第2話 スナフキン
文字数 6,198文字
そしてぼくはゆっくりと、そしておそるおそる、ぼくの中にある記憶の小箱を覗 き込んだ。すると小箱の中身は「思い出した?」……とでも言うかのように震えてぼくの思いをくすぐり、からかうように小さな笑い声を響かせ心の襞 の隙間を駆け回る。
まるで小さな子供のようにはしゃぎながら。
でも、それは特に不思議なことでも何でもない。この小箱に閉じ込められていたのは子供の記憶なのだから。しかも歳月の篩 にかけられた純度の高い記憶で、より「修飾的なもの」ほど過去に留め置かれ、より「核心に近いもの」、より「根源的なもの」だけが寄り集まり、時の重さに圧縮されてキラキラと輝くように今という時間に結晶化したものなのだ。だから思い出というものは常に、苦みを隠しながらも美しくぼくらに微笑 む。ぼくの思い出の夏だって例外じゃない。
あの夏、ぼくは中学三年生で、従兄 の涼 くんは高校三年生だった。
当時のぼくは初めての受験で「自分」という名の限界に打ちのめされていて、見かねた親からしばらくの息抜きにと、半 ば追い立てられるように祖父母の家へと遊びに行かされたのだった。それがちょうどお盆の時期に当たっていたのは、もしかしたら神さまの悪戯 だったのかもしれないと今なら思う。
そして一方の涼くんは美大の受験を控えていて、持参作品の材料探しも兼ねて夏の始まりから祖父母の家を訪れていた。
……すべてが偶然だったけど、終わってみればすべてが必然。ぼくたちはこうしてあの夏、あの海辺の家に集まった。
でもそれは、ぼくの本意ではなかったのだということだけは声を大にして主張しておかなければ。気乗りしない態度を取り続けたぼくを見た母さんから、「涼くんがいるんだから寂しくないでしょう?」と言われた時には、言葉にしがたい反発心さえぼくは抱いたものだった。
別に一人が寂しいわけじゃない。
むしろ涼くんがいるから嫌なんだ。
一人なら一人でその方が断然良かったのに。
それが言えたらどれほど気持ちが楽だったろうか。でもぼくはそれが言えないのだ。
こんな態度でぼくがいたことを涼くんが知ったら戸惑うかもしれない。もちろんぼくは涼くんを困らせたいわけではない。でも、涼くんのことになるとぼくはどうしても平静ではいられない。
昔から少し浮世離れていて、どことなくふんわりとした雰囲気の涼くんは頭も良くて、ぼくでは決して思いつくことのない突拍子もない発言や行動で周囲を何度も驚かせてきた。そしてそんな涼くんのことをぼくは尊敬とも、憧れとも違う、何かむず痒い気持ちを抱えて接してきたのだ。周囲の期待を一身に受け続けてきた涼くんは平凡なぼくとはまるで違っていて、いつでも様々な意味で特別だった。
ぼくは間違いなく涼くんが好きだったし、その分涼くんが苦手だった。時々は嫌いだったかもしれないし、それ以上に自慢の存在だった。ぼくの涼くんへの気持ちはいつも中途半端ではっきりとしていたことがない。心の秤 がきちんとした数字を指し示してくれればまだしもわかりやすかったのに、優柔不断なぼくの気持ちはいつだって重さが決められずにゆらゆらと揺れるだけなのだ。
だからぼくは、涼くんと一緒に過ごす夏が怖かった。どうにかなってしまいそうで怖かったのだ。
もしかしたらばーちゃんだけは、ぼくのそんな気持ちにずっと以前から気付いていたのかもしれない。
「涼と紗 江 と昭 利 が同じ時期にこの家にいるなんて珍しいねえ」
と、ばーちゃんは玄関先でぼくを出迎えながら嬉しそうにそう言ったけど、その時のばーちゃんには全部お見通しだったのだろう。ぼくがなんとも答えられずに俯 き、歯切れの悪い返事を口の中でもごもごと転がしてその場をやり過ごそうとしたことも、そしてそんな態度を取らなければならなかった理由についても。だからばーちゃんは、
