目撃していない人

文字数 5,145文字

「つまり目撃者は、いや目撃していないのに目撃者というのもおかしいですけどまあいいか、その目撃者は証言を意固地にも撤回しなかったというわけですね」
 と、心の洗われる素直さの対極にある犯罪心理学者は言った。英子ちゃんの清流のような心とは違い、彼の心はさしずめ中濃ソースと言ったところだろう。
 2度づけ厳禁……と言いたいところだけど、彼に捜査協力を依頼することになるのは先月と合わせてこれが2度目だ。大阪人には顔向けできそうにない。依頼というか、今回はいつの間にか彼が協力することになっていたけれど。
「まるで証言を撤回しない方が都合がいいみたいな口調だけど」
「まるでではなくて、実際に都合がいいのですよ。込み入った事件でなければ部外者の出る幕はありませんから」
 紫木はしれっとそういうと、地面に義足と杖の金属音を軽妙に響かせながら路地に踏み込んでいった。深夜の住宅街だというのに遠慮のえの字もあったものではない。
 時刻は夜の20時ちょうど。私と紫木は昨日の約束通り、事件現場を訪れていた。周囲は真っ暗で、静まり返っている。眠らない街という表現があるけれど、その前提にある眠っている街というのはこのような住宅街を指すのだろう。
 目撃者の通った時間ぴったりに現場を見たいと紫木は思っていたようだが、その案は本人が苦悶の表情で自ら退けた。翌日は朝から講義があるらしい。学者先生も組織人。自由気ままとはいかないようだ。
 それにしても、と私は改めて現場を見渡して考える。住宅街なのだから街灯の1つもあって当然だと思っていたのだが、現場に1番近い街灯は街と一緒に眠ってしまっていた。働いている街灯はここから電柱を4本も行ったところにようやくあり、しかもついたり消えたりを繰り返している。どうも管理が行き届いていないのだろうと思えた。この地域を取り仕切るお役人は、人が1人死んでもその姿勢を変える気はないらしい。
「神園さーん」
 私があたりを見渡していると、路地の奥から手を振る紫木に声をかけられた。暗い色のスーツに同系色のコートを羽織った彼の姿はここからではぼんやりとしか見えない。
「そこから僕のこと見えますかー?」
「ううん。ぼんやりとしか見えないけど」
「じゃあそのままこっちまで近づいて、はっきり見えるところに来たら教えてください」
 そう言うと紫木は路地の左隅の方に行って何やらごそごそとやり出した。こちらからでは状況がわからないので、私はとりあえず路地の奥へ足を進めることにした。
路地の入口から歩を進めるごとに紫木の姿ははっきりとしていったが、それでも明確に姿を捉えられたのは彼から4歩と離れていないところまで近づいたころだった。紫木はいつも突いている杖を塀に立てかけ、義足になっている右足を路地に投げ出して左側に座っていた。被害者の発見された状況を再現したのだろう。
「死体を見落としたってことはなさそうですね、流石に」
 紫木はそれだけ言って、立ち上がろうとした。私が紫木に手を伸ばすと、彼は「ああどうも」と言って手をとった。
「今夜は月が出てるからまだ明るい方だけど、事件当夜は月も雲で隠れてたはずなんだよね」
「とは言っても、隣にまで近づいてなお死体を見逃すなんてことは起こらないと思いますけどね。ところで、川島刑事の裏取りはどうでした?」
「ああそれ」
 紫木が軽く手やコートをはらいながら聞いてきたので、私は自分のコートからメモを取り出しながら応じた。英子ちゃんと別れたあと、きちんと川島に確認しておいたのだ。
「結局、目撃者が目撃証言を撤回せずむしろより確信をもって主張するようになった……ってところまでは話したんだよね。あのあと川島と他の刑事がその証言が正しいか調べたのよ」
「ほう、どうやってですか」
「目撃者は飲み会から帰る途中、電車から降りてまっすぐここを通ったって言ったでしょう?だからその飲み会に同席してた人とか、目撃者と一緒に帰ったって人から話を聞いたのよ。その結果、彼が乗ったらしい時間の電車に間違いなく……時間を間違えていたとか実は乗っていなかったとかは一切なく、きちんと証言通りの電車に乗っていることがわかった」
