ある泥濘の風景

文字数 6,178文字

 どうやら雨が降り出したようだ。

 エアコンの音と重なって、カーテンで閉ざされた窓の向こう側からは雨が地面を叩く音が聞こえてくる。

 俺は雨が嫌いだった。

 湿気や雨の持つ陰鬱な雰囲気、それはまだいい、頭痛がする、それもまだいい、それ以上の何か、それは雨を見ると彼女が死んだ五年前の事故の夜を思い出してしまうという物である。それはまさしく最悪な思い出であって、頭痛と共に甦るのだ。

 絶対に忘れる事の出来ない思い出。好きだったからこそ、楽しい思い出だったからこそそれは未だに俺を苦しめていたのである。

 苦しむということは大事に思っていたという事でもあり、俺が彼女を愛していた証でもある。割り切ることなど俺には到底出来ず、過去のものにしてしまうしかないのだが、それこそ出来ない話であるため、この痛みに対しては複雑な気分であった。

 俺は眼鏡をキーボードの横に置き目頭を押さえる。長時間、パソコンを触っていたためかまぶたが重い。

「さすがに疲れたな」

 椅子の背にもたれ掛かりながら大きく伸びをして呟いた。

 ビジネスホテルのシングルルームほどの広さしかないアパートの一室。そこが俺の自室であった。半分以上がベッドと机に占領されているその部屋を見回し、俺は立ち上がる。必要最低限の物しか置いていない殺風景な部屋の中、向かう先は部屋の隅にある紺色の冷蔵庫であった。冷蔵庫の中には数枚の板チョコレートと十本以上のペットボトルの天然水が入っており、俺はペットボトルを一本取り出し、蓋を空け口を付ける。流れ込んでくる水は冷たくほんのりと甘い。

 ピン……ポーン。

 不意に部屋のチャイムが鳴った。

「こんな時間に一体誰だ……?」

 ペットボトルを机に置き眼鏡をかけながらパソコンの時計を見ると、デジタル時計の数字は深夜の二時十四分であった。この時間に人と会う予定などもちろん入っている訳はなく、誰かに苦情を入れられるほど煩くしてもいなかった。

 ならばこのチャイムは誰なのだろうかと不審に思いながらも玄関扉の覗き穴を覗く。

 その瞬間、俺は目を疑った。そこに居たのは五年前に事故で死んだ筈の恋人、葉月であったのだ。

「葉月!!」

 俺は勢いよく扉を開け廊下に出たがそこに彼女の姿はなく、設置された蛍光灯が虫の羽音のような音を立てながら誰もいない廊下を薄暗く照らし出している。

 屋根と腰の高さほどの鉄柵があるだけの廊下には風に吹かれた雨によって所々しっとりと黒く濡れた跡はあるが足跡は見当たらない。

 しんとした空気が喉に張り付き、俺は唾を飲んだ。

 一体誰がチャイムを鳴らしたのか。雨に濡れた足跡がないという事は、考えられるのはこのアパートの住人と言う事になる。しかし、今時よろしくご近所付き合いなど俺には一つもない。右隣に住んでいるのが女であり、左隣に住んでいるのが斉藤さんと言う事しかしらないのだ。

 そんなたまに会えば挨拶を交わすだけの隣人が俺の家のチャイムを鳴らすだけ鳴らして居なくなるなんて事があるのだろうか。普通に考えればそんな事はあり得ない。しかし、昼間は雑踏に埋もれて隠れていた静寂が、何か得体の知れない異変が変な企みを持ってうろついているような感じを起こさせる。

 一歩外に踏み出し辺りを見回すがやはり人の気配は無く、目の前の道では街灯が鈍く雨を照らし出していた。昼間は全く気のつかない自分の息遣いが変に耳につく。

「うっ……」

 突然の頭痛に俺は蹌踉めいた。

 目眩がして上手く立っていられない程の痛み。雨の日はいつもこうだ。まるで古傷が痛むかのように、雨を見るとあの事故を思い出し頭に痛みが走るのだ。

 頭を押さえながら部屋の中に入った俺の頭に、再び響くような痛みが襲いかかり目が眩んだ。紙に墨を垂らしたかのようなじんわりとした黒が視界に広がっていき所々白い線の入った乱雑な黒に包まれた後、一瞬映像がフラッシュバックする。