「疲れたろう、荷物を片付ける前におやつにでもしようかねえ」
ちょうど西瓜を冷やしているんだよとそう言って、すぐに会話を切り上げるとさっさと家の奥へと引っ込んでいった。その後ろ姿に後ろめたい気持ちを抱いて、ぼくは無言のまま唇を噛みしめ、顔を顰 めた。
ごめん。
心の中では言えるのに、ぼくはそれを言葉にすることができなかった。
そして受験や涼くんのことばかりではない。あの当時、ぼくを暗い気持ちにさせていたものがもう一つあった。
──嶋 末 家の兄弟は薄情ね。
いつだったかこの近所の誰かがそんなことを囁 いていたのを、ぼくは今でも自分自身が謗 りを受けたかのように覚えているし、多感なぼくの心はそれに少なからず傷付いて臆病になっていたのだ。
──今年も魂 送 りを手伝わなかったでしょ? 倉 品 さんのところもそうよ。鈴 木 さんちのお坊ちゃんはほら、毎年律義に帰ってきているっていうのにねえ。
非難の言葉はそう続いていく。
あの時はまだ、魂送りという言葉の意味をぼくは知らなかった。しかしぼくたちの両親が何か大事なイベントをすっぽかし続けているということだけは幼いぼくでも理解できたのだ。
なにしろこんな田舎だ。地域独特のお盆の風習があってもおかしいことはない。
そしてお盆の前に里帰りをする涼くんの家と、お盆の後で里帰りをするぼくの家。嶋末家の兄弟は毎年示し合わせたようにそうしてきたから、そのイベントにはいつだって乗り遅れてきたはずだ。
悪く言われても仕方がない。仕方がないと思っていたからこそ、玄関先でのばーちゃんの「珍しい」が様々な意味でぼくの気持ちを掻き乱す。
本当に喜んでいるの?
それとも何かの皮肉なの?
咄嗟にそんなことを考えてしまうくらい、あの頃からぼくは捻 くれていたのだろう。
今にして思えばばーちゃんのあの発言に他意なんてなかったし、魂送りのことはじーちゃんとばーちゃんが何とかしていたから問題なんてなかった。しかも魂送りは毎年あるものでもなく、必ずしも参加したり手伝ったりしなければならないというものでもない。両親の里帰りだってとても合理的なことだったと今ならわかる。
誰でもお盆の帰省ラッシュは避けたいだろう。どちらの両親も夏休みの日程に融通が利く仕事をしていた。それに三世帯が一堂に会するには、この海辺の家は田舎にしてはとても小さかったのだ。物理的に、お盆の時期に全員が顔を合わせるなんてことはそもそもが無理なことだった。
「あっくん、早く上がっておいでよ!」
嫌な思いに囚 われたまま玄関でぐずぐずしていると、奥の部屋からひょこりと顔を覗かせた紗江ちゃんがそう言った。
ぼくがあの海辺の家を訪れたのはちょうど涼くんの家族が横須賀の家に帰る日でもあったので、妹の紗江ちゃんもまだこの家にいたというわけだ。
「相変わらずあっくんはちっこいねえ!」
声に驚いて慌てて上がり框 に足を乗せたぼくを見た紗江ちゃんは、にやにやと笑ってぼくをからかった。「春に会った時から一ミリも伸びていないんじゃない?」
心外な指摘を受けたぼくは
しかし紗江ちゃんはさらに意地の悪い顔になり、「そう? 毎日ちゃんと牛乳飲んでるの?」……なんて、あんまりなことを言う。
昔から牛乳が苦手で、ぼくがすぐにお腹を壊してしまうことを知っていて紗江ちゃんはそんなことを言ったのだ。反撃できずに言葉を詰まらせ、ぼくは目を白黒とさせた。紗江ちゃんは思わせぶりに口角を上げて、「牛乳飲まない子はずっとチビなんだぞ?」と、畳みかけてくる。
紗江ちゃんの馬鹿!