「つまり目撃者がこの路地を通った時間を間違えている可能性はないと」
 紫木は腕組みをしながら言う。川島たちの苦労は、捜査をより困難な方向に進めてしまったのだった。
「で、どう先生は思うの?」
「ううん……確認ですけど、死体を動かしたような跡はなかったのですよね」
「そう。被害者はこの現場で殺害されてそのまま放置されたっていうのが鑑識の見解。それ以外の可能性はなさそう」
「ふうむ」
 紫木はそう言うと、腕組みをしたまま固まった。私も彼につられて腕組みをする。紫木はそのままの姿勢でぐるぐると歩き回り始めた。
「物証に誤りがないとすると、やはり目撃証言が間違っているというべきでしょうね。ただ正直なところ、なぜ目撃証言が事実と食い違ったのかを説明するのはかなり難しいですよ。証人が見たと言っているものを、実は違うのだと指摘するのは簡単です。見間違いとはいえ似たような何かを見ているのは確かですから。でも今回は見ているはずの死体を全く見ていないと言っています。一体なぜそんなことが起こるのか……あ、そういえば神園さん」
「うん?」
 独り言のように長々とつぶやいていた紫木に突然話しかけられて私は少し驚いた。彼があたりを歩き回ったために私たちの立ち位置が左右反転していた。
「今日神園さんを訪ねてきたという目撃者の娘さん、何か妙なことを言っていたのですよね?」
「ああ……お父さんの証言を信用するなってやつ?でもあれ、具体的な確証があって言ってるわけじゃないみたいだったけど」
「それでも気になりますね」
 紫木はそう言うと、眉間にしわを寄せて考え込む。彼はしばらくしてから口を開いた。
「ダメですね。なんかその話に引っかかるところがあるのですけど……うーん。もうここまで出かかっていると思うのですが」
 紫木は顔の横、目線のあたりで平手をふるふると振った。喉まで出かかっているという意味だろうが、でもそこまで来てたらもう出てると思うけど。
「はぁ……先生でもわからないか。どうしたものか」
 私は塀に体を預けると、紫木とは違う意味で考え込んだ。今後の捜査方針を決めなければならない。今取り調べている容疑者は物証だけでも立件にもっていけるかもしれない。けれどこの得体のしれない証言の矛盾がどうしても気になった。裁判になってから足をすくわれるのは嫌だった。それで苦労するのが警察ではなく検察だったとしてもだ。
「会えませんかね、その証人に」
 紫木がぽろりと洩らした。
「会いたいの?」
「ええ、直に会えば何かわかるかもしれません。その、英子さん……でしたっけ?証人の娘さんの感じている違和感の正体が気になるのですよね」
「うーん……すぐそばに住んではいるけど今晩はちょっと遅いし」
「何も今からじゃなくていいですよ。ただ、人を介して話だけを聞くより自分の目で確かめたいというだけで」
 私の発言に紫木は慌てて首を振った。学者というのは自分の興味にまっしぐらで周りの迷惑を顧みないというイメージがあるし、そのイメージはある程度彼にも当てはまるのだが、夜に突然人を訪ねない程度の良識はあるらしかった。
 真相に向かってまっしぐらという意味では、警官の方が悪質かもしれない。
「そう、じゃあ川島に言って目撃者にアポとって……」
 私がそう言いかけたとき、路地の闇の中から突然
「私がどうかしたんですか?」
 と声がかかった。私と紫木が驚いて声のした方向を振り向くと、スーツ姿でこれから帰宅しますといった雰囲気の目撃者、矢野英明が狭い道の真ん中に突っ立っていた。
「ああ……どうも」
 私が間抜けな声で挨拶し、軽く頭を下げると紫木がそれにならって会釈した。矢野もつられたのかぺこりと白くなった頭を紫木に向かって下げた。
「えっと……で、私に御用でしょうか」
「ああっと……その……」
 矢野に面と向かって問われて、紫木がしどろもどろになる。私と話すときは彼の専門のことばかりだから目立たないが、紫木は普通の会話になると途端に人見知りを催すのだった。
「えー、その。今回のですね……証言ですか。あなたの証言なのですけど……我々はですね、その、何と言ったらいいのか……」
