▶▶▶序幕:残夏の悲鳴/4~7

文字数 16,770文字

             4

 バスが向かっているという岡山県が何処にあるのか。
 自分たちは何に巻き込まれてしまったのか。
 七歳の少女の頭で、十全に想像出来るはずもない。背後にフードの女の気配を感じながら、ただひたすらに恐怖に耐えていた。開放されるその時を待っていた。
 乗客の両手が結束バンドで拘束され、三列目の座席に、荷物によるバリケードが作られて以降、車内には変化らしい変化が起きていない。何度かバスが路肩に停められ、乗客の拘束状態が確認されたが、車内アナウンスが流れたのは、その時だけだった。
 もう何時間も走っているのに、まだ岡山には着かないんだろうか。
 数十分前に肩を二回叩かれ、アイマスクを外すと、おにぎりと水が差し出された。
 食事をしろという意味だと分かったけれど、夕方まではトイレに行けないことを思い出し、水を一口含んだだけでやめてしまった。恐怖と緊張で、お腹が空いているのかもよく分からなかった。
 アイマスクを取った時、時刻は既に午前九時を回っていた。
 バスに乗車する前、詠葉は母親から、六時頃、東京に到着すると聞いていた。岡山が東京よりも遠い場所にあるのは間違いなさそうだった。

 最初にバスから降ろされた男の人たちは、あの後どうしたんだろう。
 降りるタイミングで幾つか注意事項が告げられていたが、誰かに話すことは禁じられていなかった。きっと自由になった後で、バスがジャックされたことを警察に話したはずである。すぐに偉い人たちが助けに来てくれるはずだ。だけど……。
 このバスには爆弾が仕掛けられている。
 赤く点滅していた箱の中に、本当に爆弾が入っているかなんて分からない。フードの女が嘘をついている可能性だってある。でも、真実は分からないのだ。
 何も起こらなければ、夕方には解放されるという。だったら、このまま我慢した方が良いんじゃないだろうか。
 自分たちさえ耐え切れば、誰も怪我をせずにバスから降車出来る。
 何も起こらないで欲しい。早く目的地に着いて欲しい。

 アイマスクで作られた闇の中、詠葉は眠りに落ちていた。
 夢の中で、詠葉は母と、久しぶりに会う父と一緒だった。
 遊園地で走り回る詠葉を、母と父が笑顔で追いかけてくる。
 何を喋っても怒られない。何処へ向かうのも自由。
 次はどのアトラクションにしよう。どんな風に笑おう。
 考えるだけで胸が高鳴ったのに。
 不意に、工事現場のような機械音が鼓膜に届き、現実へと引き戻された。
 これは何の音だろう。ドリル? 何かが回転しているような……。
 目を開けたはずなのに、視界は闇に包まれたままだった。
 思い出す。自分は今、人質にされていて目隠しを……。
 それを思い出した直後のことだった。後ろから伸びてきた手によってアイマスクが外され、眩しいくらいの光が網膜に飛び込んできた。
 おにぎりと水の入ったペットボトルが腿の上に置かれる。
『後で君に協力してもらいたいことがあります。おなかが空いて倒れないよう、ご飯を食べてください。』
 メモが差し出されたが、食欲なんて湧かなかった。
 次は何をやらされるのだろう……。
 前方、カーテンの隙間から、ヘリコプターが飛んでいるのが見えた。聞こえていた回転音は、プロペラの音だったのだ。警察が助けに来てくれたんだろうか。
 形状や色の違うヘリコプターが頭上に二機、いや、三機飛んでいる。
 デジタル時計は午後二時を示している。どうやら五時間ほど眠っていたらしい。
 申し訳程度に口をつけ、おにぎりを腿に置くと、後ろから伸びてきた手によって、再びアイマスクを着けられた。
 隙間からわずかに太陽の光を感じるとはいえ、これでは何も見えない。また、暗闇の中で耐えなければならないのだ。
『皆様にお知らせします。ただいまの時刻は午後二時。解放まではあと数時間です。もうしばしの辛抱をお願い致します』
 不意に運転手による車内アナウンスが始まった。
『これから全員に一度、座席を移動して頂きます。肩を叩かれた方は席を立って下さい。服を引っ張って誘導しますので、再度、肩を叩かれた場所で着席して下さい』
 どうやら乗客たちは座席を変えられるらしい。
 母が近くの席に来てくれたら良いのに。そう思ったけれど、目隠しされている状態では、母の移動先も確認しようがなかった。

 それから、どれくらいの時間が経っただろう。
 詠葉が再びまどろみ始めたタイミングで、運転手による車内アナウンスが始まった。
『長らくお待たせ致しました。これからバスは岡山県倉敷市に向かいます。警察がこちらの指示通り、瀬戸大橋を封鎖していれば、橋の途中で一人ずつ解放します』
 瀬戸大橋という名前は聞いたことがあった。確か去年完成したという巨大な橋である。ニュースで見た記憶もある。その橋の上で、自分たちは解放されるらしい。
 ここから橋までは、どのくらいかかるんだろう。
 早く自由になりたい。
 お父さんに会いたい。お母さんに抱き締めて欲しい。

