第6話 普通ってなんだろう?

文字数 13,949文字

 五月、ゴールデンウィーク明け。
 入学から一ヶ月が経ち高校生活にも慣れてきた。まだ同学年に友達と呼べるほどの人はいないけど、孤立しているわけでもない。知り合い以上・友達未満のクラスメートなら何人かはいる。授業にもちゃんと付いていけるし、僕にしては悪くない出だしだ。
 なにより、部活動がこんなに充実するとは思わなかった。
 女装させられるのは苦痛だけど、誰にも相手にされないよりはいい。中学の部活のように、いてもいなくても変わらない有象無象の補欠要員じゃない。
 鹿内光流がいなくては困る。
 そう思ってくれる仲間がいる。
 それだけで僕の高校生活は充実していると言えた。
 さて、今日も一日がんばろう。
 家から学校までは自転車で約十五分。電車やバスで通学する人が多いこの学校では近い部類に入る。慌ただしいのは嫌いなので少し早めに家を出て、ホームルームが始まる二〇分前には学校にたどり着く。
 教室にいる生徒は少ない。特に話し相手もいないので、いつもこの時間は自分の席で予習をしたり、本を読んだりして過ごす。時々、クラスメートとあいさつを交わすこともある。僕の席は廊下側の一番後ろ、扉付近なので背後によく人が通る。
話しかけられることは滅多にない。あっても男子だけだ。
 でも、この日は違った。
 不意に、横から声をかけてくる女子がいた。
「あの、ちょっといいかな?」
 声の主を見た途端、僕は椅子の上で仰け反りそうになった。
 女子哲学部の一年生、水澄智莉さんだ。
 まさか正体がバレた!?
 一瞬、心臓が止まるかと思ったが――
「このクラスに金山ひかりさんって子いる?」
 違った。
 でも、そうきたか。
 金山ひかりは僕が女子哲学部に連れて行かれた時、とっさに名乗った偽名だ。
 当然、実在しない。故にこう答えるしかない。
「ううん、このクラスには、そういう名前の人はいないよ」
「え、ほんと? おかしいな、これで全クラス調べたはずなのに……」
 水澄さんは怪訝な表情で首を傾げた。
 でも、それ以上しつこく聞くことなく、「ありがとう」と言って去っていった。
 ……まずい。
 どうやら僕に声をかけたのは偶然のようだが、この状況は非常にまずい。
いくら生徒数が多くても、学年名簿を調べれば〝金山ひかり〟がこの学校に存在しないことが分かる。そうなると、あの時あそこにいたのは誰だったのかという話になる。
 僕の女装姿は女子哲学部の部員だけでなく、コスプレ部の数人にも目撃されている。
 他にも目撃者がいるかもしれない。
 水澄さんの行動がきっかけで変な噂が広まったら……。
 いや、それより、このままでは水澄さんが気の毒だ。
 たった一度体験入部しただけ人間のことなど、すぐ忘れると思っていたのに、わざわざ探しにきてくれたのだ。そんな彼女が一人さまようのを放っておくわけにはいかない。
 さりとて正体を明かすわけにはいかないのが心苦しいところ。
 ひとまず先輩たちに相談してみよう。


 昼休み。
 小乗先輩、下倉先輩、僕の三人が部室で昼食をとる。
 上森先輩は先約があって来ないらしい。昼休みに集まるのは規則でも何でもないので、全員が揃わないこともある。二人いてくれただけでも運が良かった。
 時間が限られているので、まずはお弁当を食べる。
 それから話を切り出そうとしたところで、コンコンと部室の扉を叩く音がした。
 また水澄さんかと思い心臓が縮んだが、
「わたしよ」
 と大人っぽい声が聞こえてきたのでホッとした。
「どうぞ」
 小乗先輩の対応の後、扉を開けて入ってきたのは、女子哲学部部長の本居凜音先輩だ。
 本居先輩は僕の正体を知った上で秘密を約束してくれた良心的な人だが、今日は険しい表情をしていた。
「鹿内君に話があって来たのだけど、今いい?」
「はい、なんでしょう?」
「智莉さんがあなたのことを探しているわ。正確には、女装したあなたのことだけどね。知ってる?」
 やっぱりそのことか。
「……はい。知ってます」
「そう。それで、どうするの? あの子にも正体明かす?」
「い、いえ。正体を明かすのは、なしの方向で……」
「じゃあ、どうするの? まさかこのまま放っておくつもり?」
 突き刺すような眼光が、こちらを向く。
 放っておくなら正体を告げる。そう言いたげな口調だ。 
 僕は慌てて否定する。
「そんなつもりはないです! 今から先輩たちに相談しようと思ってたところなんです」
 そう答えると、本居先輩は険しかった表情を少しだけ緩め、空いている上森先輩の席に座った。
「そういうことなら、わたしも話し合いに参加させてもらうわ。いいわね、小乗君?」
「もちろんです」
 小乗先輩が快く返す。
 下倉先輩は眠たそうな表情を少しだけニンマリさせた。
 やっぱりこの人たち、哲学部を分裂させた割にはそんなに仲悪くないな。
 熊楠先輩と新井先輩はそうでもなさそうだったけど。
「では、あまり時間がない。さっそく議論を始めよう」
 最上級生は本居先輩だが、ここが男子部の部室ということもあって、小乗先輩が進行役を務めるようだ。
 っていうか、これも議論なんだな。
 本居先輩をゲストに加えた、男子哲学部第五回目の議論だ。
「先ほどのやり取りでだいたいの事情は把握した。まずは私の意見を言わせてもらおう。今回の件、光流君は知らぬ存ぜぬを通すべきだ」
「ええ!?
