八年間の失敗、これから
文字数 4,640文字
私は親の自殺を止めたことがある。
あれは私が小学校のころだったと思う。
母は大量の薬を飲んで、水を飲もうとしていた。
兄と僕が、力ずくで彼女の腕を抑える。
大量の薬が唾液で溶かされて、彼女の口から吐しゃ物のように漏れていた。
母は痛い痛いと泣いていた。
私は親が自分を殺そうとしている瞬間を目の前で見たことがある。
あれは私が中学のころだったと思う。
何が理由だったか、いつものような大きい喧嘩だったかは覚えていない。
台所に母がいた。兄はリビングの机の下に寝ていた。
彼らは口喧嘩をしていた。
僕は二階の自分の部屋で、下の様子をうかがっている。
最初、一階からガチャンッという音が聞こえた。母は陶器の皿を兄に投げつけたようだった。皿は外れ、兄の近くで飛び散ったのだろう。
兄にとっては慣れたものだった。
しかしその日は終わらない。
急に静かになった。
静寂。
静寂は恐ろしい。
一回からドタドタッと足音が聞こえた。
その足音は二階へ向かって激しく近づいてくる。
そして隣の兄の部屋の扉が強く開けられ、一瞬で閉じた。
僕は心臓を高鳴らせながら、ゆっくりと自分の部屋のドアに近づき、そっとドアを開く。
隙間から階段を覗くと、包丁を手に持った母がやわらかく階段を上っていた。
母に表情はない。いや、母の顔には無表情があった。僕は自ら作り出しているかのように思えた。
僕は恐怖を感じる前に扉を閉め、ベッドの横に準備したあった修学旅行で買った木刀を手に持った。
そして音をたてないように、ゆっくりと机を扉の前に移動させ、扉を開けられないようにバリケードを作った。
兄は自分の部屋に立てこもり、必死に扉のレバーを抑える。
母は扉の前で、甘い声を出す。
「ゆうちゃん、開けて?」
最初は甘い、しかし、激しさを帯びていく。
ドンッ。
ドンドンッ。
ドンドンンドンッ。
扉をたたく音が聞こえる。
「お願い、開けて?」
母の声は緊張していた。
僕はそこでなぜか安心した。よかった、正常に戻ってきていると思った。
その後、二時間くらいした後に、母は一回へ降りて行った。
翌日から、いつもと変わらない日々が続いていった。
私には母と、兄が一人いる。父はいない。
母は一人で二人の男を育てていた。
しかし、元の神経症的傾向や、家事や仕事、特にお金のことで悩み苦しんでいた。
彼女は人に嫌われないようにおびえて、空元気を他人に提示していた。
そのおかげで彼女はたぶん周囲からはいいひとだと思われていた。
私はそんな母を見て育った。
母は解離性同一性障害と、うつ病を抱えていた。彼女がうつ状態にあるとき、他人と接している時とはまるで別人になる。僕らがイメージする、人、ではなくなる。
毎日、金の悩みに憑かれ、自分を抑圧することを強迫され、僕らを育てることに生きてきた彼女の精神は、ボロボロだった。
兄も精神病だった。彼は強迫性障害だった。例えば水道の水を止めるとき、蛇口を三回は上下させたり、癖である指パッチンを右手でやったらもう片方の手でやらなきゃ気が済まなかったり、彼は彼のルールに囚われていた。高校生になってもおねしょをしたりしていた。
そんな彼は、偏差値が足りず、私立の高校に入学したが、出席日数が足りない以上に学校へ行っていなかった。よく悪さをして、母と一緒に学校へ呼び出されていた。そのたびに母はうつを発症していた。
僕と兄は仲が悪く、たまに接触すると暴力的なケンカになった。四歳下の僕に、勝ち目はなかった。
そんな環境の中、僕は育っていった。
そんな僕は、よく他人の顔をうかがうようになった。
そんな僕は、完璧であろうと努めた。
そんな僕は、自分をよく控えた。
そういう態度で生きれば、殺されることはなかった。
むしろ周囲の人は僕を褒めた。
僕は学級委員になったり、合唱コンクールの指揮者になったり、生徒会に入ったりした。
自分の優秀さを証明する何かが欲しかったのかもしれない、完璧な人間でなければならないと思っていたのかもしれない、多くの人に気に入られていると信じれる根拠が欲しかったのかもしれない。わからない。
しかし僕は一度も、誰かのために行動したことはなかった。
恐怖から逃げるように動いた。