 頭上のヘリコプターも同時に移動しているのか、バスが走り始めても、プロペラ音は消えなかった。
 アイマスクを外されていた間、バスの脇を通り抜けていく車を一台も見なかった。『瀬戸大橋を封鎖』と言っていたけれど、道路も警察が封鎖しているのかもしれない。遠く、ガードレールの向こうに、カメラのような物を持っている人間たちも見えていた。
 今更ながらに気付く。頭上に飛んでいたヘリコプターは、きっとテレビ局のものだ。
 この事件は既に大きなニュースになっているのだろう。

 瀬戸大橋にバスが入ったのは、午後五時過ぎのことだった。
 目的地に到着したことが運転手によってアナウンスされ、アイマスクが外される。
『君に幾つかお願いがあります。喉が渇いていたら水を飲んでください。』
 背後からメモとペットボトルが差し出された。
 これ以上、犯罪者の手先になりたくなかったが、抵抗なんて出来るはずがない。トイレを我慢しなければならないのも、あと少しだ。さすがに空腹も覚えている。渡されたペットボトルの水を半分ほど飲むことにした。
 自分には時折、食事が与えられているけれど、ほかの乗客は両手を背中の後ろで拘束されているから、水さえ飲めていないはずだ。母の体調も心配だった。
 誰もいない橋の上を、たった一台のバスが走っていく。
 空を飛ぶヘリコプターの数が、高速道路で見た時より倍以上に増えていた。
 緩慢なスピードで、どれくらいの距離を進んだだろうか。
 バスが停まり、車内アナウンスが始まった。
『解放に際して、全員に靴を脱いで頂きます。これから回収に参ります』
 靴を脱いでもらう? どうして、そんなことをしなければならないんだろう。
 不安を覚えた詠葉の眼前に、メモが提示された。
『全員の靴をドアの前に集めてください。君は靴を履いたままで大丈夫です。』
 従う以外に選択肢はない。フードの女に背中を押され、立ち上がる。三列目に積まれていた鞄が両脇に寄せられ、真ん中を通れるようになっていた。
 一人ずつ靴を脱がせ、指定されたドアの前に置いていく。
 アイマスクをしていても、娘だと分かったのだろう。靴を脱がせると、母は詠葉だけに聞こえる声で「絶対助けるから」と呟いた。
 フードの女は、この橋の上で皆を解放すると言っていた。
 おかしなことはしない方が良い。あと少し我慢すれば自由になれるのだ。
 運転手の靴も脱がせた方が良いのだろうか。乗客の靴を集め、席に戻った後で、そんなことを思ったけれど、フードの女からは何の指示も与えられなかった。
 靴を集め終わると、バスのドアが開けられ、再びメモ用紙が目の前に提示される。
『バスの外に出て、周りに誰もいないか確認してください。誰もいなければ、好きな靴を左右ばらばらに8つ選んで、海に捨ててください。それから3列目に積んである荷物を3つ取って、中身を海に捨ててから、鞄も海に捨ててください。』
 靴と鞄を海に捨てる? 本当に訳が分からなかったが、言われた通りに動くしかない。
 バスから降りて、十数時間ぶりに外の空気を吸う。
 斜陽が眩しい。潮の匂いが鼻をついた。
 指示通りバスの周囲を確認すると、頭上のヘリコプター以外に見える物はなかった。先ほど聞いた通り、この橋は警察が封鎖しているのだ。
 バスに戻り、ドアの前に集めてあった靴を八つ選び、順番に海に投げ入れていく。
 次は鞄だ。一つずつチャックを開けて中身を海にばらまいてから、鞄も投下した。
 ……本当に、こんなことに何の意味があるんだろう。
 疑問に思いながらバスに戻ると、フードの女も裸足になっていた。
 ペディキュアなんて名前だっただろうか。女の足の爪は青く塗られていた。

 詠葉が作業を終え、動き始めたバスだったが、一分ほど走ったところで再び停車する。
 もう一度、靴を八つと鞄を三つ海に捨てるよう指示が与えられ、バスの扉が開いた。
 同様の作業は、場所を少しずつ移動しながら、五回ほど続いた。
 五度目の停車で、靴は最後の一足まで海に投げ捨てられたが、鞄はまだかなりの数が残っている。残りはどうするんだろう。
『最後の指示を伝えます。これから人質の子どもが、結束バンドを切っていきます。全員の拘束を解いた後、乗客の名前をイニシャルの順に読み上げますので、呼ばれた方はそのタイミングでアイマスクを外し、下を向いたままバスから降りてください』
 イニシャルというのは何だろう。詠葉の疑問に答えるように、運転手の説明は続く。
『イニシャルが分からない方もいるかもしれません。反応がない場合は、飛ばして次の乗客の名前を読み上げます。最後まで読み上げた後で、反応がなかった乗客を、今度は名前でお呼びしますので、そのタイミングで降車して下さい。イニシャルは名前、苗字の順に読み上げます』
 どうやらイニシャルの意味が分からない自分の降車は最後になるらしい。
『バスから降りる際、三列目に置かれた自分以外の荷物を一つ取って下さい。降車後に中身を海に捨て、鞄も海に投げ込んで下さい。その後、バスの真横で動かずに待機して下さい。百メートルほどバスを進め、次の方の名前を読み上げます。全員が降車し、バスが瀬戸大橋を渡り終われば救助が来ます』
 長かった。本当に長かったけれど、ようやく解放されるのだ。
『バスの様子はテレビ局のヘリコプターによって中継されており、仲間が監視しています。誰か一人でも指示に背く方がいれば、爆弾が起動します。これで、すべてが終わります。最後まで指示に従って下さい。繰り返します。最後の指示を伝え……』
 運転手がアナウンスを繰り返し始めたタイミングで、後ろからメモが差し出された。
『アナウンスが終わったら、このハサミで全員の結束バンドを切ってください。』
 既に十五個の鞄を海に捨てている。バリケードはもう機能していない。
 乗客を自由にするつもりがないなら、拘束は解かないだろう。