「紗江、牛乳と背丈は関係ないよ」
仏頂面で荷物を持ったままリビングに顔を出すと、部屋の隅 にいた涼くんがスケッチブックから顔を上げて、紗江ちゃんを窘 めるようにそう言った。でも、そんなことくらいでしおらしくなる紗江ちゃんじゃない。
「だって、遺伝って言ったら
「なら言うな!」
ぼくは頬を膨らませ、紗江ちゃんは華やかな笑声を立てた。笑われっ放しのぼくは顔を赤くして押し黙り、じいっと紗江ちゃんを恨めし気に睨んでみたけれど、当然ながら紗江ちゃんが怖けるということもないし、笑いをひっこめるということもない。
涼くんは呆れたように眉根を寄せている。ぼくは無言のまま荷物を床に置いた。
紗江ちゃんのこともぼくには複雑だ。
本当を言えば嫌いじゃない。好きだったかもしれない。でも何かとからかってくる紗江ちゃんのことは嫌いだった。恥ずかしかった。
ぼくだっていつまでも子供じゃないんだから。
おもちゃを取られて泣いていたのは昔の話なのに、今でも紗江ちゃんはその頃とあまり変わらない態度でぼくに接してくる。いつまでも子供扱いだ。歳の差は一年しかないはずが、この差がいつでもとても大きくてぼくを常に戸惑わせてきた。
いや、この差はぼくが気付いていなかっただけで、実際にはぼくの思う以上の速さで広がっていたらしいのだ。そして彼女はそのままぼくの先を走り続け、最後にはぼくのまるで知らない世界へと足を踏み入れていくことになる。
その最初のきっかけはグロスだった。紗江ちゃんは突然、何かに目覚めて唇にグロスを塗りだしたのだ。ぼくがそれに気付いたのは叔父さんの家を訪ねた時で、ちょうどあの日は彼女の中学卒業と高校入学を祝って両親ともども横須賀の家に遊びに行ったのだ。そしていつもと様子の違う紗江ちゃんに会った。
あの時ぼくは本当に、紗江ちゃんのその唇の艶 にはっとなり、わけもわからずドキドキとなったものだった。あれがぼくの人生で初めてのドキドキだった。
「そもそも女の子の方が早いのよ、成長が」
と、紗江ちゃんが言うにはそういうことであるらしい。それはずっとずっと後になって紗江ちゃんが結婚するとなって、ぼくと涼くんとで細 やかな宴会を催した日のことだ。ぼくら三人の中で誰よりも早く結婚の決まった紗江ちゃんに対して、涼くんが「紗江は子供のころから人よりませてた」……なんて言ったものだから、ぼくも思わずグロスの思い出を語ってしまい、まあ、有り体 に言うなら反論を受けたというわけだ。
そして世界の真理を諭 すように大層な調子で、紗江ちゃんはぼくらにこう言った。
「小学校の高学年くらいからよ。女の子はね、そのくらいから大人の階段を上り始めるの。男の子なんてまだ、下手したら本気で
「
と、涼くんが苦笑する。「そりゃあまあ、小学生のあの時期は誰だって『ドラゴンボール』に夢中になったもんさ」
「夢中になるあまり思ったでしょ? 自分だってそのうち
「で、
「自分は匿 う仮の家族……とか思ったことはない?」
「いや、ぼくはないけど。まあ、平凡な主人公の正体が
「ほら!」
と、紗江ちゃんは言った。「男の子は『
「ちょっと待ってよ。そんなの女の子だって同じじゃないの?」
「女の子が魔法に夢を描くのは幼稚園までよ」紗江ちゃんはにやりと笑う。「だから同い年の男の子は幼いと思うわけ。そして少女は年上の異性に憧れる。そのために一足飛びで大人の世界に足を踏み入れようとするのね。それがたとえ幻覚で、単なる背伸びでしかなかったとしても、そこに女の子は夢を描いて大人になっていく」