 予想外の意見に、僕は驚きの声を上げた。
「いいんですか? そんな……」
「正体を明かす気がないというのならそれが一番だ。でなければ、嘘を隠すために新たな嘘を付くことになる。それでいいのかね?」
 本居先輩に勝るとも劣らない眼光が、まっすぐ僕の目を見据える。
「ぅ……」
 反論できない。
「下手な小細工をすれば、かえって深溝にはまるだけだ。今なら傷は浅い。このまま忘れてもらうのが智莉のためであり、光流君のためでもある」
 さすがは小乗先輩。割り切る時はキッパリ割り切る、思い切りの良い発言だ。
 一見冷徹なように見えて、ちゃんと水澄さんを気遣っている点も見逃せない。
「以上が私の意見だ。次に、本居先輩はどうでしょう?」
「わたしも最初は忘れた方がいいと思ってたけど、あの子がそれを望まない以上は小乗君の意見に反対よ。あの子は本気で金山ひかりと会いたがってる。このまま放っておくなんて可哀想だわ」
 小乗先輩の淡々とした口調とは対照的な、感情に訴えかけるような口調。
「小乗君は知ってると思うけど、あの子、家がお金持ちって理由で昔から周りに恐れられてて、今まで親友と呼べる子がいなかったそうなの。高校でもさっそく悪い意味で有名になってしまったみたいでね、クラスメートから腫れ物扱いされているわ」
 水澄さんの一家が経営する水澄製菓は、お菓子業界では国内最大手の大企業だ。会社名と名字が同じなので隠しようがなかったのだろう。
「女子哲学部ではもちろんそんな扱いはしないけど、やっぱり学年が違うわたしたちとでは、なかなか親友というわけにはいかなくてね。そんな中、同学年の子が体験入部に来てくれたことを、とても喜んでいたの。同じ哲学に興味を持つ女の子なら、きっと仲良くなれるってね」
 あの時、僕は印象に残らないようなるべく積極的な関わりを避けていたというのに、水澄さんはそんなふうに思っていたのか。
「ほんの二時間くらい一緒に過ごしただけの間柄だけど、あの子にとって金山ひかりは希望だったの。大切な未来の友達だったの。そんなあの子の気持ち、分かってもらえないかしらね?」
 分からないはずがない。
 僕にだって親友と呼べる人がずっといなかった。部活の仲間は上級生ばかり。
 理由は違っても、水澄さんと僕は立場が似ているのだ。
 本居先輩の問いかけに、小乗先輩が冷静に答える。
「気持ちは分からないでもありません。ですが、光流君にどうせよと言うのです? まさか女装して女子部の部員になれとでも?」
「さすがにそんなことは言わないわ。どの教室を探しても見当たらない子が部活だけ出てきては不自然だからね。だから部活とは別の形で、あの子と金山ひかりが会えたらなって思ってたところなの」
「具体的な方法は、まだ検討中ということで?」
「そ。だから一緒に考えてほしいの。たとえ一時的にでも、あの子と金山ひかりが親友になれる方法をね」
「ふむ……」
 小乗先輩は顎に手を当て、視線を落とす。
 それから、僕の隣に座る細目の先輩に顔を向ける。
「下倉君、君はどう思う?」
「う~ん、本居先輩は相変わらず幻想的なことを言うんですねー。そういうの残酷だと思いません?」
 まったりとした口調だが意見は率直だ。先輩相手でも遠慮はしないらしい。
 本居先輩は毅然として返す。
「思わないわね。幻想だろうと現実だろうと、大事なのは本人が幸せかどうかでしょ? 幸せじゃない現実に何か意味はあるの?」
「あはは、それ議論し始めたら昼休みが終わっちゃうからスルーしますねー。でも、今回は本居先輩に味方しようかなって思ってるんですよー」
「へえ、どうして?」