 渡されたハサミを手に、乗客の手首を拘束する結束バンドを切っていく。
 母の結束バンドを切ると、次の瞬間、自由になった両手で抱き締められた。
 懐かしい温もりに泣きそうになったけれど、まだ、仕事は終わっていない。優しく背中を押され、次の乗客の下へ移動した。
 全員の拘束を解き、最前列に戻ると、再びメモが差し出された。
『これが最後の指示です。君の仕事は終わりました。アイマスクをつけて、最後まで私とバスに乗っていてください。バスが橋を渡り終わったら、君は自由です。』
 どうやら自分は、ここでは解放されないらしい。それでも、この悪夢のような時間の終わりが近付いていることは確かなようだった。
 メモを読み終わると後ろからアイマスクをつけられた。
 それから、運転手により一人目の名前が読み上げられる。イニシャルというのは英語のことなのだろうか。短いアルファベットが二つ聞こえ、すぐに隣の通路を誰かが過ぎ去っていった。今度こそ、本当に全員が解放されるのだ。

 四人目に名前を呼ばれた乗客は、詠葉の隣で足を止めた。
 お母さんだ! 瞬時にそれが理解出来たけれど、同時に恐怖も覚えた。
 言うことを聞かなければ駄目だ。バスが爆発するかもしれない。
 構わないで早く降りて!
 詠葉の懇願が通じたのか、やがて足音が遠くなっていった。
 それで良い。これで良い。もうすぐ、ちゃんと会える。
 おかしなことをしてバスが爆発するより、置いていかれた方がずっと良い。
 今まで我慢したのだ。あと少しくらい我慢出来る。

 乗客の中に、詠葉よりも小さな子どもはいなかった。
 イニシャルというものが何なのか理解出来なかったのも、詠葉一人だったらしい。
 最後まで運転手が乗客の名前を読み上げることはなかった。
「今の方で最後です」
 運転手の呟くような声が聞こえた後、バスは再び橋の上を走り始めた。

 最後の乗客が降りてから、バスはどれくらい走っただろう。
 やがてエンジンが止まり、誰かが車内に駆け込んでくる音が聞こえた。
 何が始まるのか。恐怖に身体が強張った次の瞬間、詠葉はアイマスクを外されていた。瞼を開けると、目の前に同じ服を着た男の人たちが沢山いた。
 そのまま腕を引かれ、バスの外へと降り立つ。
「詠葉!」
 その名前を叫んだのは、東京にいるはずのお父さんだった。
 駆け寄ってきたお父さんに、強く、きつく、抱き締められる。
「良かった! 無事で良かった!」
 眩しいくらいのフラッシュがたかれていた。
 自分たちの周りを、大勢の大人たちが囲んでいる。テレビカメラやマイクのような物も見えた。
「お父さん……。お母さんは?」
「無事だ。今、警察が橋の上に向かった。頑張ったな! もう心配いらないからな!」
 我慢して良かった。本当に誰も死なずにすんだのだ。
 早く、今すぐ、お母さんに会いたい。
 犯人は、あのフードの女は、捕まったんだろうか。警察らしき人たちに囲まれ、バスの運転手が連れて行かれたけれど、フードの女の姿は見えなかった。
 今度こそ本当に、すべてが終わったのだろう。
 その時、詠葉はそう信じていたし、実際、瀬戸内バスジャック事件の幕は、機動隊がバスに乗り込んだ瞬間に下りたと言って良かった。
 しかし、実のところ七歳の少女を襲う『悪夢』は、まだ始まったばかりだった。
 三好詠葉がそれに気付くのは、もう少しだけ先の話になる。

