最終話 新しい風

文字数 6,378文字






美鈴さんの実家の居間は人で溢れかえり、わけても特に僕の母さんは、「こんなところにいなくちゃいけないなんて」といったように、イライラしている態度を隠さなかった。父さんはしかめっ面をして黙っていた。公原さんは神妙に少しうつむいている。そうして、僕たちが囲んでいるテーブルの横に、三人並んで正座をしていた。

美鈴さんのお母さんは、おどおどしながら僕の家族にも座布団を勧めたけど、母さんが「要りませんわ。すぐ帰りますから」と突っ返した。それで美鈴さんのお母さんはしょんぼり項垂れてしまい、美鈴さんの隣に戻った。

美鈴さんはずっと下を向いていて、顔を上げようとしなかった。僕は、大学時代に美鈴さんが嫌がらせを受け、それでも恐怖で下を向いていることしかできなかった彼女を思い出した。母さんは僕を厳しく睨む。

「家に帰りなさい、馨。それから、曾お爺様の銀時計はどうしたの?」

母さんはどうしてそんなことを平気で僕に聞けるんだろうと思っていた。どうしてそんなふうに僕の望みがわからないんだろう、僕の幸福を理解しないんだろうと。そして、僕はもう一度自分の心に問いを投げかけた。それは変わらず、昨晩と同じ答えを投げ返してきた。

「…帰りませんよ。僕たちは夫婦になるんです。あなたたちの家でそれができないなら、別の場所に行くまでです。銀時計は質屋のおじさんにお願いして、三日は売らないようにと約束をしてもらいました」

すると母さんは驚いて目を見開き、身を乗り出して怒鳴った。

「まあ!まさかあの時計を…質草にしてしまったのね!?あなたはそんなことをする子じゃなかったわ!」

母さんは人の家であるのも辺り構わず、喋り始めた。その顔は怒りや侮蔑に歪み、声は刺々しく場の空気を引き裂いた。

「考えてみれば大学に入ってからはあなたは変わったわ。だんだん私を疎ましそうに見るようになって、お父さんのやり方に逆らったり、公原にまで。そこにいらっしゃる美鈴さんの影響かしらね?私たちは全員あなたの幸せを考えているというのに、あなたは、夢にうつつを抜かして、現実から逃げようとしているだけだわ!」

僕は思わず立ち上がって母さんに向かって怒鳴り返そうとした。すると、脇から教授が僕の腕を掴み、凄まじい力で僕をもう一度座らせる。その後教授はゆったりとテーブルに肘をもたせ掛け、ひと口お茶を飲んだ。それから咳払いをして、教授は手のひらを美鈴さんに向ける。美鈴さんはまだ顔を伏せていた。教授は母さんを見つめて目を離さず、充分に注意を引き付けてからこう言った。

「…この女性は、とてもよい方ですよ。幼い頃に私の著書を読み解くことが出来るほどに聡明で、その私の講義を受けるためというきちんとした動機を持って、財産の少ない中をやりくりして働き、大学に入学なさった。勉強は続けたままね。学部時代の成績も非常に優秀で、講義も真面目に受けておられた。大変頭が良く、堅実で、実直で、努力家だ。それにとても礼儀正しく、しなやかな感性もお持ちです。間違ってもあなた方のように、人の家に急に押しかけてきて喚き散らすような真似はしませんな」

教授は母さんをちょっと呆れたように見つめて、最後の言葉をぼそっと付け足した。そのことに、母さんばかりか僕も赤面せざるを得なかった。母さんがここにいるだけでも気まずいというのに、この様では、僕だって恥ずかしい。でも母さんは、信じがたいというようにちょっと下を向いて首をゆるゆると振っていたけど、また怒鳴り出す。

「もう、呆れてものも言えませんよわたくしは!なんですどなたも人の家の事情を顧みずに!親の心配なんか無視してしまって!」

「親ならば、子を許してやりなさい」

教授が口を挟んだので、母さんはぎりっと教授を睨みつける。そこで、驚いたことに、父さんが口を開いた。父さんはさっきから、どうやら教授に対して怒っていたようだった。ずっと父さんは教授を睨んでいたけど、教授はそんなの知らんぷりをしていた。

