が娘達を連れてやって来た。
 子供は娘二人だった。下の子は二〇歳なのだが、既に結婚していて旦那と孫も一緒だ。初めて見る娘婿はエラく老けている。孫はまだ0歳児だ。火事の事は心配するからと連絡もしてなかったのだが、テレビニュースで知っていたらしい。元女房に「孫も出来て幸せそうな婆さんになったな」と言うと娘たちが笑った。それから小一時間、斎場で話をしたんだが、夜中の一二時を既に過ぎていたので、明日の葬儀には出るという事で帰っていった。帰り際、娘婿が子供を抱かせてくれたのだが、深く考えるのはヤメにした。間違いなく、泣いてしまうから。
 その後、寝ようとすると、恐いというより騒々しい気配がする。恐らく近所の死んだ者たちが観に来ているような感じ。翌日、斎場の従業員に話すと、泊まった人間は皆そういうらしい。まあ、気のせいだろうが。
 翌日は書類を書いたり、色々と葬儀の準備に明け暮れ、夜になると親戚連中が来て、通夜というよりは、ほぼ宴会。賑やかな事が好きだった父には丁度良いのかもしれない。まあ、生きているうちから「死んだら終わり」が口癖だったし。
 飲んで食ってお開きになったのだが、県北から来た妹家族に休憩室を占拠された為、私は父と大広間で寝る事になる。
 翌日の葬儀は家族葬ながら、葬儀屋が暇で客もいなかった為、大葬儀場での葬儀となった。母方の神道のまま、流儀に則って行われた。呼んだ宮司は私の同級生の親父で、祖父母、母の時も来て貰っていた。同級生というのが、高校生時代、毎週末は酒盛りをして、自動二輪バイクを乗り回していた不良仲間だったので、その親が来ても昔からご利益はあまり感じないのだが。
 神道の葬儀は短い。仏教の数分の一の長さ。最後に親戚の別れの挨拶を遺体の入った棺桶に花を入れながら行う。叔母達は泣きながら声をかけるのだが、最後に私達子供の番になった。私は「もう好き勝手に生きたんだからいいだろ。戻ってくんなよ。二度は死ねないから、好きなだけ酒でも呑むといい」と言うと、妹は「あの世で母ちゃんに説教受けない」と言う。妹の旦那はさすがにそれに付き合えない為、悲痛な顔で黙っていた。私ら兄妹は笑いながら今生の別れをした。
 葬儀が終わると、火葬場に親戚全員で移動。火葬場は大忙しで随分待たされた。火葬する際には、壁についている赤いボタンを押すと着火される。母の時も私がボタンを押した。火葬が終わるとしばらく冷まされて、骨格が分からぬように散らされた後、親族の元にやってくる。それを長い箸でつまんでリレーをしながら骨壷に収納するのだ。勿論、全部は入らないのだが、係員が「これは○○の骨ですね」と教えると親戚は「ほう」何て言いながら箸でつまむ。最後に喉仏の骨を入れて終わりだ。喉仏というのは、丁度、正座をして手を合わせているような形かららしい。
 骨を拾い終わると、即座に実家近くの納骨堂に移動した。祖父母や母の眠る墓である。裏に鉄の扉があって、それを開くと骨壷を納めるスペースがある。さっさと納骨して親戚一同解散にしたかったのだが、扉が開かない。ひょっとして祖父母と母が一緒に納骨されるのを拒否しているのかな? とも思ったが、車に積んでいたバールでこじ開けた所、事なきを得た。中には祖父母の他に生後間もなく死んだ母の弟の遺骨もあって、父の骨壷を入れた時点で満杯となった。妹はこの墓には入らないだろうが、私は死んだら行政にでも適当に火葬して貰って終わりにしたい。子がいる場合は「何とかしろよ」と行政に言われるのだが、身寄りが無い場合は何とかしてくれるようだ。
 その後、親戚にはお礼を言い、解散。私は県央の自宅に父の遺影と葬儀屋から貰った祭壇セットを抱え帰った。四九日過ぎる迄は線香をあげねばいけないのだ。この間に香典返しの手配をしたり、色々な事後処理が待っていた。葬儀は結局、八〇万位でおさまった。香典返しは人数が少なかった為、二〇万位だろうか。勿体なかったのは、死ぬとは思わなかったので携帯の解約料を既に払っていた事だろう。七万円も払った後だった。携帯電話は死んだら、死亡届を出せばチャラにしてくれるらしいのだが。そういえば火事になる寸前にメガネを作っていた父、その代金三万も私が払ったのだが、火事で消失している。
 
 その後、無残な家の残骸が残ったままになっていた。そのうち近隣の田舎者が文句を言ってくるのは間違いない。
 使っても後悔しない程に金を持っているか、火災保険に入っていれば業者に任せて終わりなのだが、既に数百万使っている上にこれは痛い。とはいえ、三ヶ月も過ぎるのに規制線が張られたままだった。おかしいなと思い、消防署に電話すると「忘れてました」と言われ、すぐに規制線は取り除かれた。
 結局、再三、通っていた市役所の維持管理課の人と現場で話し合い、業者は使わないという条件で産廃処理の許可を貰った。許可証を発行して貰い産廃場に持っていくと費用を免除してくれるといった形だ。燃える物は別の処理場があって、ここはいつもあいているのだが、産廃は水曜日と土曜日だけである。作業は知人に頼み、日払いで手伝って貰い、トラックやユンボ等はレンタルする事にした。
 この火事の残材というのが果てしない量であった。4トン車と2トン車を借りたのだが、それぞれ二〇回づつ運んでやっと終わった。綿密な段取りをしていたので何とか一〇日で終了したが、逆に火事で燃えてなければ父の死後たいへんな片付けだったと思われる。人は死ぬ前に荷物の整理処分はしとかないと、残された者が苦労すると思い知らされた。
 結局、八〇万程度で済んだだろうか? 勿論、私の手間はゼロで計算しての事。確かに産廃業者の見積が一〇〇万を超えるのは尤もだと思った。産廃処理料だけでも三〇万程度にはなるだろうし。
 
 ここ八ヶ月、父に振り回されて仕事もロクに出来なかった上に難題の連続、親の恩からすれば、仕方ない事なのだが。実家にあった膨大な量の写真は全部灰になってしまったが、幸い私の家に残っていた父の船員時代の写真がある。戦後、一〇年位の海外で撮られた白黒写真だが、父はハンサムでオシャレなジェームズ・ディーンのようだ。時代からすれば随分、進んでいた人なんだろうなと思うと、人の人生の幸不幸は測れないが、結局、楽しかったか否かの差でしかないようだ。自分のこれからを考えるに、所詮、自分は有象無象、歴史の塵であるのだから、何を糧に生きようか? と考える日々である。
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