             5

 後に『瀬戸内バスジャック事件』と呼称されるその事件が、戦後最大の未解決事件として記憶されることになった理由は幾つかある。
 ただ、最大の要因は、十機以上のヘリが空撮を続けていたにもかかわらず、実行犯の女が現場から忽然と姿を消したことで間違いないだろう。
 全長一万メートル弱の瀬戸大橋を渡り終え、香川県坂出市で停まったバスから運転手が降りた直後に、待ち構えていた機動隊が車内に乗り込んでいる。しかし、バスの中に残っていたのは、七歳の少女、三好詠葉だけだった。
『最後まで私とバスに乗っていてください。』
 あの日、詠葉はそのメモを読んでから、機動隊が乗り込んで来るまで、アイマスクをつけていた。バックミラーは機能しておらず、運転席の横には、運転手の視界を遮るための垂れ幕が下げられていた。乗客は一人ずつ降車したはずだが、フードの女が共犯者と一緒に降りていたとしても、詠葉や運転手には分からなかっただろう。
 とはいえ、出入り口は、たった一つの扉だけであり、十機以上のヘリコプターが現場を空撮していた。人質の降車が始まったのは夕刻であり、日も暮れかけていたが、乗客と一緒に犯人が降りていれば、その瞬間の映像が残っているはずだ。床に穴を開けて這い出したとしても、窓から降りていたとしても、空撮の目を逃れて隠れるなど不可能だ。
 現場の橋は、入口も出口も封鎖されていた。逃げ場所は海しかない。空撮の目を逃れてバスから降車し、海に飛び込むなんて、果たして可能だろうか。仮にそれが出来たとしても、警察が海上に人員を配置していたわけだから、逃げおおせたとは思えない。

 事件後、三好詠葉には連日、事情聴取がおこなわれた。その場で詠葉は一貫して、犯人が母より少しだけ背の高い女だったと供述した。
 声は聞いていない。顔も見ていない。だが、性別だけは確かだ。フードから長い髪が覗いていたし、裸足になった足には青いペディキュアが施されていた。
 運転手は詠葉ほど詳細に犯人像を把握していなかったものの、同様に「大人の女だと思う」と証言したらしい。
 車内から犯人が発見されなかったことで、逃亡ルートは単純に二つに絞られた。
 一、何らかの方法を用い、空撮の目を逃れてバスから降車し、海に消えた。
 二、乗客の中に紛れ込み、人質の一人として救助された。
 状況に鑑みれば、可能性が高いのは断然、後者に思えたし、実際、警察もその方向で調査を開始した。しかし、詠葉や運転手の証言を元に、最初に容疑者候補となった七名の女性には、いずれも調査の過程で、犯人とは成り得ないとの判断が下る。
 バスジャックの発生から、それほど間を置かずに、乗客は目隠しをされ、座席を移動させられている。とはいえ目隠しをされていても周囲の気配くらいは分かる。前後に座っていた乗客の証言により、警察は七名全員について、単独犯としては容疑者に成り得ないとの結論を下すことになった。警察に付き添われる形で、詠葉も七人の女性と面談したが、どの人物に対しても、フードの女であるとの確信を抱くことは出来なかった。
 警察は事件当初から、犯人が複数名いると考えていた。
 警察やマスコミに対し、事件当日に消印のない手紙が届けられていたからである。
 だが、あくまでもそれはバスの外に共犯者がいたことを示唆するだけの事実であり、車内をコントロールしていた実行犯の人数を断定する材料にはならなかった。
 犯人を間近で目撃していた詠葉と運転手も、それ以外の乗客も、犯人は一人だったと思うと証言している。しかし、仮にバスの中に複数の犯人がいたとすれば、あらゆる可能性が生まれるだろう。単独犯としての容疑者候補が消えたことで、真相は混迷の渦中に飲み込まれていった。
 衆人環視、国民がテレビの前で、固唾を呑んで顛末を見届けた事件である。
 誰もがすぐに犯人が逮捕されると思っていた。
 だが、一週間が経っても、二週間が経っても、犯人は特定されなかった。

 バスジャックの発生は、未明に解放された男たちの通報によって発覚している。
 しかし、警察が情報を統制するより早く、事件はマスコミ各社も把握していた。
 午前中の早い時間帯に、犯行声明が各社に届いていたからだ。消印のないその手紙には、岡山への進路変更と各地点の予想通過時刻が記されており、キー局各社はカメラを持って、現場へと急行することになった。
 バスが封鎖された瀬戸大橋を渡ること。警察が指示に従わなかった場合、バスを爆破すること。すべてがマスコミに伝えられており、最初から最後まで警察は情報を統制することが出来なかった。

 事件より一ヵ月後、一つの真相が明らかになる。
 当日の早い時間に、犯行声明を配って回った人物が、一人のホームレスであったことが、警察から発表されたのだ。
 ホームレスは事件の二日前に報酬を渡され、手紙の中身も知らないまま、仕事をこなしただけだった。彼は自分が届けた手紙が、大々的に報じられていたバスジャック事件と関係していたことにすら気付いていなかった。依頼時、犯人はマスクを着けており、フードを深く被って、筆談で指示をおこなってきたらしい。ホームレスが語った犯人の特徴、性別は、詠葉や運転手が語った犯人像と変わらないものだった。
 その後、海中の捜索により、詠葉が車内で目撃したと思われるナイフが発見されたが、それは刃が引っ込むおもちゃのナイフだった。バスに爆弾が仕掛けられていなかったことも、詠葉が助けられた直後に判明している。
 すべてがフェイクだった。フードの女は、初めから誰も傷つけるつもりなどなかった。
 ただ、誰もが彼女の言葉を信じ、恐怖に支配された結果、最後まで全員が犯人の手の平の上で踊らされることになってしまった。
 国民が見守る中で起きた、前代未聞の未解決事件である。やがてマスコミ主導の犯人捜しが始まった。
 当初、誰よりも強く疑いの目を向けられたのは、バスの運転手だった。
 彼は最初から最後まで拘束を受けず、目隠しもされなかった唯一の人物である。警察の中にも共犯者として疑う者は多かったらしい。七歳の少女が人質に取られていたとはいえ、彼ならば隙をついて犯人の女を捕まえることが出来たのではないだろうか。それをしなかったということは、つまり、そういうことではないだろうか。
 悪意は手の届かない場所で肥大化する。
 正義面したマスコミは、低俗な好奇心から運転手の過去を暴き立て、当日の行動を非難され続けた彼は、ほどなく退職する。

