その5 放物線
文字数 1,926文字
陸がいた。駅のベンチにぽつんと座ってる。
あんな陸、初めて見る。
陸。
15分前。
「高遠 が早退か、めずらしいな」
数学の市村先生はもうチョークを持って、黒板に線を引き始めてた。「今日は放物線の証明をやるぞ。覚えてるか、放物線」
それどころじゃないです、先生。
陸の席が空いてる。空間がゆがんでる。教室じゅうの空気が漏れていく、あの穴から。オゾンホール。たぶん比喩として間違ってるけど、あたしは、息ができない。
陸。
「グラフで描くとこうだが」先生の引く白いUの字が黒板の上にのびていく。Uじゃない、もっと柔らかく開いた。「放物線つうネーミングはもともと『物を放 ったときにできる線』なんで、イメージはこうだな」今度は山を描く、Uの字の逆の。「地球上で物をななめに放り上げると基本こういう軌跡を描く。相似って覚えてるか?」
覚えてません。
イッチーは手をポケットに突っこむくせがある。左手はいいけどときどき右手も突っこんで、ズボンをチョークの粉まみれにしてる。あたしも右手をそっとスカートのポケットに入れた。丸めた紙が手にさわる――さっきの。
陸。
15分前の15分前。
昼休み。お弁当を食べ終わって、女子どうしでふざけてた。あたしだけ教室の中にいて、あーやんとまりりんとともちゃんは窓の下、ここ一階だから。何か忘れたけど三人がきゃあきゃあ笑ってて、あたしが何か言おうとしたとき、ぽん、と背中に当たった。何か。
ふりむいたら陸が、壁にもたれて紙パックの何か飲んでる。ストローで。たぶんミルミル。
教室に、他に誰もいない。
「何いまのみうみう、誰」あーやんたちからは教室の奥は見えない。「ゴミ投げた?」
「ラブレターじゃね?」声、まりりん。
「うそ、まじ誰」
「うける」
笑いころげる三人。ほっとけ。あたしは苦笑して紙くずを拾った。んなわけなかろ、ラブレターなんて。陸のバカが何を――
広げて、息が止まった。
ほんとに書いてある。鉛筆で。
好きだ。
「放物線の式の求めかた、覚えてるか? 頂点が(p, q)なら、y=a(x-p)2+qとおく……」
なになに何書いてあった、まりりんがうるさい。あたしの脳髄は超速回転した。さりげなく、最大級 さりげなくだよここは。「やーまじでラブレターだわ、愛してるって」
「だはは! で、ほんとは何よ?」
「なんも。ゴミ」
「なあんだ」
こうするしかないじゃない、陸のバカ! だってまりりんたちの餌食になったら明日から学校来れないよ、陸もあたしも? ていうか、本気? 冗談? 何なの?
もう一度ふりむいたら、陸と目があった。陸、ペコッ、と音を立ててミルミルを吸い終わると、ゴミ箱にかるくシュートして、出ていった。
あれからあたし、体に血が流れてない。
「相似ってことはつまり、拡大縮小して平行移動すれば、どの放物線もこのカーブに重なるってことだ。キャッチャーが一塁へ送球するのも、噴水の水玉が上がって落ちてくるのも、ゴミのポイ捨てもな。どうだ驚いたか? もっと驚けよおまえら。ん、どうした柏木、具合悪いのか?」
鉛筆一本つかんで、あたしは教室を飛び出した。まにあいますように。走れ、あたし。笑っちゃうけど今の時間帯、電車は一時間に三本しかない。陸。ごめん陸、バカはあたしだよ、死にたい。ごめんあーやん。ごめん神さま、まにあわせて、何でもします、スクワット千回でもチョコ断ちでも、いやチョコは無理、グミなら、何言ってんだあたし。息が切れてのどが割れて血が出そう。でも教室で死ぬより駅まで走って死んだほうがいい。陸。陸がいた。向こう側のホームのベンチに座ってる。初めて見た、あんな、こわれそうな。
「陸!」
力いっぱい叫んだつもりなのに、声がかすれて出ない。メロスかあたしは。「陸!」改札を無視して手前のホームによじ登った。むちゃくちゃ手を振った。足踏みした。陸、こっち見て驚いてる。あたしは超速 でポケットから例の紙を出して、鉛筆で一言書き足して投げた。
あたしも。