「だって、これって水澄さんとお近づきになれるチャンスじゃないですかー」
 ああ、そういえば……。
 下倉先輩が男子哲学部に入る条件は水澄さんとのコネクションだったな。きっかけは交流会の時に作る約束だったが、それ以前にもチャンスがあるなら動いておきたいということか。
 事情を知らない本居先輩は眉を寄せる。
「どういうこと? あなたと智莉さんは、まだ知り合いですらないでしょう? まさか、財産目当てで近づくつもり?」
「違いますよー。投資家としてのコネクションが作りたいだけですよー」
「信用できないわね。……でも、まあいいわ。時間がないからスルーしてあげる。それより、あなたの意見を聞かせてちょうだい。そう言うからには何かあるんでしょ?」
「ありますよー」
 下倉先輩は猫背を少しだけ伸ばし、得意気に説明を始める。
「要するに、架空の設定を考えればいいわけですよねー。この学校に在籍しないはずの生徒が女子哲学部の活動に参加していた。なぜか? それは、引きこもりが学校に来る訓練だったんですよー」
 その突拍子もない意見に、僕は混乱した。
「え、訓練って、余所の学校でですか? それはいくらなんでも非常識じゃありませんか?」
「もちろんそうなんだけどー、まあ言ってしまえばバレなきゃいいわけで。幸い、この学校には一二〇〇人以上も生徒がいて知らない顔がいっぱいだから、ここの制服さえ着てれば部外者が校内にいても分からないでしょ?」
「そうね」
 本居先輩が冷静に首肯する。
「でも、引きこもりが一人でそんな大胆な行動を起こすのは不自然だわ。手引きした人間がいるはずよ。それは誰にするの?」
「うってつけの人物がここにいるじゃないですかー」
 下倉先輩は自分を指して言った。
「ついこの間まで引きこもりだったあなたが?」
 本居先輩が疑問視するのも当然だ。引きこもりに引きこもりが治せるのか?
「だからー、『二人で一緒に引きこもりから脱出しよう! そのために、まずは訓練だ!』ってことにすればいいんですよー。金山さんは気が小さいから、どうしても一人じゃ無理ってことで、訓練で一日だけこの学校に来たんです。もちろん、授業に参加するのは無理だから、部活だけってことで」
「その設定だと、あなたと金山ひかりはかなり親しい関係になるわね。どういう関係にするつもり?」
「親戚とかでいいんじゃないですかー? 恋人にしたら、それこそ不自然でしょ?」
「まあね」
 静かに頷く本居先輩。 
 それについては僕も全力で同意する。設定上のこととはいえ下倉先輩と恋人は困る。
 意見が一回りしたところで、小乗先輩がこちらを見てくる。
「光流君はどう思う?」
「ぼ、僕ですか……?」
「最終的に決めるのは君だ。我々は参考意見を出しているに過ぎない」
 厳しい物言いだが、そのとおりだ。なにもかも人任せにはできない。
 水澄さんのために、僕はどう動くべきだろうか?
 心情的には本居先輩の言うとおり、水澄さんと会って喜ばせてあげたい。でも、女装姿で女の子と友達になるなんて僕にできるのか? バレたら一巻の終わりなんだぞ?
 机の表面を見つめたまま、迷う。
 小乗先輩と本居先輩の意見はどちらも正しい。だが、どちらも満点ではない。
 では満点の答えがあるのかと言えば、そんなものはない。
 ……
 …………
 時間だけが無為に過ぎていく。こうしている間にも、水澄さんは存在しない人間を探し回っているかもしれない。昼休みが終わった後の授業にも集中できないかもしれない。
 下手をすれば明日も明後日も……。
 やっぱり、このまま放っておくわけにはいかない!