 運転手に次いで非難の的となったのは三好詠葉だった。
 乗客の両手を拘束したのも、目隠しをしたのも、詠葉である。
 その上、犯人の傍に長時間いたにもかかわらず、顔も、正体も、分からないという。
 さすがに七歳の少女を共犯者として疑う声こそ少なかったものの、非常識な取材攻勢を受け、詠葉のプライベートは殺される。
 少女の心は弱く、脆い。
 事件の記憶だけでも苦しいのに、過熱する報道、容赦なき取材は、やがて詠葉の心と身体を蝕んでいった。
「お前が犯人なんじゃねーの」
 男の子たちは冗談で言っているのかもしれない。
「詠葉ちゃんのせいで犯人が捕まらないんじゃないの?」
 女の子たちだって悪気があって言っているわけではないのかもしれない。
 それでも、耐えられなかった。
 あの日のことを思い出すだけで背筋が凍りつくのに。終わらない報道と取材のせいで、記憶を頭から追い出すことが出来ない。同級生たちの心ない言葉が、耳の奥で鳴り止まない。積み重なるように、痛みは増していくばかりだった。

 触れられるほどに近い距離で犯人と接したのは、詠葉一人である。
 自分が喋った言葉に、大人たちが振り回されている。
 自分が喋った言葉が、テレビや新聞で大袈裟に報じられる。
 何もかもを正確に覚えているわけじゃない。
 消えない恐怖とは裏腹に、あの日の記憶は、どんどんあやふやになっていく。
 間違ったことを喋っていたら、どうしよう。
 嘘なんてつきたくないのに、結果的に嘘をついてしまっていたら、どうしよう。
 怖い。自信がない。喋りたくない。もう何も話したくない。
『君がしゃべったら、みんな死にます。』
 最初は犯人からの命令だった。もう、その命令下にはないはずなのに、友達や先生と喋ることにさえ恐怖を感じるようになっていた。両親にすら思っていることを話せなくなっていた。
「何で喋らないの?」
「本当は犯人の一人だから、喋れなくなったんじゃないの?」
 棘のある言葉に心が怯み、次第に学校からも足が遠のいていく。

 事件から一年が経つ頃、詠葉は完全に喋れなくなっていた。
 最初は自分の意思だった。何も話したくないから、口を閉ざしていた。
 だが、今は望んでも声が出てこない。喋り方を思い出せない。
『緘黙(かんもく)症』それが医者の診断だった。
 精神的に追い詰められたことで、詠葉は言葉を失ってしまったのだ。

 診断から半年後には、学校にも通えなくなっていた。
 答えたいと思っても、声が出てこない。
 話しかけられているのに、視線は交錯しているのに、無視したみたいになってしまう。
 友達だった子たちまで詠葉から離れていってしまった。

 小学三年生になってからは、一日も学校に通っていない。
 そんな詠葉を両親は責めなかった。
 分かるから。何が詠葉を追い詰めてしまったのか、あの事件に巻き込まれた母親には痛いほど分かってしまったから。娘に負担をかけるような言葉は口に出来なかった。
 娘が学校に行きたくないなら、その気持ちを尊重してやりたい。どれだけ親族に責められても、担任や教頭に登校を促すよう迫られても、両親は詠葉に無理強いしなかった。

『瀬戸内バスジャック事件』は、複数の人間が共同して、凶器を示し、人質に第三者に対する義務のない行為を強要した事件である。人質による強要行為等の処罰に関する法律、第二条と、事件の社会的な影響を鑑み、公訴時効期間は十年と決定された。
 事件の後、詠葉と運転手の顔と名前は、何度もテレビに登場した。
 時が流れ、成長したとはいえ、外に出れば、すぐにあの時の少女だと気付かれてしまう。犯人の手先になった少女だと、皆が指を差してくる気がした。
 学校に通えなくなった後、詠葉はひたすら家の中に引きこもるようになった。
 どうして、こんなことになってしまったんだろう。
 自分の何が悪かったんだろう。
 答えが見つかるはずもない問いの前で、詠葉は苦悩する。
 時が流れ、事件のことを世間の人々が忘れ始めても、あの日のバスジャックは、三好詠葉の中で結末を迎えてなどいなかった。