地球上の放物線はみんな重なるんだって、知ってた陸? あたしに届いたんだから、陸にも届くよね? 微妙に飛距離が足りなくて、ぽてちんと足もとに落ちた紙くずを、陸は、拾おうか、どうしようか迷ってる。拾いなよお! あたしは階段に突進した。二段飛ばし。駅員さんが後ろで「あっ」とか言ってるけど知らない、後で謝る、だっていま危急存亡、天下分け目の関ヶ原なんだから意味不明。ああこれで地獄の日々が始まるのだ。まりりんたちに弄 られて火だるまになるのだ。死なばもろともだよ、陸? ベンチから立ち上がったやつはまだ紙を拾ってない、バカ、もういい。陸。陸。陸。あたしはちょっと泣きながら彼の胸に飛びこむ。
あんな陸、初めて見る。
陸。
15分前。
「
数学の市村先生はもうチョークを持って、黒板に線を引き始めてた。「今日は放物線の証明をやるぞ。覚えてるか、放物線」
それどころじゃないです、先生。
陸の席が空いてる。空間がゆがんでる。教室じゅうの空気が漏れていく、あの穴から。オゾンホール。たぶん比喩として間違ってるけど、あたしは、息ができない。
陸。
「グラフで描くとこうだが」先生の引く白いUの字が黒板の上にのびていく。Uじゃない、もっと柔らかく開いた。「放物線つうネーミングはもともと『物を
覚えてません。
イッチーは手をポケットに突っこむくせがある。左手はいいけどときどき右手も突っこんで、ズボンをチョークの粉まみれにしてる。あたしも右手をそっとスカートのポケットに入れた。丸めた紙が手にさわる――さっきの。
陸。
15分前の15分前。
昼休み。お弁当を食べ終わって、女子どうしでふざけてた。あたしだけ教室の中にいて、あーやんとまりりんとともちゃんは窓の下、ここ一階だから。何か忘れたけど三人がきゃあきゃあ笑ってて、あたしが何か言おうとしたとき、ぽん、と背中に当たった。何か。
ふりむいたら陸が、壁にもたれて紙パックの何か飲んでる。ストローで。たぶんミルミル。
教室に、他に誰もいない。
「何いまのみうみう、誰」あーやんたちからは教室の奥は見えない。「ゴミ投げた?」
「ラブレターじゃね?」声、まりりん。
「うそ、まじ誰」
「うける」
笑いころげる三人。ほっとけ。あたしは苦笑して紙くずを拾った。んなわけなかろ、ラブレターなんて。陸のバカが何を――
広げて、息が止まった。
ほんとに書いてある。鉛筆で。
好きだ。
「放物線の式の求めかた、覚えてるか? 頂点が(p, q)なら、y=a(x-p)2+qとおく……」
なになに何書いてあった、まりりんがうるさい。あたしの脳髄は超速回転した。さりげなく、
「だはは! で、ほんとは何よ?」
「なんも。ゴミ」
「なあんだ」
こうするしかないじゃない、陸のバカ! だってまりりんたちの餌食になったら明日から学校来れないよ、陸もあたしも? ていうか、本気? 冗談? 何なの?
もう一度ふりむいたら、陸と目があった。陸、ペコッ、と音を立ててミルミルを吸い終わると、ゴミ箱にかるくシュートして、出ていった。
あれからあたし、体に血が流れてない。
「相似ってことはつまり、拡大縮小して平行移動すれば、どの放物線もこのカーブに重なるってことだ。キャッチャーが一塁へ送球するのも、噴水の水玉が上がって落ちてくるのも、ゴミのポイ捨てもな。どうだ驚いたか? もっと驚けよおまえら。ん、どうした柏木、具合悪いのか?」
鉛筆一本つかんで、あたしは教室を飛び出した。まにあいますように。走れ、あたし。笑っちゃうけど今の時間帯、電車は一時間に三本しかない。陸。ごめん陸、バカはあたしだよ、死にたい。ごめんあーやん。ごめん神さま、まにあわせて、何でもします、スクワット千回でもチョコ断ちでも、いやチョコは無理、グミなら、何言ってんだあたし。息が切れてのどが割れて血が出そう。でも教室で死ぬより駅まで走って死んだほうがいい。陸。陸がいた。向こう側のホームのベンチに座ってる。初めて見た、あんな、こわれそうな。
「陸!」
力いっぱい叫んだつもりなのに、声がかすれて出ない。メロスかあたしは。「陸!」改札を無視して手前のホームによじ登った。むちゃくちゃ手を振った。足踏みした。陸、こっち見て驚いてる。あたしは
あたしも。
地球上の放物線はみんな重なるんだって、知ってた陸? あたしに届いたんだから、陸にも届くよね? 微妙に飛距離が足りなくて、ぽてちんと足もとに落ちた紙くずを、陸は、拾おうか、どうしようか迷ってる。拾いなよお! あたしは階段に突進した。二段飛ばし。駅員さんが後ろで「あっ」とか言ってるけど知らない、後で謝る、だっていま危急存亡、天下分け目の関ヶ原なんだから意味不明。ああこれで地獄の日々が始まるのだ。まりりんたちに