能動的に行動することはなかった。
当時の僕はみんなの利益を考えていると思い込んでいたように感じる。
今振り返ればそんなことはないように思える。
みんなは僕を、人気者ランキングで一位に選んでくれるほどには称賛はしてくれていたが、みんなと僕は深い仲になれた感じはしない。
僕の思い込みかもしれない。相手は思ってくれているかもしれない。
ただ僕は、もっと仲良くならなきゃいけない、嫌われてはいけないという考えを繰り返していた。
だけどそう思うほど、僕は僕を表現することはできず、いいやつを提示し続けた。
そんな中学生だったある日、僕は崩れた。
僕は夜連が嫌いだった。夜連は土曜日の昼の練習が終わった後、指導者やOBや先輩や親たちが一斉に集まって、練習と偽ってバスケをして遊んでいた。
行っても楽しくない。楽しくないというか、気持ちが悪い。
部活の夜連が終わった22時後、いつも通りに先輩や友人に後輩、指導者や親御さん達へいいやつを提示し終わった後、僕は洗面所で号泣した。大体4時間は涙が止まらなかった。
溜まりにたまった負債が、崩れ落ちた。
僕は体に力が入れられず、壁を背に座り込んでいた。
ふと、泣いている自分の顔が気になり、洗面台の鏡をのぞいてみると、そこには弱い人間がいた。
僕は笑ってみた。パンパンに泣き腫れた顔をした僕が映っていた。
顔がおかしかったのではない。
今思い返してみても、笑ったらどうなるだろうと、好奇心が働いていただけだった気がする。
その体験をしても、僕の中に大きな変化はなかった。
その夜の次の日も、僕はいつも通り僕だった。
ただ一つ変化があるとするならば、心に、憎しみが芽生えていた。
僕は高校へ進学した。公立の高校だった。就職に有利な高校だった。
そうすることが、母の望みであり、僕の安全だったからだとおもう。
僕は高校時代を過ごし、就職した。
過去の僕や、周囲の人間の流れに沿ったからだと思う。
そうすることが、正直に楽だった。
僕は半年で退社した。
中学時代の苦しみが、僕の欠点が根本的な原因だった。
僕は退社した後、アルバイトをしながら、小説を書き始めた。
僕は停滞していた。
僕は小説を応募したが、落選した。
これも僕の欠点が原因だった。
僕の欠点。
それはまさに中学時代に根付いた僕の生き方だった。
他人に逆らうと危険だ。
いいやつじゃないと、完璧じゃないといけない。
自分を控え、受け身でなければならない。
そうやって僕は失敗して生続けた。
だけど気付いた。
小説に落選した時、今まで自分が行ってきた生きることへの態度が、間違っていたと。
しかし、どうすればいいのかわからない。
何か思いついても自信が持てない。自分に自信が持てない。
小説に落選してから数日後、Youtubeを見ていた僕はメンタリストのDaiGOの動画を見つけた。
僕はこれかな?と、少しだけ意識が向いた。
彼の科学を根拠に置く考え方にひかれた。
それからというもの、僕は彼の動画をよく見るようになった。そのたびに、深く信じるようになっていた。
僕は自分がわからなかった。そこで動画を見てみると、どうやら瞑想がいいらしい。
ヴイパッサナー瞑想といって、今この瞬間の自分を観察し、評価しないでただ実況する。というものだった。
僕は一日十秒から始めた。そうすることで習慣化しやすいという研究があるからだった。
三日、一週間、一か月と過ぎてゆき、次第に瞑想時間もエスカレートしていった。
三か月たって、僕は一日20分の瞑想が習慣化した。
瞑想をすることへの抵抗感がなく、あたり前のように行っている。
そのおかげで僕は、自分が感じていること、考えていること、思考の癖など、自分というものがわかり始めてきた。
そうして、僕は科学的な根拠を信用するようになった。
そうして、僕の欠点を改善していこうと思った。
僕の失敗、完璧主義、自己の抑圧、自己の無知。
僕は何より自分を知らないことが一番の失敗だった。
自分はどういう人間なのか。どういうとき、何を行うのか。
自分がしたいことは何か、できることは何か、やってみたいことは何か。
僕の他人とのコミュニケーションの失敗は、相手の都合のいい人間になることだった。
自発能動的な思いやりではなく、ただ服従していた。