「ひどい話だよね……」と、反撃を諦めた様子の涼くんは首を振った。「そうやって少女はぼくら少年を余裕の表情で見下しているんだ。こっちがどんなに躍起になったところで勝ち目はなかったってわけだね?」
紗江ちゃんはしかつめらしい顔で肯 いた。「そういうことになる」
すると涼くんは、降参の体でワイングラスを傾けてからにやりと笑い、その赤い液体の中に皮肉の言葉を投げ捨てた。「しかも一度貼られた幼さのレッテルは、もう二度と剥がれることもないんでしょ?」
「それは言えてるかも!」と、紗江ちゃんは目を見開き勝ち誇ったように笑った。「だって、私にとってあっくんは今でもあっくんだもん」
呆然と二人のやりとりを聞いていたところに突然火の粉が振ってきて、無防備だったぼくは飛び上がった。
「もう、それどういう意味?」
言えば紗江ちゃんは声を立てて笑い、綺麗な色のカクテルグラスをするすると空にしていった。だいぶ酔いも回ってきたのだろう。とろんとした目付きでうっとりと空のグラス眺める紗江ちゃんの顔は幸せに満ち溢れて眩しいくらいだった。
あの時ぼくはわざとらしく不貞腐れたけど、本音の部分ではそうでもしないと心の傷が開きそうで怖かったことも覚えている。
紗江ちゃんの結婚相手は紗江ちゃんの一つ年下で、つまりはぼくと同い年だった。紗江ちゃんにとっての結婚相手は「男の人」でも、従弟 のぼくは「男の子」。紗江ちゃんからすればぼくは永遠にからかいがいのある「年下の少年」というわけだ。それは千夏にとっても同じだったろう。
中学生のぼく。高校生の涼くん。
あの少女にとってぼくは「子供」だし、涼くんは「大人」だった。そして今彼女に再会することがあったとしても、たぶんその構図は当時のまま変わることはない。
今さら気付いても遅いかもしれないが、もしかしたらぼくは勝てない勝負の前でヤキモキしていただけの哀れな少年だったのかもしれない。なんて恥ずかしいのだろう。タイムマシンがあったらすぐにでも当時の自分に会いに行き、「馬鹿だなあ」と自分を抱きしめてやりたいほどに愛おしい気分だ。
「……じゃ、あっくん。お兄ちゃんのことよろしくね」
西瓜を食べ終えた紗江ちゃんは去り際 で、玄関先まで彼女を見送ったぼくにあっけらかんとこう言った。「あれでけっこうな寂しがり屋なんだから」
「え?」
驚いてぼくが後ろを振り返ると、涼くんが困ったように照れている。
意外な気がした。
ぼくの中の涼くんは寂しくて死んでしまうウサギというよりは、敢えての孤独を愛する……。
「いや、何言ってるの? 涼くんはスナフキンでしょ?」
ぼくは眉を顰 めながら問い返した。しかし紗江ちゃんはそれ以上のことは言わずに、にやにやと怪しげな笑みを浮かべるだけ。
そう。まさにその日の出来事だったのだ。
紗江ちゃんたちが横須賀の家に帰っていったその日の午後、ぼくと涼くんはあの少女と出会うのだ。
まるで小さな子供のようにはしゃぎながら。
でも、それは特に不思議なことでも何でもない。この小箱に閉じ込められていたのは子供の記憶なのだから。しかも歳月の
あの夏、ぼくは中学三年生で、
当時のぼくは初めての受験で「自分」という名の限界に打ちのめされていて、見かねた親からしばらくの息抜きにと、