 僕は顔を上げる。
「決めました。金山ひかりとして水澄さんに会います。でも、その……どういう形で会えばいいか分からないから、アドバイスしてください!」


 放課後、部室。
「俺がいない間にそんな話になってたとはな……」
 事情を聞いた上森先輩が浮かない顔でつぶやいた。
「すみません、なるべく早く相談した方がいいと思って……」
「ひかるちゃんを責めてるわけじゃねえよ。本居先輩が来たんじゃ、どのみち黙ってるわけにもいかねえしな」
 ちなみに、昼休みと違って今は女装している。
 そのせいか、僕の向かい側に座る上森先輩の視線が若干熱い気がする。
「で、設定はそれでいくとして、水澄ちゃんって子と会う場所や日時はどうすんだ?」
「日時は明日の放課後だ」
 答えた小乗先輩は、めずらしく腕を組んで座っている。表情も微妙に固い。
 本居先輩の意見が通ったからだろうか。
「ひかるさんと智莉には部活を休んでもらい、学校の外で会ってもらう。場所は未定だが、ひかるさんはまず下倉君の家に行き、そこで着替えてから待ち合わせの場所に向かう手順だ。もちろん、今着ている女子の制服でいい。いわゆる制服デートというものだ」
「デート!? 女の子同士でか?」
 上森先輩が腰を浮かせて興奮気味に食いつく。
 この人は可愛いければ何でもありなのか?
「いや、今回はダブルデートという形でいくことになった。ひかるさんと下倉君の意見を尊重してな」
「はぁ!? 下倉が参加するのかよ?」
 今度は腰を浮かせるだけでは済まず、椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がる上森先輩。
 幸い椅子は倒れなかったが、小心者の僕は一瞬ビクッとしてしまう。
 一方、下倉先輩は腕枕に顎を乗せた状態で妙にニコニコしていた。
「そだよー。なんと言っても発案者だからねー。それに、水澄さんとのコネクションの件もあるしねー」
 この人、まったりしてる割に意外と肝が据わっているな。行動力もあるし、ちょっと変だけどある意味すごいという点では、他二人の先輩に引けを取らないかもしれない。
「じゃあ、もう一人は俺だ! ひかるちゃんの相手役は俺が務めるぜ!」
上森先輩が親指で力強く自分を指す。が、即否定される。
「ダメだよー。もう一人は小乗君って決まってるから」
「なんでだよ!? デートといったら百戦錬磨の俺の出番だろう?」
「本居先輩から、絶対に上森君だけは参加させるなって言われてるんだよー。だから消去法で小乗君。逆らったら本居先輩に粛清されるから、やめた方がいいと思うよー」
「ぐ……」
 上森先輩が途端に萎縮する。
 これはさっき知ったことだが、本居先輩は剣道と合気道の有段者らしい。背も一七○センチ以上あるし、並みの男では手も足も出ないほどの腕前だとか。
 この様子だと、上森先輩はその腕前を目の当たりにしたことがあるようだな。
 いや、すでに何度か粛清されているな。
 上森先輩が諦めるように着席すると、小乗先輩が仕切り直す。
「とにかく、計画の概要は以上だ。あとはデートの場所だが、これについては経験が豊富な上森君の意見を聞きたい。この学校から近すぎず遠すぎず、高校生が二時間ほど遊べるスポットに心当たりはないだろうか?」
「えー、デートには参加させないくせに、そういうところだけ利用するのかよ。自分らが行くとこくらい自分らで考えてくれよ」
 上森先輩は、ぐったりと机に伏せてしまう。
「ひかるさん。すまないが、あれを頼む」
「はい……」
 小乗先輩はこうなることを予想していたらしく、事前に上森先輩の復活法を教えてくれた。
 できればやりたくなかったのだが、このまま拗ねられっぱなしでは困るので仕方がない。
 ……うぅ、恥ずかしい。
 僕は席から立ち、向かいの席で突っ伏す上森先輩に歩み寄る。
「ね、ねえ、和君?」
「ふへ!?
 名前で呼んであげた途端、上森先輩はビクンと上体を起こした。
 そこへ、すかさず顎を引いて上目遣い。
「わ、わたしのために、デートのこと、教えてほしいな」
「ふ……」
 ふ?