 俺が誰かを突き飛ばし車の前に飛び出して行く映像。

 記憶の中には無いはずの、事故の映像が俺の目の前に映し出されたのであった。

「けーちゃん!!」

 咄嗟に手を伸ばした俺は現実に引き戻される。

 普段通りの部屋と体の中で歪に鳴り響く鼓動。額に手を当てると体温とは裏腹に冷たい汗が滲んでいるのが分かった。うつらうつらする頭を切り替えるようにして、俺は深呼吸しながら立ち上がる。

 一体今のは何だったのだろうか。口から漏れた名前は昔彼女が俺を呼ぶ時に使っていたあだ名であり、彼女しか呼んでいなかった名前だった。つまり、さっきの映像は彼女から見た俺と言う事になる。

 まるで、もしもあの時彼女を助ける事が出来ればという俺の願望が形になったような映像であり、しかし、それにしてはとても現実味を帯びた物であったと俺は思った。

 不気味な違和感が頭の隅に残るのを感じながら俺は深呼吸をした。

 さっきのチャイムといい、今日は特に奇妙な事が起こる。

 今日……そう言えば今日は何日だ。ふと浮かんだ思いと、それと同時に背中にひたりと張り付いた何か。俺はどたどたと音を鳴らしながら立ち上がって机の前に向かい、パソコンの横に置いてあったスマートフォンを手に取った。

 電源を入れた画面に浮かび上がるのは七月六日という文字であり、それは彼女が事故で死んだ日でもある。

 そんな日をなぜ俺は忘れていたんだ。彼女の命日には毎年墓参りに行っていたし、忘れるなんて事は今までなかった。それなのに完全に頭の中から抜けてしまっていた。

 いや、何かが引っかかる。まるでパズルの組み合わせが一列ズレていた時のように、どこかがズレて噛み合っていないように感じるのだ。薄ら寒い不安が背中の真ん中辺りから湧き出して、じわりじわりと俺を包み込む。

「俺は本当に毎年墓参りに行っていたのか」

 脳から直接言葉が落ち俺は口を押さえた。

 そんな馬鹿なと思い記憶を探って見るが彼女との思い出が思い出せない。記憶を失った訳ではない。まるで水面に浮かぶ月のように、そこにあるように見えるのに手で触れようとするとぼやけて見えなくなってしまうのだ。

 大まかな、いつ彼女に出会って、いつ彼女と遊んで、いつ彼女に告白したのかなどの流れは簡単に思い出せるのだが、その日どんな場所に行き、どんな事をして、どんな話をしたのかが全く思い出せない。

 やはり何かがおかしい。

 俺の記憶は本物だ。それは確かなのだが、その記憶自信がお前の考えは間違っていると言っているように思えるのだ。

 なんだろうか。記憶に対する方向性というか、見方や視点というか、それこそまるで空に浮かぶ本物の月では無く水面に浮かぶ月を見ているような感覚を俺は感じていた。

 一体何を、どこを見ているのだろうか。

 俺は椅子に座ってタバコに手を伸ばし一服しながら気持ちを落ち着かせ、状況を整理しようと思考を整理して考えるが気がつけば足下はおぼつかず右も左も分からない。海の中で溺れた時のようにもがけばもがくほど分からなくなっていく。

 タバコのフィルターが焦げているのにも気がつかず、俺は一本また一本と新たなタバコに手を伸ばした。そして、俺はいつからタバコを吸っていたのだろうか。と、ふと思う。俺は昔タバコを嫌っていた筈だった。ろくでもない親が吸っていたその臭いが嫌いで、家に帰るたびに眉を顰めていた。だから俺は親のようにはならないように吸わないと決めたと話した筈だ。それなのになぜ俺はタバコを吸っているのだろうか。

 いつから吸い出したのかが思い出せない。おそらく彼女が死んだ後からだとは思うのだが腐っていたとしても、あそこまで毛嫌いしていた物を吸い出した事を忘れるだろうか。いや、あり得ない。そんな馬鹿な事ある筈が無いのだ。しかし、現実としてそれは起こっている。