そして一方の涼くんは美大の受験を控えていて、持参作品の材料探しも兼ねて夏の始まりから祖父母の家を訪れていた。
……すべてが偶然だったけど、終わってみればすべてが必然。ぼくたちはこうしてあの夏、あの海辺の家に集まった。
でもそれは、ぼくの本意ではなかったのだということだけは声を大にして主張しておかなければ。気乗りしない態度を取り続けたぼくを見た母さんから、「涼くんがいるんだから寂しくないでしょう?」と言われた時には、言葉にしがたい反発心さえぼくは抱いたものだった。
別に一人が寂しいわけじゃない。
むしろ涼くんがいるから嫌なんだ。
一人なら一人でその方が断然良かったのに。
それが言えたらどれほど気持ちが楽だったろうか。でもぼくはそれが言えないのだ。
こんな態度でぼくがいたことを涼くんが知ったら戸惑うかもしれない。もちろんぼくは涼くんを困らせたいわけではない。でも、涼くんのことになるとぼくはどうしても平静ではいられない。
昔から少し浮世離れていて、どことなくふんわりとした雰囲気の涼くんは頭も良くて、ぼくでは決して思いつくことのない突拍子もない発言や行動で周囲を何度も驚かせてきた。そしてそんな涼くんのことをぼくは尊敬とも、憧れとも違う、何かむず痒い気持ちを抱えて接してきたのだ。周囲の期待を一身に受け続けてきた涼くんは平凡なぼくとはまるで違っていて、いつでも様々な意味で特別だった。
ぼくは間違いなく涼くんが好きだったし、その分涼くんが苦手だった。時々は嫌いだったかもしれないし、それ以上に自慢の存在だった。ぼくの涼くんへの気持ちはいつも中途半端ではっきりとしていたことがない。心の
だからぼくは、涼くんと一緒に過ごす夏が怖かった。どうにかなってしまいそうで怖かったのだ。
もしかしたらばーちゃんだけは、ぼくのそんな気持ちにずっと以前から気付いていたのかもしれない。
「涼と
と、ばーちゃんは玄関先でぼくを出迎えながら嬉しそうにそう言ったけど、その時のばーちゃんには全部お見通しだったのだろう。ぼくがなんとも答えられずに
「疲れたろう、荷物を片付ける前におやつにでもしようかねえ」
ちょうど西瓜を冷やしているんだよとそう言って、すぐに会話を切り上げるとさっさと家の奥へと引っ込んでいった。その後ろ姿に後ろめたい気持ちを抱いて、ぼくは無言のまま唇を噛みしめ、顔を
ごめん。
心の中では言えるのに、ぼくはそれを言葉にすることができなかった。
そして受験や涼くんのことばかりではない。あの当時、ぼくを暗い気持ちにさせていたものがもう一つあった。
──
いつだったかこの近所の誰かがそんなことを
──今年も
非難の言葉はそう続いていく。
あの時はまだ、魂送りという言葉の意味をぼくは知らなかった。しかしぼくたちの両親が何か大事なイベントをすっぽかし続けているということだけは幼いぼくでも理解できたのだ。
なにしろこんな田舎だ。地域独特のお盆の風習があってもおかしいことはない。
そしてお盆の前に里帰りをする涼くんの家と、お盆の後で里帰りをするぼくの家。嶋末家の兄弟は毎年示し合わせたようにそうしてきたから、そのイベントにはいつだって乗り遅れてきたはずだ。
悪く言われても仕方がない。仕方がないと思っていたからこそ、玄関先でのばーちゃんの「珍しい」が様々な意味でぼくの気持ちを掻き乱す。
本当に喜んでいるの?
それとも何かの皮肉なの?