嫌われないために、しなきゃいけないことは何か。
僕は自分を知るために、瞑想のほかに、自己省察の科学的方法や、ライフストーリー法を試していった。
ちなみに、この物語を描く目的に、自分を知るという目標もある。
僕は自分を主張しながら相手とコミュニケーションを得るために、アサーションのトレーニングを行った。
そのおかげで、バイト先の人や友人、今では母や兄ともコミュニケーションをとれるようになった。自分を殺している感覚がなくなり、むしろ生かしている感覚を覚えている。
物事を完璧に行おうとするのではなく、一日1%ずつ改善していくやり方に変えた。
自分を探してみると、やっぱり物語を描くことが好きらしいので、賞に応募して一回で成功してやろうと意気込まず、一作ごとにテクニックを追加していっている。成長する感覚がうれしくてしょうがない。
他人に言われたからやるのではなく、相手のためを考え、自分の能力を働かせることを主眼に置くことで、生きがい的な幸福を得ている。小説の目的がそれである。この前、物語を面白いと読者の方がコメントをくれた。
キリがない。
ほかにもたくさんの欠点と、それに対応した取り組みがある。
運動をしたり、脳トレの習慣も入れたり。
正直、新しいことへ挑戦するときのストレスを、克服はしてはいない。
習慣を続けてている間に、不安になることもある。
正直、あなたが見てくれているこの文章も、完璧にしたいと思っている。
つまり、全然ダメな作品だと思っている。
それでも僕たちは行動できる。その克服方法が存在し、知ることができるからだ。
それでも投稿しようと思う。その失敗から、成功を学んでいるからだ。
生きている間に苦痛を感じないときはない。
僕は科学的なやり方で成功する。
それは決して誰かに言われてやっていることではなく、自発性のもとに行っている。
自己主張が苦手な僕たちが
自分がわからない僕たちが
生き方に苦しんでいる僕たちが生きていく方法の一つとして、
科学を根拠にしてみるのも、いいのかもしれない。
もちろん、やらなきゃいけないことはない。あなたの自由だ。
みんなで、生きがいを感じて生きていけたら、うれしいです。
あれは私が小学校のころだったと思う。
母は大量の薬を飲んで、水を飲もうとしていた。
兄と僕が、力ずくで彼女の腕を抑える。
大量の薬が唾液で溶かされて、彼女の口から吐しゃ物のように漏れていた。
母は痛い痛いと泣いていた。
私は親が自分を殺そうとしている瞬間を目の前で見たことがある。
あれは私が中学のころだったと思う。
何が理由だったか、いつものような大きい喧嘩だったかは覚えていない。
台所に母がいた。兄はリビングの机の下に寝ていた。
彼らは口喧嘩をしていた。
僕は二階の自分の部屋で、下の様子をうかがっている。
最初、一階からガチャンッという音が聞こえた。母は陶器の皿を兄に投げつけたようだった。皿は外れ、兄の近くで飛び散ったのだろう。
兄にとっては慣れたものだった。
しかしその日は終わらない。
急に静かになった。
静寂。
静寂は恐ろしい。
一回からドタドタッと足音が聞こえた。
その足音は二階へ向かって激しく近づいてくる。
そして隣の兄の部屋の扉が強く開けられ、一瞬で閉じた。
僕は心臓を高鳴らせながら、ゆっくりと自分の部屋のドアに近づき、そっとドアを開く。
隙間から階段を覗くと、包丁を手に持った母がやわらかく階段を上っていた。
母に表情はない。いや、母の顔には無表情があった。僕は自ら作り出しているかのように思えた。
僕は恐怖を感じる前に扉を閉め、ベッドの横に準備したあった修学旅行で買った木刀を手に持った。
そして音をたてないように、ゆっくりと机を扉の前に移動させ、扉を開けられないようにバリケードを作った。
兄は自分の部屋に立てこもり、必死に扉のレバーを抑える。
母は扉の前で、甘い声を出す。
「ゆうちゃん、開けて?」
最初は甘い、しかし、激しさを帯びていく。
ドンッ。
ドンドンッ。
ドンドンンドンッ。
扉をたたく音が聞こえる。
「お願い、開けて?」
母の声は緊張していた。
僕はそこでなぜか安心した。よかった、正常に戻ってきていると思った。
その後、二時間くらいした後に、母は一回へ降りて行った。