「甘やかしは良くないし、間違った時には叱るのも親の役目です」

父さんはそう言って、母さんも隣で「そうよ!そうだわ!」と叫ぶ。僕は居た堪れない気分で、恥ずかしくて仕方がなかった。自分の両親が恋人の家に来て、理不尽なことを怒鳴っている場に同席するというのは、こんなにも辛いことなのか。見るのも恐ろしかったけど、ちらとだけ美鈴さんのお母さんを見ると、顔を蒼白にして、今にも泣きそうなのを堪えてうつむいている。美鈴さんは顔が見えないほど下を向いたまま、ぴくりとも動かない。

「分かりませんかな、あなた方がどのように結婚したかは存じ上げませんが、「自分たちの結婚は間違いであった」と感じたことは?覚えがありませんかな?」

その時教授はそう言ったけど、僕には今そんな質問をする必要があるのかわからなかった。父さんはやれやれと首を振り、つまらなそうに「ありませんよ」と吐き捨てる。でもそこで、思わぬ人が思わぬことを言った。


「…ないとは言いませんわ」


そう言ったのは、母さんだった。急に母さんは、教授の話に同調し、そして、ひと口ため息を吐くと、突然こんな話を始めた。


「わたくしはこの人と、この子の父親と、昔に出会いまして、結婚しましたわ。でもこの人は、あまり愛情深い人ではなかった。そう思って失望したことがあります…」

僕と父さんは凄く驚いて、母さんに目を見張る。すると、母さんはこちらをちらりと見て、少しだけ目の色を和らげさせた。

「それからこの子が生まれ、わたくしは「この子のために生きよう」と決めました。でもこの人は、仕事仕事で毎日この子にさみしい思いをさせていることを謝りもせずに、あまつさえ、この子に優しくしてくれたある方を家から追い出してしまって…はっきり言って、あの時ばかりは愛想を尽かしかけました…」

僕はその時、その「優しくしてくれたある方」というのは、「幼かった僕とよく遊んでくれていたメイドの木森さん」だったとわかった。でも父さんは、母さんが急に言い出したことにびっくりして怒ることもできずに、硬直してしまっていた。母さんは木森さんを許してくれていたんだとわかり、僕は少しほっとしたけど、今さらそれがこの場で役に立つわけでもない。それに、それがわかって、僕のためにと考えてくれているのに、母さんはどうして美鈴さんのことがわからないんだろうと、僕はいい加減焦れてしまいそうだった。

教授は小さく相槌を挟み、母さんは話を続ける。

「わたくしは迷いましたし、諦めたような気になったこともありました。でもそんなものは結婚生活の役には立ちませんし、ましてや子供にとって!母親が諦めるなんていうことは命取りになります!ですから、「父親があまり愛情深くないならせめて母親から」と思うのが当たり前です!」

そう叫んだ母さんは追い詰められているような必死の形相で、僕はそれに圧倒されてしまっていた。

「この子に結婚生活で後悔してほしくないのです!だって不安じゃありませんか!もしこの子がこの人と合わなくても、堂々と簡単に離婚ができる家ではないんです!聞けば、大学の教授志望だと言いますし、妻が教授職なんてものをしていれば、この子はきっと苦労します!…それに…」

そこで母さんは一度部屋の中を見渡した。あきらかに、この家を嫌って軽蔑しているような目で。


「それに…この人はうちの家が目当てかもしれないじゃありませんか!」


僕は我が母ながら、その言葉に虫酸が走った。だから立ち上がり、母さんたちに「帰れ!」とぶっつけるつもりだった。でも、怒りに我を忘れて加速していく僕の前を、誰かがすっと横切っていくのが、僕の目にゆっくりゆっくりと映った。


それは美鈴さんだった。美鈴さんは、僕の母さんのそばに蹲って膝をつき、そっと母さんの手を取る。母さんはその手を払いのけようとしたみたいだったけど、美鈴さんが強く握りしめたから、それはできないようだった。

