第5話 七月十三日に坂を下る。過去への飛翔

文字数 3,703文字

 七月十三日、この日は〈ナイスの日〉であるらしい。
 何故に、ナイスかと言うと、〈7(ナナ)・1(イチ)・3(スリー)〉といったように、日本語と英語を強引に語呂合わせしたもので、日常の中からナイスな事を見付けようという一日なのだそうだ。
 ちなみに、このナイスの日に関する僕の情報源は、今から十五年ほど前、二〇〇六年七月十五日に、角川ヘラルド映画から公開された、細田守監督のアニメ映画『時をかける少女』である。

 そして、二〇二〇年七月十三日、この年のナイスの日の夕方、僕は、日常の中から、ちょっと良い事を見付けるべく、都電荒川線、別名〈さくらトラム〉の面影橋駅に降り立ったのだった。
 面影橋駅を降りてすぐの所にある、この駅名の由来になっている〈面影橋〉を渡って、〈宿坂通り〉という名の通りを真っすぐ歩いてゆくと、左手に高田氷川神社、右手に南蔵院が位置している、幅広の〈Y字路〉にぶつかる。
 そのY字の二本の先は、左も右も更に二股に分かれていて、タブレットにインストールしてある地図アプリで、この周辺の地図を拡大してみた僕は、まるで鹿の角みたいだな、と思ったのだった。

 実を言うと、つい先日、神田川と目白台の散策の際に、僕はこの辺りを既に訪れていた。その時には、東京メトロの江戸川橋から神田川に沿って真っすぐ、二十から三十分ほど歩を進めて、南蔵院周囲のこの分岐路に辿り着いたのだが、今回は、都電を利用したおかげで、二、三分歩いただけで、南蔵院周囲の分岐路に到達することができた。しかし、このように移動経路を変え、その地を見る角度を変えただけで、同じ場所なのに、抱く印象は大きく異なるものだな、と僕は思ったのだった。

 それから、僕は、その場で、回れ右をして、南蔵院の門の方に身体を向けると、その目の前に見えた別の〈Y字路〉がある。その右のツノの方を選んで真っ直ぐ進むと、すぐの所に、もう一つ別の〈Y字路〉が現れる。
 この二つ目の〈Y字路〉が、ナイスの日における僕の目的の一つであった。というのも、こここそが、アニメ『時をかける少女』の物語の中で重要な空間となっているからだ。

 『時をかける少女』という作品名が象徴しているように、主人公の紺野真琴は、ある日、過去に戻れるタイムリープ能力を手に入れ、日常の中の嫌な事を避けたり、あるいは、楽しい事を繰り返して味わうために、何度も何度も、ナイスの日である〈7月13日〉を繰り返す。
 紺野真琴には、間宮千昭と、津田功介という男友達がいて、放課後にグランドで野球をして遊んだ後で、三人は、とある〈Y〉字路に差し掛かる。
 初めてこの〈Y〉字路に差し掛かった時、功介は、〈V〉の支点から〈I〉の下端に向かって戻ってゆく。残った千昭と真琴の二人は、〈/〉という右のツノを選ぶ。この時、千昭から真琴は告白されるのだが、三人の関係を大切にしたいと考えている真琴は、これを無かった事にするために、タイムリープをしてしまうのだ。
 二度目に〈Y〉字路を前にした際にも、功介は同じ道を戻り、千昭と真琴は右のツノの方を選ぶ。しかし事態は変わらないため、真琴はまたタイムリープをしてしまう。その後の三回目でも同じ状況だったため、再び真琴はタイムリープを試みる。
 結局、四回目の〈Y〉字路の際に、〈\〉という左のツノを選ぶ事によって、真琴は告白を回避するのだ。
 すなわち、この〈Y〉字路こそが、タイムリープをして、過去を改変する真琴にとって、選択の象徴的空間になっているのである。
 
 そして、現実において、『時かけ』のモデルになっているであろうY字路の、左ツノの方をひたすら歩き続けると、その道は〈T字路〉に突き当たる。そして、その場で、回れ左をすると、視界に飛び込んでくるのが、〈富士見坂〉という名の急角度の上り坂なのだ。そして、この坂を上がり切った所に位置しているのが、新目白通りと不忍通りの交差点である。実は、目白台には、幾つもの急坂が存在しているのだが、その交差点こそが、そうした坂の中で、どれが富士見坂であるかを判断する目印の一つになっているのだ。