翌日から、いつもと変わらない日々が続いていった。
私には母と、兄が一人いる。父はいない。
母は一人で二人の男を育てていた。
しかし、元の神経症的傾向や、家事や仕事、特にお金のことで悩み苦しんでいた。
彼女は人に嫌われないようにおびえて、空元気を他人に提示していた。
そのおかげで彼女はたぶん周囲からはいいひとだと思われていた。
私はそんな母を見て育った。
母は解離性同一性障害と、うつ病を抱えていた。彼女がうつ状態にあるとき、他人と接している時とはまるで別人になる。僕らがイメージする、人、ではなくなる。
毎日、金の悩みに憑かれ、自分を抑圧することを強迫され、僕らを育てることに生きてきた彼女の精神は、ボロボロだった。
兄も精神病だった。彼は強迫性障害だった。例えば水道の水を止めるとき、蛇口を三回は上下させたり、癖である指パッチンを右手でやったらもう片方の手でやらなきゃ気が済まなかったり、彼は彼のルールに囚われていた。高校生になってもおねしょをしたりしていた。
そんな彼は、偏差値が足りず、私立の高校に入学したが、出席日数が足りない以上に学校へ行っていなかった。よく悪さをして、母と一緒に学校へ呼び出されていた。そのたびに母はうつを発症していた。
僕と兄は仲が悪く、たまに接触すると暴力的なケンカになった。四歳下の僕に、勝ち目はなかった。
そんな環境の中、僕は育っていった。
そんな僕は、よく他人の顔をうかがうようになった。
そんな僕は、完璧であろうと努めた。
そんな僕は、自分をよく控えた。
そういう態度で生きれば、殺されることはなかった。
むしろ周囲の人は僕を褒めた。
僕は学級委員になったり、合唱コンクールの指揮者になったり、生徒会に入ったりした。
自分の優秀さを証明する何かが欲しかったのかもしれない、完璧な人間でなければならないと思っていたのかもしれない、多くの人に気に入られていると信じれる根拠が欲しかったのかもしれない。わからない。
しかし僕は一度も、誰かのために行動したことはなかった。
恐怖から逃げるように動いた。
能動的に行動することはなかった。
当時の僕はみんなの利益を考えていると思い込んでいたように感じる。
今振り返ればそんなことはないように思える。
みんなは僕を、人気者ランキングで一位に選んでくれるほどには称賛はしてくれていたが、みんなと僕は深い仲になれた感じはしない。
僕の思い込みかもしれない。相手は思ってくれているかもしれない。
ただ僕は、もっと仲良くならなきゃいけない、嫌われてはいけないという考えを繰り返していた。
だけどそう思うほど、僕は僕を表現することはできず、いいやつを提示し続けた。
そんな中学生だったある日、僕は崩れた。
僕は夜連が嫌いだった。夜連は土曜日の昼の練習が終わった後、指導者やOBや先輩や親たちが一斉に集まって、練習と偽ってバスケをして遊んでいた。
行っても楽しくない。楽しくないというか、気持ちが悪い。
部活の夜連が終わった22時後、いつも通りに先輩や友人に後輩、指導者や親御さん達へいいやつを提示し終わった後、僕は洗面所で号泣した。大体4時間は涙が止まらなかった。
溜まりにたまった負債が、崩れ落ちた。
僕は体に力が入れられず、壁を背に座り込んでいた。
ふと、泣いている自分の顔が気になり、洗面台の鏡をのぞいてみると、そこには弱い人間がいた。
僕は笑ってみた。パンパンに泣き腫れた顔をした僕が映っていた。
顔がおかしかったのではない。
今思い返してみても、笑ったらどうなるだろうと、好奇心が働いていただけだった気がする。
その体験をしても、僕の中に大きな変化はなかった。
その夜の次の日も、僕はいつも通り僕だった。
ただ一つ変化があるとするならば、心に、憎しみが芽生えていた。
僕は高校へ進学した。公立の高校だった。就職に有利な高校だった。
そうすることが、母の望みであり、僕の安全だったからだとおもう。
僕は高校時代を過ごし、就職した。
過去の僕や、周囲の人間の流れに沿ったからだと思う。
そうすることが、正直に楽だった。
僕は半年で退社した。
中学時代の苦しみが、僕の欠点が根本的な原因だった。
僕は退社した後、アルバイトをしながら、小説を書き始めた。
僕は停滞していた。
僕は小説を応募したが、落選した。