「私たちは矢野さんの証言の正しさを証明しに来たんですよ!」
 紫木のおろおろした態度を見るに見かねて、私は彼の言葉に割って入った。私が声を上げると、矢野はこちらを見て酷く驚いた顔をした。紫木も私の発言に少し驚いた顔をしているので、彼に向けて「任せろ」の意味を込めて軽くウインクした。大まかな意図は通じたのか、紫木は疑問と安堵を表情に湛えながら矢野から1歩離れた。
「た、正しさですか?」
「ええ。実は我々の捜査の結果いろいろと新しいことがわかりました。それで是非ともあなたの証言が正しくある必要が出てきたのです。で、あなたの証言が正しいことを確かめるために我々は専門家に協力を依頼しました。それがこの方、鹿鳴館大学准教授の紫木優先生です」
「は、はぁ……」
 私が矢野に向かって適当にあることないことをしゃべり倒すと、彼は突発的な情報の洪水に圧倒されたのかぼけっとした反応を返した。紫木の方をちらりと見ると、彼はいつもの真顔でぼんやりと立っているだけだった。それは見ようによっては、底のしれない賢人の立ち居振る舞いに見えないこともなかった。
「あーと……じゃあ折角ですし、家へおいで下さい。こんな寒いところで立ち話もなんですから」
 自分の証言が正しいと、大学の先生まで引き合いに出されて言われて悪い気はしなかったのか、矢野は顔をほころばせるとそう言った。そして「どうぞどうぞ」と紫木に向かって言いながら道を真っ直ぐに進んで自宅へ向おうとした。そのとき、ずんずんと進んでくる矢野が私にぶつかりそうになり、私は慌てて脇によけて狭い道を開けた。矢野の無理やりな移動に私は少しムッとした。

 矢野の先導で彼の家へ向かう途中、紫木が「ちょっと」と言いながら小声で私に話しかけてきた。
「どうして証言が正しいなんて言うことを?」
「自分の証言が間違っているなんて言われて気分を害さない奴はいないでしょ。情報を抜き出したい奴はまず持ち上げるのが基本よ……まあ、1回川島が尋ねてるっていうのもあるんだけど。同じ理由で何度も同じことを聞かれたら嫌がるのよ、証人ってやつは」
 私も右にいる紫木へ小声で返した。身長差があるせいで内緒話がしにくくてしょうがない。
「それに僕、まだ助教なのですが。しかも任期付きの」
「助教なんて聞いたことのないポジションじゃ信用が得られないでしょ。こういうのは箔が大事なの」
「助教は信用ないですか……」
 紫木は少し肩を落とした。自分の立場の不確かさを噛み締めているのかもしれない。
「……まあでも、今のところ娘さんの言っていた変な感じというのはしないですね」
「ああ、そういえば。……でもこの人の変調って、食欲不振と怪我の頻発でしょう?この状況でそれは出てこないはず」
 路地を抜けると、昨日も訪ねたくすんだ色調の没個性的な民家が右手に見えた。玄関や窓から覗く部屋の明かりは灯っており、それが真っ暗な路地に弱々しい光を投げかけていた。矢野は敷地の入り口に陣取る両開きの門扉を右側だけ開き、わが家へと帰って行く。
「お、お邪魔しまーす……」
 門を通り抜けながら、紫木がおずおずと小声で言った。恐らく誰にも聞こえていないだろう。そんな彼の挨拶が終わるかどうかのタイミングで、前からカツンと乾いた音が響いた。
「うん?」
 私が前を見やると、矢野が左足で小さなプランターを蹴り飛ばしてしまっていた。幸いプランターには植物は植わっていなかったが、乾いた土が玄関のタイルに散らばった。矢野は気に留めていないのか、下をちらりと見ただけで玄関の戸を開いて中に入ってしまった。
 大雑把な人なのかなと私は思いながら、一応プランターの位置を直してから矢野に続いて家の中に入った。そして紫木を待とうと振り返ってみると、彼はさっき私が直したプランターをじっと見据え、立ち止まっていた。
「先生?」
 私が呼びかけると、紫木が顔をあげた。その眼には、もう先程までのおどおどした様子は一切なく、生気のない黒目が玄関の明かりを反射させながら矢野の背中をしっかりと見据えていた。
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