咄嗟にそんなことを考えてしまうくらい、あの頃からぼくは
今にして思えばばーちゃんのあの発言に他意なんてなかったし、魂送りのことはじーちゃんとばーちゃんが何とかしていたから問題なんてなかった。しかも魂送りは毎年あるものでもなく、必ずしも参加したり手伝ったりしなければならないというものでもない。両親の里帰りだってとても合理的なことだったと今ならわかる。
誰でもお盆の帰省ラッシュは避けたいだろう。どちらの両親も夏休みの日程に融通が利く仕事をしていた。それに三世帯が一堂に会するには、この海辺の家は田舎にしてはとても小さかったのだ。物理的に、お盆の時期に全員が顔を合わせるなんてことはそもそもが無理なことだった。
「あっくん、早く上がっておいでよ!」
嫌な思いに
ぼくがあの海辺の家を訪れたのはちょうど涼くんの家族が横須賀の家に帰る日でもあったので、妹の紗江ちゃんもまだこの家にいたというわけだ。
「相変わらずあっくんはちっこいねえ!」
声に驚いて慌てて上がり
心外な指摘を受けたぼくは
むき
になって言い返す。「もうちょっとしたらぐんぐん伸びるし!」しかし紗江ちゃんはさらに意地の悪い顔になり、「そう? 毎日ちゃんと牛乳飲んでるの?」……なんて、あんまりなことを言う。
昔から牛乳が苦手で、ぼくがすぐにお腹を壊してしまうことを知っていて紗江ちゃんはそんなことを言ったのだ。反撃できずに言葉を詰まらせ、ぼくは目を白黒とさせた。紗江ちゃんは思わせぶりに口角を上げて、「牛乳飲まない子はずっとチビなんだぞ?」と、畳みかけてくる。
紗江ちゃんの馬鹿!
「紗江、牛乳と背丈は関係ないよ」
仏頂面で荷物を持ったままリビングに顔を出すと、部屋の
「だって、遺伝って言ったら
かわいそう
じゃん?」「なら言うな!」
ぼくは頬を膨らませ、紗江ちゃんは華やかな笑声を立てた。笑われっ放しのぼくは顔を赤くして押し黙り、じいっと紗江ちゃんを恨めし気に睨んでみたけれど、当然ながら紗江ちゃんが怖けるということもないし、笑いをひっこめるということもない。
涼くんは呆れたように眉根を寄せている。ぼくは無言のまま荷物を床に置いた。
紗江ちゃんのこともぼくには複雑だ。
本当を言えば嫌いじゃない。好きだったかもしれない。でも何かとからかってくる紗江ちゃんのことは嫌いだった。恥ずかしかった。
ぼくだっていつまでも子供じゃないんだから。
おもちゃを取られて泣いていたのは昔の話なのに、今でも紗江ちゃんはその頃とあまり変わらない態度でぼくに接してくる。いつまでも子供扱いだ。歳の差は一年しかないはずが、この差がいつでもとても大きくてぼくを常に戸惑わせてきた。
いや、この差はぼくが気付いていなかっただけで、実際にはぼくの思う以上の速さで広がっていたらしいのだ。そして彼女はそのままぼくの先を走り続け、最後にはぼくのまるで知らない世界へと足を踏み入れていくことになる。
その最初のきっかけはグロスだった。紗江ちゃんは突然、何かに目覚めて唇にグロスを塗りだしたのだ。ぼくがそれに気付いたのは叔父さんの家を訪ねた時で、ちょうどあの日は彼女の中学卒業と高校入学を祝って両親ともども横須賀の家に遊びに行ったのだ。そしていつもと様子の違う紗江ちゃんに会った。
あの時ぼくは本当に、紗江ちゃんのその唇の
「そもそも女の子の方が早いのよ、成長が」
と、紗江ちゃんが言うにはそういうことであるらしい。それはずっとずっと後になって紗江ちゃんが結婚するとなって、ぼくと涼くんとで
そして世界の真理を
「小学校の高学年くらいからよ。女の子はね、そのくらいから大人の階段を上り始めるの。男の子なんてまだ、下手したら本気で