これも僕の欠点が原因だった。
僕の欠点。
それはまさに中学時代に根付いた僕の生き方だった。
他人に逆らうと危険だ。
いいやつじゃないと、完璧じゃないといけない。
自分を控え、受け身でなければならない。
そうやって僕は失敗して生続けた。
だけど気付いた。
小説に落選した時、今まで自分が行ってきた生きることへの態度が、間違っていたと。
しかし、どうすればいいのかわからない。
何か思いついても自信が持てない。自分に自信が持てない。
小説に落選してから数日後、Youtubeを見ていた僕はメンタリストのDaiGOの動画を見つけた。
僕はこれかな?と、少しだけ意識が向いた。
彼の科学を根拠に置く考え方にひかれた。
それからというもの、僕は彼の動画をよく見るようになった。そのたびに、深く信じるようになっていた。
僕は自分がわからなかった。そこで動画を見てみると、どうやら瞑想がいいらしい。
ヴイパッサナー瞑想といって、今この瞬間の自分を観察し、評価しないでただ実況する。というものだった。
僕は一日十秒から始めた。そうすることで習慣化しやすいという研究があるからだった。
三日、一週間、一か月と過ぎてゆき、次第に瞑想時間もエスカレートしていった。
三か月たって、僕は一日20分の瞑想が習慣化した。
瞑想をすることへの抵抗感がなく、あたり前のように行っている。
そのおかげで僕は、自分が感じていること、考えていること、思考の癖など、自分というものがわかり始めてきた。
そうして、僕は科学的な根拠を信用するようになった。
そうして、僕の欠点を改善していこうと思った。
僕の失敗、完璧主義、自己の抑圧、自己の無知。
僕は何より自分を知らないことが一番の失敗だった。
自分はどういう人間なのか。どういうとき、何を行うのか。
自分がしたいことは何か、できることは何か、やってみたいことは何か。
僕の他人とのコミュニケーションの失敗は、相手の都合のいい人間になることだった。
自発能動的な思いやりではなく、ただ服従していた。
嫌われないために、しなきゃいけないことは何か。
僕は自分を知るために、瞑想のほかに、自己省察の科学的方法や、ライフストーリー法を試していった。
ちなみに、この物語を描く目的に、自分を知るという目標もある。
僕は自分を主張しながら相手とコミュニケーションを得るために、アサーションのトレーニングを行った。
そのおかげで、バイト先の人や友人、今では母や兄ともコミュニケーションをとれるようになった。自分を殺している感覚がなくなり、むしろ生かしている感覚を覚えている。
物事を完璧に行おうとするのではなく、一日1%ずつ改善していくやり方に変えた。
自分を探してみると、やっぱり物語を描くことが好きらしいので、賞に応募して一回で成功してやろうと意気込まず、一作ごとにテクニックを追加していっている。成長する感覚がうれしくてしょうがない。
他人に言われたからやるのではなく、相手のためを考え、自分の能力を働かせることを主眼に置くことで、生きがい的な幸福を得ている。小説の目的がそれである。この前、物語を面白いと読者の方がコメントをくれた。
キリがない。
ほかにもたくさんの欠点と、それに対応した取り組みがある。
運動をしたり、脳トレの習慣も入れたり。
正直、新しいことへ挑戦するときのストレスを、克服はしてはいない。
習慣を続けてている間に、不安になることもある。
正直、あなたが見てくれているこの文章も、完璧にしたいと思っている。
つまり、全然ダメな作品だと思っている。
それでも僕たちは行動できる。その克服方法が存在し、知ることができるからだ。
それでも投稿しようと思う。その失敗から、成功を学んでいるからだ。
生きている間に苦痛を感じないときはない。
僕は科学的なやり方で成功する。
それは決して誰かに言われてやっていることではなく、自発性のもとに行っている。
自己主張が苦手な僕たちが
自分がわからない僕たちが
生き方に苦しんでいる僕たちが生きていく方法の一つとして、
科学を根拠にしてみるのも、いいのかもしれない。
もちろん、やらなきゃいけないことはない。あなたの自由だ。
みんなで、生きがいを感じて生きていけたら、うれしいです。