             6

 瀬戸内バスジャック事件から三年後、一九九二年の夏。
 美しい顔をした背の高い青年が、やはり若い男に伴われて三好家に現れた。
 青年の顔には見覚えがあった。あの事件の後、警察の捜査に協力するため、詠葉は解放された乗客たちと何度か会っている。その時に見た男だった。
 深夜にバスから解放されたのは、成人男性のみである。未成年だった四人の少年は女性陣と共に人質となっており、瀬戸大橋の上で解放されている。ラフな格好で現れた目の前の青年も、その内の一人だった。
 当時は高校二年生だったはずだから、今はもう二十歳くらいだろうか。青年と共に現れたスーツ姿の男も二十代に見える。
 両親と共に詠葉が二人の前に座ると、スーツ姿の男が口を開いた。
「私は論講社の文芸第三出版部で編集者をしている宇井善之と申します。彼、舞原詩季君の担当編集です。三好詠葉さん。詩季君のことを覚えていますか?」
 嘘をつく理由はない。詠葉が頷くと、宇井は小さく笑みを浮かべた。
「それは良かった。話が早くて済みます」
 詠葉が目の前の青年のことを、年齢まで含めて覚えていたのは、彼がある意味、特殊な人間だったからだ。
「詠葉さんは詩季君が小説家であることも知っていましたか?」
 再び、頷く。
 そうなのだ。彼は高校生でありながらプロの小説家だったのである。綺麗な顔立ちもさることながら、その経歴に驚き、今日まではっきりと記憶していた。
「では、説明は不要かもしれませんが、最初に少し紹介させて下さい。詩季君は十六歳で小説家としてデビューしています。年齢からは想像もつかない卓越した筆力があり、デビュー後すぐに人気作家となりました。しかし、それから一年も経たないうちに、あの事件が起きた。ご存じの通り、あのバスに詩季君も乗っていたのです」
「小説家の先生が乗っていたことは警察に聞いています」
 父が話に割って入る。
「詠葉に何の用事でしょうか? あの事件は、この子の心に大きな傷痕を残しました。宇井さんは緘黙症という病気をご存じですか?」
「いいえ。申し訳ありません。不勉強です」
「今、詠葉は声が出せないのです。もう随分と長い間、学校にも通っていません。お願いします。この子に、いたずらにあの事件のことを思い出させないで欲しい」
 二人が顔を見合わせる。それから、口を開いたのは舞原詩季の方だった。
「詠葉さん。あの事件から三年が経ちました。ですが、今でも僕は忘れられずにいます」
 高くも低くもない、穏やかで透き通るような声だった。
「ことあるごとに、あの日、覚えた恐怖を思い出してしまうんです。どうして忘れられないのか、その答えがようやく分かりました」
 忘れられないことに答えがある……?
「それは、あの事件が終わっていないからです。事件が解決していないから、詠葉さんも、お母様も、僕も、いつまでも巻き込まれてしまった犯罪に悩まされる」
 言っていることは分かる。その通りかもしれないとも思う。
 でも、そんなことを言ったって、どうしようもない。警察は全力で捜査したはずだ。だけど、分からないままだった。誰が犯人なのか、どうやってあのバスから消えたのか、そもそも何のために、あんなことをやったのか。何一つ分からないままだった。
「告発の物語を書きました。あの日、バスの中で何が起こり、最終的に犯人が何処へ消えたのか。真相を物語にしました」
「どういうことですか? 犯人の正体は誰にも……」
 戸惑いを隠せないまま母が問う。
「ええ。犯人は分かっていません。詩季君も作中で犯人は特定していない」
 編集者の宇井が鞄から取り出したのは、プリントアウトされた原稿の束だった。
「ここに一つの真相が提示されています。あの日、犯人はどうやって姿を消したのか。封鎖されていた瀬戸大橋から、どうやって逃げたのか。詩季君は作中で解き明かしています。もちろん、すべて頭の中で組み立てられた仮説に過ぎません。しかし、この作品を読めば、これしか方法がなかったと誰もが思うことでしょう。これは被害者が書いた真実を暴く物語なのです。私たちはこの作品を通して世に問いたい。事件で心に傷を負ったすべての人を、この告発の物語で救いたい。私はあの事件の最大の被害者が、詠葉さんとバスの運転手だった延岡さんであると考えています。だから、ここに来ました」
 事件後、運転手の延岡は、何度も警察に事情聴取されている。実際、今でも彼のことを疑っている人間は多いし、そういう筋書きのルポルタージュが発売されたこともある。
 だけど、真相は違う。運転手は乗客を守るために、仕方なく犯人に従ったのだ。
 あの日、延岡はそうするしかなかった。一番近くで見ていた詠葉はそう信じている。だが、そんなことはバスに乗っていなかった人間たちには分からない。
 運転手が犯人の要求を呑んだから、あんなことになったのだ。そう批判する人間は沢山いた。テレビの中で、安全な場所から、何も知らないくせに、あの恐怖を体験していないくせに、好き勝手にのたまう有識者、ご意見番気取りの芸能人が沢山いた。
「お二人の許可を得ない限り、この小説は出版出来ない。それが編集部の総意です。既に延岡さんには読んで頂きました。そして、どうか真実を世に知らしめて欲しいとの声を頂いております。事件のことを娘に思い出させないで欲しい。ご両親のお気持ち、重々承知しております。しかし、私はこの作品が、疑いの目を向けられた乗客を救う物語であると信じています。どうぞ、先にお父様とお母様でチェックして下さい。それからで構いませんので、どうか詠葉さんにも読んで頂きたい」
「しかし、娘はまだ十歳で……。事件の告発なんて……」
「懸念されるのも分かります。ですが読んで頂ければ分かります。これは、お嬢様を救う物語なんです」
 宇井の表情は真剣そのものだった。
 詠葉が立ち上がると四人の視線が突き刺さる。
「こんな話、もう聞きたくないよな?」
 心配そうな顔で父が尋ねてきたけれど……。
 サイドボードに置かれていたノートを取り、
『読んでみたいです』
 迷うことなく、詠葉はそう書いていた。
 あの日のことなんて思い出したくない。怖い。考えるだけで震えが止まらなくなる。
 だけど、詠葉は知りたかった。誰が犯人だったのか。犯人はどうやってバスから逃げたのか。それが分からないから、自分も、ほかの被害者たちも、悪いことなんてしていないのに、疑われて、心ない言葉をかけられて、落ち込み続けなければならない。
「本当に読みたいのか?」
 本心を探るような声で父に問われ、深く頷いた。
 恐怖はあっても迷いはなかった。