僕は、二人の間に割って入るべきかどうか、一瞬だけ迷った。そのうちに、美鈴さんが小さな声で母さんに喋りかける。母さんは体と顎を引き、怖がるような表情で美鈴さんを見ていた。美鈴さんの表情は、優しかった。


「お義母さま。とお呼びするのはまだ早いかもしれませんが…。私、馨さんにとても大きな恩があります。それを返すためにも、それから、嫌がらせを受けた私を、たった一人で助けてくれた、馨さんのような、勇気があってとても優しい人の傍で、一生を過ごして和やかに暮らすためにも、プロポーズを受けました」

そこで美鈴さんは母さんの顔を頼み込むように見つめ、悲しそうな顔をした。母さんはそれを美鈴さんの言ったことに驚き、目を逸らすこともできないようだった。

「私は、馨さんと暮らせるだけで幸せなんです。私が志望する仕事に対するお義母さまの心配は、ごもっともだと思います…。今お聞きしたお話で、馨さんを守ろうとして、お義母さまがずっと必死だったことがわかりました」

母さんはもう何も言えないようだった。そしてうつむいて下を向き、片手を美鈴さんに預けたまま、美鈴さんの話を聴いていた。

「馨さんは、私が私らしく生きることを望んでくれています。私、それがとても嬉しいんです。ですから、できる限り私もきっと、馨さんの助けになれればと自分でも望んでいます。どうぞ、私たちの結婚を許して下さい」


美鈴さんはそこまでを言い終えて母さんの手を放し、三つ指をついて、母さんの前で深々と頭を下げた。母さんは強いショックを受けてしまったようにうつむいたまま呆然としていたけど、父さんと公原さんが「帰って話し合いをするから」と言って母さんを立たせて、東京に帰っていった。母さんは僕たちを振り返る時、行き場を失くしたように不安そうな顔をしていた。




その後、僕は家族の非礼を、美鈴さんと、美鈴さんのお母さんに詫びた。すると、美鈴さんのお母さんは、ちょっと下を向いて、優しく微笑みながらこう言った。

「そりゃね、いいことか悪いことかで言ったら、あまりよくないかもしれないけど…あたしもねえ、美鈴のためにがむしゃらに働いたこともあったし、…親というのはね、子供のためならなんでも敵に回すところがあるのよ…気持ちは同じだもの、あたしは大丈夫です。気にしないでね、馨さん」

「そうよ馨さん。お義母さん、ただ馨さんのために必死だっただけだもの」

美鈴さんもそう言ってくれた。僕はそれを聞いて泣いてしまって、そのまま二人に慰められていた。僕は、「何があってもこの二人だけは守ろう」と、静かに決めた。



教授はその日の間に帰ったけど、帰り際に、玄関で僕たちにそれぞれこう言っていった。

「まあ、私の役目が無くて結構だ。あの分だと大丈夫だろう」

僕はそう言う教授に、不安ながらも勇気を見せようと笑ってみた。

「美鈴君、よく勇気を出したね。君はやはり素晴らしい人物だ。お母様も、おもてなしに感謝しますぞ。それでは、失礼致しますでな」

教授はそう言ったけど、教授が糸口を見つけ出したのには違いなかった。僕たちは教授を玄関口に引き留めてお礼を言い、美鈴さんも、「改めて二人でお礼に伺わせて下さい」と言った。でも教授は首を振って、「よしてくれ。私は家に人が来るのを好かないんだよ」と、いくらかぶっきらぼうに言っただけで、一礼し、去って行った。




翌々日、美鈴さんの家に一本の電話があった。


僕たちは一緒に朝ごはんを食べたあとで、美鈴さんのお母さんは洗い物をして、美鈴さんはそれをしまうのを手伝っていた。僕はお客さん扱いでなかなか手伝いをさせてもらえなかったけど、こっそり家の前を掃いておこうと外に出ようとした時、廊下に出るドアの横にあった電話が鳴ったのだ。