 気味の悪い空気が俺を包む。

 部屋に散ったタバコの煙と臭い。まるで高校で一つ上の学年の教室に一人取り残された時のような孤独感に怖くなった俺は、スマートフォンを手に取り親友である鳥ヶ谷の連絡先を探したが、そこに鳥ヶ谷の名前はなかった。

 ここもか。と、俺は思う。

 俺のスマートフォンに鳥ヶ谷の連絡先が入っていない訳が無い。しかし、事実としてこのスマートフォンには鳥ヶ谷の連絡先は入っていないのだ。

 俺自身の記憶も、現実にある道具も、頼りになる物が何も無い。だがここは俺の部屋で、部屋にある物は全て自分の物であるという事も事実なのである。全てが疑いようの無い現実であるからこそ、俺は自分を見失ってしまっているのだ。

 頼りにしていた物が悉く否定される。

 それは悪魔の悪戯のようであった。俺は俺がここに存在していると自らが認識しているが、俺がここに存在している証拠はどこにも無く、俺の存在を認識できるのは俺しかいない。結果として、俺は俺の存在を証明出来てはいないのだ。

 俺は一体誰なんだろうか。

 そんな事を考え出すと、自分という存在がどんどんあやふやになっていき静まり返った部屋は居心地が悪くなる。このまま行くと意識が消えてなくなってしまいそうな不安に襲われた俺は、誰かの声を聞きたいと思いパソコンに向き直って動画サイトから目についた音楽を流した。

 彼女が好きだったバンドのバラード曲、それは当たり前ではあるが五年前と全く同じ音を部屋に響かせ俺の心を安堵させる。

 音の増えた部屋で一体いつからだと俺は自問自答を始めた。

 雨の音が窓の外から聞こえてからはハッキリと記憶があるが、それより前がぼやけてしまっている。俺という存在が何なのかは分からないが、もし突然生まれた幽霊のようなものだとしたら俺はその時生まれたのだろう。

 しかし、それならばこの部屋は一体何なのだろうか。

 俺は再び部屋を見回した。

 ここは自分の部屋だと思っていたが、俺が突然生まれた存在ならば部屋があるのはおかしく、とするならばここは他の誰かの部屋で俺はその人間に乗り移ったと考えるのが正しいだろう。

 物が少なく人となりが見えて来ない静かな部屋。そんな空っぽの部屋を俺は何故か直視する事が出来ず無意識に目を伏せてしまう。何故か、いや、俺はこの部屋を知っているのだ。だから目を逸らしてしまった。しかし、肝心の部屋の主が誰なのかが思い出せない。

 そう思いふと机の引き出しを開けた瞬間に目に飛び込んで来たネックレスを見て、俺は言葉を失った。指輪を通したチェーンのネックレス。

「まさか……」

 俺はそのネックレスを掴み取り靴も履かずに部屋から飛び出した。

 ぺしゃぺしゃと白く細い足が地を叩く音も、淡い色をした唇から漏れる息づかいも、長い睫毛の下にある瞳が望む視界も、全てが降り止まぬ雨に紛れる。

 ある事実を確認する為に、見知った筈の知らない体を精一杯動かしながら俺は走った。

 雨の日の頭痛は俺の物じゃない。チョコレートが好きだったのも俺じゃない。文章を書くのが好きなのも、ブラックデビルとか言う名前の変わったタバコを吸っていたのも、全部俺じゃない。

 なぜ気がつかなかったのか。いや、気がつけないようになっていたのだ。

 雨は全てを、境界線をもぼやかし曖昧にする。

 俺の辿り着いた場所は墓地であった。

 幾つかの街灯が照らす深夜の墓地の中を私は躊躇いなく歩いていき、ある墓の前で立ち止まる。墓に掘られているのは三枝家之墓という文字であり、それは俺の苗字でもあった。

「やっぱりそうか」

 雨にも負けない力強い声でそう呟いた瞬間、今までよりも一段酷い頭痛が脳を揺らし、私は蹌踉めきながら自分の墓に手をついた。

 早く家に帰って鏡を見たい。そう思い私は再び歩き出した。泥を踏んで汚れた素足は道を一歩一歩進むたびに綺麗になってゆき、濡れて重くなった紺色のワンピースはぴったりと肌に張り付き私の体のシルエットを浮かび上がらせる。