 舞原詩季と編集者が去り、両親が原稿を読んでから、詠葉の番がきた。
 その原稿は、すべての漢字に振り仮名が振られており、小学生に理解しにくい部分には、余白に説明が加えられていた。
 本当に、詠葉に読んでもらうためだけに用意されたものなのだろう。

 舞原詩季が書いた小説『残夏の悲鳴』を読み、詠葉は泣いてしまった。
 溢れる涙を止めることが出来なかった。
 最後まで読み終わった後で、思い出したのは犯人に見せられたメモだった。
『君が指示に従えば、誰も傷つけません。』
『君が約束を守れば、誰も傷つきません。』
 言うことを聞けば誰も傷つけない。犯人は何度もそれを強調していた。
 そして、詠葉はその言葉を信じた。誰も傷つけないという言葉を信じたから、大人しく従ったのに……。
 傷つけないなんて嘘だった。傷つかないなんて嘘だった。
 だって、自分は学校に通えなくなった。
 友達もいなくなってしまった。
 声すら失ってしまった。
 傷つけないなんて、傷つかないなんて、真っ赤な嘘じゃないか。
 犯人は何がしたかったんだろう。
 犯人の要求は、封鎖された瀬戸大橋をバスで渡ることだった。犯人は警察にもマスコミにも連絡を入れていたのに、要求らしい要求はそれだけだった。
 犯人が何の目的で、あんな事件を起こしたのか。それは、小説を読んでも分からなかった。しかし、あの日、犯人がどうやってバスから姿を消したかは分かった。
 宇井という編集者が言っていたように、『残夏の悲鳴』を読んだ後では、この方法しかなかったと思える。これが真実で間違いないと思う。
 あの若い小説家は、警察も突き止められなかった事件の真相を暴いたのだ。

 それから、長い時間をかけて、詠葉は詩季に手紙を書いた。
『残夏の悲鳴』に描かれた物語が、真実であるとは限らない。だけど、あの日、犯人の一番近くにいた自分と運転手が、真実と信じた物語だ。
 無関係な人々の口を閉じられないなら、マスコミがあの事件について語ることをやめないなら、せめて知って欲しかった。あの日、あの場所で、何が起きていたのか、憶測ではない言葉で語り合って欲しかった。

 翌年、一九九三年。
 出版された小説『残夏の悲鳴』は、発行部数三百万部を超える空前の大ベストセラーとなった。
 事件当時、十七歳だった若者が暴いた真実の物語は、人々の心を動かす。
 その小説が発売されるまで、七歳でしかなかった詠葉や、詠葉の母のことを、犯人の仲間だと揶揄する者がいた。事件の最中に、警察やマスコミに連絡を入れていたのは、ホームレスではなく、詠葉の父親だったのではないかと推理する者もいた。
 運転手を実行犯の一人と考える者も、やはり根強く存在していた。
 しかし、舞原詩季の小説が発売されたことで、人々は知ることになった。
 三好詠葉も、運転手も、決して共犯者などではない。あの事件に傷つけられ、苦しめられてきた、ただの被害者だった。

 詩季の本が発売されてから、思いもしなかった変化が起きた。
『残夏の悲鳴』を読んだクラスメイトが、詠葉を学校に誘いに来たのだ。
 事件後、人々の好奇の目から詠葉を守るため、単身赴任だった父が転職を決意し、三好家は故郷から引っ越している。
 引っ越し先ではろくに学校に通えなかったから、友達なんて一人もいない。誰とも打ち解けていない。それなのに、クラスメイトたちは喋ったこともない詠葉を誘いに来た。
 教室においでよ。一緒に勉強しようよ。
 同級生たちは笑顔で、詠葉を迎えに来てくれた。
 そうか。舞原詩季は小説で人々の心を動かしたのだ。そう思った。
 編集者の言葉は嘘じゃなかった。彼は物語で人の心を動かせる作家だった。
 詩季の小説に背中を押されたのは、詠葉も同様である。
 いつまでも自宅に引きこもっているわけにはいかない。
 勇気を奮い、緊張と共に登校すると、皆が歓迎してくれた。
 先生も、同級生たちも、ほかのクラスの子どもたちも、笑顔で迎えてくれた。
 嬉しかった。やっと学校に戻ることが出来た。
 ようやく、居場所が出来たような気がした。