「ふおおおおおおおー!」
 大復活を遂げた彼は、女の子が喜ぶデートスポットをたくさん教えてくれました。
 僕は恥ずかしくて破裂しそうでした……。


 僕は今、十五年と七ヶ月の人生の中で最も緊張している。
 部室の中で女装するだけでも恥ずかしいのに、この格好で街へ出かけるというのだから当然だ。しかも、水澄さんに正体がバレないよう注意しなくてはならない。無論、周囲の人たちにも。
 まさか人生初のデートが、こんな形で行われることになろうとは……。
 もっとも、今日は僕と水澄さんのデートではなく、
 金山ひかり×小乗龍樹
 水澄智莉×下倉宗
 という組み合わせのダブルデートだ。二人きりでないのが救いといえる。
 放課後、まずは女装するために下倉先輩の家に行く。徒歩十五分程度の距離なので、自転車なら五分少々だ。下倉先輩の母親に見つかっては大変なので、そこは何とか上手くすり抜けてきた。コンタクトレンズは自分でつけられるようになった。
 それから、下倉先輩と二人でバスに乗り、待ち合わせ場所である郊外のショッピングモールへと向かう。
 十分ほどでモールの敷地内にあるバス停に着き、バスから降りると、小乗先輩と水澄さんの姿がさっそく目に入った。先に来て待っていてくれたようだ。
「金山さ~ん!」
 リスの尻尾のようなミニサイズのポニーテールを揺らしながら、水澄さんが笑顔で駆け寄ってくる。
「よかったぁ、また会えて。話は聞いたよ。びっくりした。違う学校の人だったなんて」
 例の話は伝わっているようだ。
 僕は胸の前で手を合わせ、真っ先に謝る。
「ごめんね、あの時は勝手にいなくなったりして」
これは演技ではなく本心だ。あの時から、ずっと謝りたいと思っていた。
 水澄さんは優しく返してくれる。
「ううん、具合悪かったんでしょ? しょうがないよ。今はもう平気なの?」
「うん。平気だよ」
「そっか、よかったぁ」
 猜疑心の欠片もない、嬉しそうな表情。
 キリキリと胸が痛む。小乗先輩が言っていたとおり、これから嘘を嘘で塗り固めなければならないのだ。でも、絶対に表には出さないぞ。
 小乗先輩が事務的な口調で言う。
「智莉、紹介しよう。こちらが男子哲学部二年の下倉宗君だ」
「はじめましてー。小乗君から話は聞いてるかなー?」
 眠たそうな顔は元々なので仕方ないが、さすがに初対面の女子相手とあって背筋はちゃんと伸ばしている。
「あ、はい、聞いてます。はじめまして」
 水澄さんは早口で返し、軽くお辞儀をする。
 それからすぐに視線を僕の方へと戻してきた。
「最初はどこ行く? わたしはカフェがいいなぁ」
 あ、あれ? 下倉先輩にはそれだけ?
「金山さんはどこ行きたい?」
 尋ねながら、水澄さんは僕の手をそっと握ってきた。
 わっ……!
 瞬間、全身に電流が走ったようにビクッとする。少し遅れて心臓が大きく跳ねる。
「ね、行こ?」
「う、うん」
 僕は引かれるがまま水澄さんに付いていく。抗う術もなければ理由もない。
 女の子に手を握られるなんて初めてだ。想像していたよりも、ずっと柔らかくて、暖かい。
 なんだか意識がふわふわして足元がおぼつかない。
 下倉先輩の様子が気になるが、確認している場合ではなかった。一応、付いてきてはいるようだが……。
 店内は多くの人で賑わっていた。映画館をはじめ、おしゃれな洋服店やカフェ、書店やスポーツ用品店まで揃う大型ショッピングモールだ。専門店街には若者向けの店が多いので、僕たちみたいな学校帰りの学生も多い。
「あ、そこのカフェがいいな。どうする、金山さん?」
「あ、うん。いいよ」
「じゃあ決まりだね。わたしなに頼もうかなぁ」
 後ろを歩く男子二人には意見一つ聞かず、無邪気な顔で話を進めてしまう水澄さん。
 小乗先輩にはあらかじめ話を通してあるとしても、下倉先輩は完全に空気扱いだ。
 いいのかな……。一応は君のデートの相手だよ?