かめはめ波
が撃てると信じてるような時期でしょ?」「
かめはめ波
はひどい!」と、涼くんが苦笑する。「そりゃあまあ、小学生のあの時期は誰だって『ドラゴンボール』に夢中になったもんさ」
「夢中になるあまり思ったでしょ? 自分だってそのうち
気
を感じたり操ったりできるようになるんだ、って」「で、
かめはめ波
?」「自分は
実は
どこかの星の生き残り、今の家族は自分を「いや、ぼくはないけど。まあ、平凡な主人公の正体が
実は
、とか、突然現れた誰かに導かれて能力に目覚める、とか、そういう物語はもちろん好きだったよ。自分もそうだったら、と考えたこともある」「ほら!」
と、紗江ちゃんは言った。「男の子は『
実は
』が好きで、自分にも『実は
』があると思う生き物なの」「ちょっと待ってよ。そんなの女の子だって同じじゃないの?」
「女の子が魔法に夢を描くのは幼稚園までよ」紗江ちゃんはにやりと笑う。「だから同い年の男の子は幼いと思うわけ。そして少女は年上の異性に憧れる。そのために一足飛びで大人の世界に足を踏み入れようとするのね。それがたとえ幻覚で、単なる背伸びでしかなかったとしても、そこに女の子は夢を描いて大人になっていく」
「ひどい話だよね……」と、反撃を諦めた様子の涼くんは首を振った。「そうやって少女はぼくら少年を余裕の表情で見下しているんだ。こっちがどんなに躍起になったところで勝ち目はなかったってわけだね?」
紗江ちゃんはしかつめらしい顔で
すると涼くんは、降参の体でワイングラスを傾けてからにやりと笑い、その赤い液体の中に皮肉の言葉を投げ捨てた。「しかも一度貼られた幼さのレッテルは、もう二度と剥がれることもないんでしょ?」
「それは言えてるかも!」と、紗江ちゃんは目を見開き勝ち誇ったように笑った。「だって、私にとってあっくんは今でもあっくんだもん」
呆然と二人のやりとりを聞いていたところに突然火の粉が振ってきて、無防備だったぼくは飛び上がった。
「もう、それどういう意味?」
言えば紗江ちゃんは声を立てて笑い、綺麗な色のカクテルグラスをするすると空にしていった。だいぶ酔いも回ってきたのだろう。とろんとした目付きでうっとりと空のグラス眺める紗江ちゃんの顔は幸せに満ち溢れて眩しいくらいだった。
あの時ぼくはわざとらしく不貞腐れたけど、本音の部分ではそうでもしないと心の傷が開きそうで怖かったことも覚えている。
紗江ちゃんの結婚相手は紗江ちゃんの一つ年下で、つまりはぼくと同い年だった。紗江ちゃんにとっての結婚相手は「男の人」でも、
中学生のぼく。高校生の涼くん。
あの少女にとってぼくは「子供」だし、涼くんは「大人」だった。そして今彼女に再会することがあったとしても、たぶんその構図は当時のまま変わることはない。
今さら気付いても遅いかもしれないが、もしかしたらぼくは勝てない勝負の前でヤキモキしていただけの哀れな少年だったのかもしれない。なんて恥ずかしいのだろう。タイムマシンがあったらすぐにでも当時の自分に会いに行き、「馬鹿だなあ」と自分を抱きしめてやりたいほどに愛おしい気分だ。
「……じゃ、あっくん。お兄ちゃんのことよろしくね」
西瓜を食べ終えた紗江ちゃんは去り
「え?」
驚いてぼくが後ろを振り返ると、涼くんが困ったように照れている。
意外な気がした。
ぼくの中の涼くんは寂しくて死んでしまうウサギというよりは、敢えての孤独を愛する……。
「いや、何言ってるの? 涼くんはスナフキンでしょ?」
ぼくは眉を
そう。まさにその日の出来事だったのだ。
紗江ちゃんたちが横須賀の家に帰っていったその日の午後、ぼくと涼くんはあの少女と出会うのだ。