十四

文字数 1,722文字

 数日間、雨が降り続いた。今、テツヤの中で何かが壊れようとしている。古井戸から顔を覗かせる感情の正体に気付かない振りをするのに疲れた。あの日以来、ミライとは一緒に寝ていない。ミライはテーブルに頭を乗せ、こっくりと眠っている。小さな丸い背中を見ていると胸が締め付けられる。心に血が滲むようだ。自分は生きる価値の無い男だ。たった一人の女を幸せにしてあげることすらできない。ミライの心は酷く傷ついたはずだ。
 しばらく会社を休むことにした。上司からは怒鳴られたが、そんなことはもうどうでもよかった。熱を測ると三十七℃を少し超えた程度ではあったが、体がとてもだるかった。急に雨が続き、気温の変化のせいもあったろうが、それだけでは無い。それでも、しばらく何も食べていなかったせいか空腹を覚え、冷蔵庫の中身が空だったので外に出た。雨が止み、外は夕闇に包まれそうである。背筋に悪寒が走った。部屋を出てすぐ、コンクリートの廊下を歩いている時に、テツヤは枯葉を踏んだ、と思った。しかしよく見ると、それは蝉の死骸だった。粉々に潰れ、羽根以外はそれとはわからない。鳥肌が立った。熱が上がっていた。
 通りは家路を急ぐ車で渋滞していた。帰宅途中のサラリーマンとすれ違う時、心はなぜか安らいだ。これから行く先が地獄への一本道であったとしても、構わなかった。甲州街道を渡り、少し歩くと京王線の踏切がある。足が無意識に電車の音がする方へと吸い寄せられた。脇道を、車が轍に溜まった雨水を弾きながら通り過ぎて行く。クラクションが鳴る。冷たい汗が腋をつたった。汗に濡れた髪が額に貼り付いた。鼓動が荒くなり、肩で息をし始める。またミライの幼い頃の不遇を、縫い物でもするかのように丹念に想像してしまう。小さくて弱い存在だと感じれば感じるほど、心は疲労し、赤黒く内出血を起こす。踏切の前まで来た時、京王線の特急電車が通過した。ふと、その先の道路脇に視線がいった。そこには白い花束が据えてあった。透明なカップ酒の瓶に数本、花びらが黒く泥で汚れたまま揺れている。顔が急に火照った。すっと風が吹くと、一瞬地面が揺れ、導かれそうになった。グッと堪えた。二本目の電車が勢いよく通過した。自然と涙が頬をつたった。罪の意識は、錆びついて食い込んだら抜けることの無い、反しの付いた針だった。
 その日の夜、一人歩いて帰宅したが酷くうなされた。体が硬直し、両腕が痺れて動かない。ミライが必死にだらりと垂れた腕を擦ってくれた。しかし、テツヤの遠くを見るような目には何も映っていない。震えがくると、歯と歯がぶつかり合った。額に手をやった。
「すごい熱・・・・・・」
 朦朧として呻き、口の端から涎が垂れた。意思とは無関係に頭の中が動き出す。体と意識とが分裂して行くのがわかる。ミライの声は聞こえているが、届かない。うっすらと白い膜に包まれ、死を考えていた。願望? いや、青ざめて命乞いしている自分の姿が見える。二人の相反する自分が混在しているようだ。どちらの意識に行動を左右されるかわからない。恐ろしかった。死ぬことが? いや、生きながら、意志をコントロールできないことが。口を開け、天井ばかりを見ていた。
「ちょっと、しっかりして! 一体どうしたというの? すぐに救急車呼ぶから!」
 無意識に、ミライが立ち上がろうとするのを制止した。何かを伝えようとしたが、言葉にならない。まるで何かに憑依されたかのように、体と意思が効かない。ミライが用意してくれた水を飲むと、急に体の力が抜け、再びベッドに倒れ込んだ。ミライが髪に手を触れ、悲鳴にも似た声をあげた。髪が硬直し、毛先が白くなっていた。脳裏に踏切の白い花が思い浮かぶ。胸が締め付けられ、嘔吐が喉の奥まで込み上げた。もう、耐えられなかった。自分の正直な気持ちを告白せずにはいられなかった。それを聞くと、ミライはしばらくの間うつむき、肩を震わせ、まるで予期していたかのように二度、三度と頷いた。
「やっぱりね。わかっていたの。いつかあなたにそう言われるんじゃないかって」
 それを聞くと、ミライの気持ちとは逆行するように、心が軽くなった。雲の切れ間のようにぽっかりと穴が空いた。
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