 さて、富士見坂の麓に達した時に、下から坂を見上た僕は、この激坂の反り返り具合に既視感を覚えた。
 そう、たしか……、『冴えない彼女の育てかた』(略称『冴えカノ』)の第四話を観た時であった。
 このエピソードの中で、ゴールデンウィーク期間中に、主人公の安芸倫也の幼馴染である澤村・スペンサー・英梨々(エリリ)は、緑のジャージを身に纏い、家に戻るべく自転車を漕いでいたのだが、そう、その時の坂なのだ。
 そこで、手持ちのタブレットで、『冴えカノ』を観てみることにした。
 『冴えカノ』の象徴である「あの坂」たる〈のぞき坂〉は、最も明治通り寄りの坂なのは確かなのだが、タブレットで、アニメの背景を確認しながら、現実の目白台の坂道を見比べてみると、エリリが自転車で登っていたのは、〈のぞき坂〉ではなく、そののぞき坂から見て、三つ早稲田寄りの、この〈富士見坂〉であることが分かる。

 そして、別に作品でも、富士見坂を観た覚えがあった。
 それは、アニメ『バンドリ!』の第二期の第九話を視聴した際のことである。
 渋谷でのライヴを終えた後に、「羽丘女子学園」での文化祭に参加するために急ぐ花園たえが、走って、坂を駆け上がるシーンがあるのだが、その坂の上で、戸山香澄がたえを出迎えているのもまた、この富士見坂だったのだ。

 実際に、富士見坂を訪れてみると、この坂の天辺付近には〈富士見坂〉というプレートが設置されていて、その高い位置から、下り坂の方を振り返ってみた際に、まず視界に飛び込んできたのは、高層ビル群であった。その中には、新宿駅西口の〈コクーンタワー〉という独特の形状のビルもあって、そのビル群が、新宿駅西口であることが即座に分かる。
 ちなみに、この〈富士見坂〉という名称は、かつて、ここから富士山が見えた事に由来しているらしい。だが、もはや今、ここから富士山を見ることはできない。だから、実際に見える光景こそを名の由来にするのならば、現代的な名称は、むしろ〈新宿西口坂〉だよな、と、僕は発想してしまったのだった。

 それから、新宿の高層ビル群から、視線を少し下におろしてみたところ、そこに見えたのは、まるで反り返ったような形の急な坂であった。そしてさらに、この激坂を特徴付けているのが、緑に覆われた一軒の家で、こう言ってよければ、実に、〈雰囲気〉のある建物であった。
 たしかに、虚構的な修正は施されてはいるものの、この家にも、そして坂の反り返り具合にも、僕には見覚えがあった。それも『冴えカノ』や『バンドリ!』よりも遥か以前たる二〇〇六年の七月、『時をかける少女』を観た際においてであった。

 つまり、この雰囲気のある家は、『時をかける少女』における主人公の紺野真琴の家にそっくりであり、さらに、富士見坂は、真琴が最後の一回になったタイムリープを試みる〈あの坂〉に酷似しているのだ。
 舞台背景のモデルは、ここで間違いあるまい。

 物語の中で、家を飛び出した真琴は、ただ真っ直ぐに、一本道のような反り返った激坂を全速力で跳ねるように駆け下り、「いっけえええぇぇぇ~~~」という掛け声とともに、目の前に広がる、高層ビル群に向かって跳び込み、そして、過去への飛翔を遂げるのだ。
 真琴は、これまで過去をやり直すために、何度も何度もタイムリープを繰り返し使ってきた。
その象徴が、先に見た〈Y字路〉だったのは確かだ。
 しかし、残り一回となった最後のタイムリープにおいては、かの一本坂が用いられている。このことは、たった一度だけの、やり直しがもはやできない道を自ら選んだ事を意味しているように思われる。このように考えてゆくと、これまで作中に、繰り返し様々な分岐路を出してきたのも、このような自分で決めた唯一絶対の選択を、〈一本道の下り坂における飛翔〉によって描くための布石だったようにさえ思えてくる。
 ちなみに、真琴のタイムリープに関しては、アニメの中で、たとえば、「16:00」や「16:01」、あるいは「18:41」など、何度か、その起点となる時刻が提示されているのだが、この最後の飛翔に関しては、それが何時なのか、何度か映画を繰り返し観てみたのだが、僕には分からなかった。ただ明白なのは、物語の中で完全に陽が落ちているという事実だけであった。

 調べてみたところ、7月13日、この日の目白台周辺の日の入りの時刻は18時58分であった。
 だから、僕は――
 腕時計がその時刻を刻むのを待って、薄い暗闇の中、富士見坂を〈小走り〉で下り出した。
 たしかに、真琴のように〈全速力〉で跳ぶように走ってゆきたい気持ちもあったのだが、さすがに、それは危険すぎるように思われたので。

〈参考資料〉
〈アニメ〉
『BanG Dream!(バンドリ!)』第二期,第九話.
『冴えない彼女の育てかた』第一期,第四話.
『時をかける少女』,監督;細田守,公開日:2006年7月15日,配給;角川ヘラルド映画.
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