 懐かしい。

 暗闇の中、影のアーチを作る並木道を歩きながら私は昔を思い出した。彼と一緒に何度も歩いたその道は雨に濡れ、街灯に照らされ、きらきらと学生の頃の私のように綺麗に光っている。

 意識の混濁が始まっているのが分かった。俺の意識は後どれだけ持つのだろうかと考えると急に怖くなった。

 徐々に弱くなる雨の音に比例してそれまで遮られていた様々な音が耳に届き、雲に満ちていた暗い空は透き通った紺色を所々覗かせている。

 もうすぐ雨が止む。

 泥濘は地面に代わり、沈んでいた彼女の意識も表面に浮かんでくる。

 ひたりひたりとコンクリートで出来たアパートの階段を上り自室のドアを開けると中から乾いた冷房の風が流れて来て、雨に塗れた外のぬるい風を押し退けた。

「さすがにこのままじゃ入れないな」

 玄関で雨に濡れた紺碧のワンピースを見下ろしながらその裾を搾ると、勢いよく水が滴った。

 それを数度繰り返したが切りが無いと思い、ほどほどの所で手を止め、皺が付きよれてしまったワンピースをその場で脱いで洗濯機の中に放り込み部屋の角にある姿鏡の前まで歩いて行った。

「……葉月」

 声が震える。

 鏡に映る俺の姿は、成長はしているが間違いなく葉月だった。桜色の下着と西日のように薄黄色い肌を優しく摩り、そのまま指先を唇まで滑らせると、その横を薄く流れる涙に気付く。

「葉月、会いたかった。もう一度……会えて良かった。大好きだ」

 鏡越しに俺が彼女の頬を触って涙を拭うと、葉月は尚更に涙を流し顔を歪ませた。

「昔よりもだいぶ痩せたな。肌も少し荒れてるし、ちゃんと飯食ってんのか?」

 昔付き合っていた頃とは似ても似つかない、細く荒い彼女の体で俺は全てを察する。

「わたしも……そっちに行きたい。駄目かな?」

 その言葉を切っ掛けにして深い霧の中に浮かぶ影がだんだんと薄くなっていくのが分明になり、どこまでが俺の想念なのかが分からなくなっていく。

 意識が切り替わる。

 見える世界は形を変え、ある隠り世のような世界が目の前には広がった。

 覗き込んで見える景色は瞬間瞬間で形を変え、憂鬱を抱え込んだ明けの闇に浮かぶ月は青白い光りでその世界を水没させていた。

 誰もいない町を彷徨う彼女は、まるで田舎から一人ぼっちで都会に出て来た少女のように、質量のある孤独のようなものに息を詰まらせる。

 そしてある瞬間が過ぎた。

 思い出は床に落ちる涙のように形を残さず跡だけ作って消えていく。

 これが最後の瞬間だと俺は悟った。

「これは俺からのお願いだけど、葉月にとっては呪いになってしまうかもしれない。けど、俺は君に幸せに生きて欲しい。振り返るなとは言わない。葉月が幸せになれるまで俺はそばに付いているから、だから、どうか前を見て進んで欲しい。それが俺の願いだ」

 意識の奥、積み重なった記憶の中で彼は私にそう言った。気がつくとそこに彼の姿はなく、けれど確かに私は彼の暖かさを頬に感じていた。

 彼が残した最後のお願いは、彼は呪いになるかもしれないと言っていたが私には楔のように思える。私が幸せに生きる事が彼との絆の証なのだ。

 私が生きる事で彼はそこに存在する。



 その部屋にはもう別の影はなかった。一瞬訪れた重い孤独と空気は彼女がくしゃみをすると同時に霧散し、逃げるようにして部屋に散らばる。

 そして彼女は鼻を啜りながら椅子に座って玄関を眺め、タバコを一本取り出したのであった。




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