 ……だけど、詠葉の登校は長く続かなかった。
 声が出ない。言いたいことがあるのに伝えられない。友達とお喋り出来ない。
 筆談では会話も滞る。自分のことを気にして、話が進まないことに皆が苛立っているような気がしてしまう。誰にも責められていないのに、強迫観念に駆られてしまう。
 どうして喋れないんだろう。
 こんなに伝えたいことがあるのに、何で駄目なんだろう。
 このまま死ぬまで、自分は声を失ったままなんだろうか。
 少しずつ、学校に向かう足が重たくなり、小学校を卒業する頃には、再び完全に不登校になってしまった。
 中学生になっても状況は変わらなかった。
 声が出ない。こんな状態じゃ、自分はいつまで経っても前に進めない。
 苦しかった。哀しかった。つらかった。
 そして、それ以上に悔しかった。
 あんな事件に巻き込まれなければ、あの日、犯人の手先になったのが自分でなければ、今頃、きっと普通の生活を送れていたのに。
 皆と同じように学校に行って、友達と遊んで、勉強だって……。

 一九九五年、中学一年生の夏。
 詠葉は舞原詩季に手紙を書くことにした。
 もともと有名な小説家だったらしいが、『残夏の悲鳴』発売後、彼は人気、評価共に日本トップクラスの作家となった。両親に書店に連れて行ってもらうと、必ず目立つ場所に彼の本が山積みにされている。
 声が出せないつらさを、普通には生きられない苦しさを、あの小説を書いた作家になら、理解してもらえるかもしれないと思った。
 とはいえ返事を期待していたわけじゃない。
 舞原詩季は今や超売れっ子の作家である。ファンレターだって日々、山ほど届いているだろう。読んでもらえるかさえ分からない。そう思っていたのに……。

 手紙を送ってから二週間後、詠葉の自宅に突然、舞原詩季が現れた。
 彼の隣に立っていたのは、編集者の宇井ではなく、見たことのない女性だった。
 肌艶が良く、笑顔が絶えず、不思議な雰囲気を持つ女性。
 出会った瞬間から、詠葉は目を離せなくなった。見つめられただけで、すべてを見透かされたような気持ちになってしまった。
 詩季の隣に立っていた女性は、その名を舞原杏と言った。
 どうやら、この三年の間に、詩季は結婚したらしい。
「はじめまして。舞原杏です。私は今、東京の八王子でフリースクールを開いています。詠葉さんはフリースクールという言葉を聞いたことがありますか?」
 首を横に振る。
「事情があって、学校に通えなくなった子どもたちを受け入れている民間の施設です。私はそんな学校の一つ、『静鈴荘』を運営しています。そこで様々な学年の生徒に、勉強も、勉強以外のことも、教えています。三好詠葉さん、あなたの事情を、詩季さんから聞きました。今日はあなたを誘いに来たんです。私たちと一緒に暮らしませんか?」
 一緒に暮らす?
「静鈴荘は旅館を改装した施設なので、部屋が沢山あるんです。自宅から通っている生徒もいますが、泊まり込みで暮らすことも出来ます。詠葉さんは随分と長い間、学校に通えていないと聞きました。勉強、したくないですか? あなたが声を取り戻せる日まで、私は味方でいます。一緒に、手を取りあって、頑張ってみませんか?」
 目の前の女性のことを、詠葉は何も知らない。
 分かるのは彼女が詩季の妻ということだけだ。それでも、この人なら信頼しても良いんじゃないかと思ってしまった。
 迷いはある。不安もある。だけど、このままでは駄目だと、いつまでもこんな風に生きていくわけにはいかないと、ずっと思ってきた。
 母や父と離れるのは寂しい。だが、それくらいのことをしなければ、自分は声を取り戻せない。何より、あの『残夏の悲鳴』を書いた舞原詩季が選んだ女の人なら、頼ってみても良いのではないかと思った。

 家を離れて、静鈴荘で暮らしたい。
 中学一年生、十三歳の娘の頼みに、両親はすぐには頷けなかった。
 東京は遠い。簡単に顔を見に行ける距離でもない。
 しかし、それは、ほかならぬ詠葉の頼みであり、両親も詩季のことは信頼していた。
 舞原詩季が共に暮らす場所になら、娘を預けても良いかもしれないと思った。

             7

 三好詠葉が静鈴荘の住人になってから、四年の歳月が流れた。

 一九九九年、時は世紀末。
 戦後最大の未解決事件『瀬戸内バスジャック事件』は、犯人が特定されることなく、十年目の時効を迎えようとしていた。
 十七歳になった今も、三好詠葉は声を失ったままである。

【*気になる物語の続きは『世界で一番かわいそうな私たち 第一幕』でお楽しみ下さい*】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み