「あ、お義母さん!電話です!」

僕はもう覚悟を決めていたので、美鈴さんのお母さんのことを、「お義母さん」と呼んでいた。

「ちょっと出て!今手拭いていくからねー!」

お義母さんにそう言われたので電話を取り、僕は「はい、園山の家です」と、いくらか言葉が覚束ないような気分で受け答えをした。すると電話口から、聞き覚えのある神経質そうな高い咳払いが聴こえてきた。

「…母さん…?ですか…?」

僕は途端に緊張して、受話器を持っている手が汗ばみ、ぬるつくのがわかった。心臓がばくばくと脈を打ち出す。

“美鈴さんに代わってちょうだい。二人で話がしたいから”

やっぱりその声は母さんだった。僕は電話機の横に受話器を置いて、急いでタオルで手を拭いてこちらに来たお義母さんに、「僕の母さんが、美鈴さんと話がしたいと言っています…。どうしますか…?」と聞いた。

「じゃあ、私が出る」

美鈴さんはそう言って、もう電話の方へと向かっていた。



そしてしばらくの間、美鈴さんは電話の前を動かなかったけど、やがて電話を静かに置いた。それから彼女は振り向くと、僕の元へ走って来て僕の胸に縋りつき、大声で泣き始めた。


やっぱりダメだったんだ。僕は家を出るしかない。そう思った。


僕は、頭が真っ白になりそうな不安と緊張を感じていたけど、もう決めてあったことを実行するだけだと思い、必死に自分を奮い立たせた。そして、美鈴さんの髪と背中を優しく撫でる。それでも美鈴さんは泣き止まず、お義母さんまでおどおどし始めたので、僕は手招きでお義母さんを呼んで、美鈴さんと一緒に抱しめた。二人の肩はとても小さい。

やがて美鈴さんは泣き止んだ。彼女は顔を上げると、なんと、にっこり笑った。


「馨さん、私たち、これからずっと一緒だよ」


「えっ…それって、もしかして…!」

僕はぬか喜びなんてしたくないのに、良い結果を望む気持ちの方が勝って、思わず喜んでしまった。でもそのあとで、はっとしてすぐに自分を鎮め、美鈴さんが目元の涙を指先で拭ってもう一度口を開くのを、祈る思いで見ていた。


「馨さんのお義母さんがね…「ベッドは別々の方が離婚率が低いそうよ」って。それに、ちゃんと謝りに行くからって…!」


美鈴さんがそう言った時、僕は嬉しくて嬉しくて、さっきまでの美鈴さんのように、あっという間においおいと声を上げて泣いてしまった。



僕たちは結婚を許されたのだ。僕は家族から逃げることなく、愛する彼女との結婚を歓迎されたのだ。







家に帰るのも久しぶりのような気がする。まだ一週間も経っていないけど。僕はそう思いながらタクシーで家の玄関に入り、ポーチに出ていた父さんと母さん、後ろに立つ公原さんに迎えられた。

「ただいま、父さん、母さん。それから、公原さんも」

「ああ…おかえり、馨」

父さんはどこか肩身の狭い思いをしているように、渋い顔でそう言った。公原さんはいつもと変わらない冷淡な声で、「おかえりなさいませ、若様」と言って礼をする。すると、自分の番が待ち切れないようにずっともじもじとしていた母さんが、僕に飛びついてきた。

「おかえりなさい、馨!心配したのよ!それでねえ、相談事があるのよ。美鈴さんのことなんだけど、彼女はお作法は大丈夫なのかしら?先生をつけましょうか?お部屋はどこがいいかしらねえ?ベッドもどうしたらいいかわからないし。ねえ、お爺様が使っていたベッドがあるでしょう?あれはどうかしら?」

母さんが玄関口でそんなことを早口でまくしたててきたので僕はびっくりしたけど、思わず吹き出してしまった。それを見て、母さんは「なあに?どうして笑うの?」と不思議がっている。

「変わりませんね、母さん。でも、それは僕じゃなくて、美鈴さんが来てから彼女に聞いて下さい」

僕が笑ってそう言うと、母さんは自分があまりに慌てていたことに気づいたのか、急に恥ずかしそうに周りをきょろきょろ見ながら「まあ、そうだったわね」なんて言って笑っていたけど、その顔は、引きつった皺のない、素顔に見えた。








End.
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