 下倉先輩は抗議の声一つ上げない。まあ、彼の性格からして何も言えないのだろう。
 ちょっと可哀想になってきたが、僕にはどうすることもできない。
 カフェの前まで来たところで、水澄さんは「あ、ごめん」と声を上げて振り返った。
「わたし、先にハガキ出してくるね。覚えてるうちに出さないと、すぐ忘れちゃうから。二人で先に入っててくれる?」
 今のは小乗先輩と下倉先輩に言ったようだ。 
 じゃあ、僕は――
「金山さんも一緒に行こ?」
 水澄さんが、また手を引いてきた。
「え? あ、うん」
 ハガキを出すくらいで一緒に行く必要があるのかとは思うが、ここは水澄さんの言うとおりにしてあげる。こんなにちっちゃくて柔らかな手を拒絶するなんて、僕にはできない。
 郵便ポストはバス停の近くにあったので目的はすぐに達成した。これなら往復で一分もかからないだろう。小乗先輩たちは、まだレジで会計すら済んでいないかもしれない。
 ところが、水澄さんは店内のカフェには戻ろうとせず、反対側に手を引いてきた。
「え、え?」
 さすがに、これに黙って従うわけにはいかない。
「待って、どこ行くの?」
「あっちの公園。二人でお話したいの」
 さっきまでの笑顔が、なぜか真顔になっていた。
 ゾクッと悪寒が走る。
 どういう意味だろう? まさか、僕の正体に気付いて――いや、それなら、こんな風に手を握ったりはしないはず。
「で、でも、先輩たちを待たせたままじゃ……」
「大丈夫。龍樹君にはそれとなく伝えておいたから、そのうち気付くでしょう。あの下倉って人はハッキリ言って邪魔なの。わたしは金山さんとお話したいの」
 哀れ下倉先輩。でも、今の僕に先輩を気遣う余裕はありません。許してください。
「う、うん。じゃあ、公園に行こっか」
 こうしてダブルデートはあっけなく終わり、下倉先輩の計画は水泡に帰した。後で男子哲学部をやめるなんて言わなきゃいいけど……。
 それにしても水澄さん、見た目の可愛らしさとは裏腹な部分も持ってるんだな。
 女の子って意外と怖いな。


 ショッピングモールは駅と連結しており、その駅の向こうには広い緑地公園があった。
 運動場や芝生広場の他、デイキャンプ場、ラベンダー園など多くの施設を備えた市民の憩いの場である。子連れの母親や散歩をするご老人、サッカーをする小学生の姿が目に付く。僕も幼い頃は両親に連れられてよく来た場所だ。
 公園の中にあるウォーキングコースを、水澄さんと二人並んで歩く。
 手はつないだままだ。まるで僕が逃げ出すのを阻止するかのように、さっきからずっと握っている。もう女の子に手を握られて喜んでいられる心境ではない。わざわざ二人で抜け出してまで、いったい何を話そうというのか? 
 一応、あらゆる質問に答えられるよう事前に準備はしておいたのだが……。
 やがて、水澄さんが口を開く。 
「ねえ、金山さんはどうして哲学に興味を持ったの?」
 よかった、普通の質問だ。それに、表情も口調も元の明るい感じに戻っている。
 正体はバレていないみたいだし、この質問なら嘘を付く必要はない。
「ええと、夢中になれるものがなかったからかな。わたし、今まで熱中できるものがなかったせいで親しい友達がずっとできなくて、将来どうすればいいのかもわからなくて……。でも、そうして悩むことが哲学の始まりなんだって、あの人から教わったの」
「あの人?」
「小乗先輩のことだよ」
「そういえば、龍樹君と知り合いだったの?」
「うん」
 金山ひかりは下倉宗と親戚同士という設定なので、彼が所属する男子哲学部とつながりがあっても不自然ではない。
「わたしが引きこもりを治すために、あの学校に訓練しに来たって話は聞いてると思うけど、その時、男子哲学部の人たちにいろいろ手伝ってもらったの。この制服も、上森って先輩のお姉さんに貸してもらったんだよ」
「そうだったんだ……。あ、それで男子部の部室にいたの?」
「うん。本居先輩が会議から戻ってくるまでここで待つようにって言われたの。そしたら、いきなり水澄さんがやってきて……。びっくりしたよ」
「そっか。余計なことしちゃったかな?」
「ううん。どのみち女子哲学部に行くつもりだったから同じだよ」
 辻褄は……合っているはずだ。
 今度は僕が質問する。
「水澄さんは、どうして哲学部に入ったの?」
「う~ん、わたしも金山さんと似てるかな。わたし、中学までは私立の学校に通ってたんだけど、なかなか周囲に馴染めなくてね。それで自分の生き方に疑問を感じるようになって、いろいろ考えてるうちに、哲学に行き着いたの」
 水澄さんの歩く速度が少しだけ遅くなる。うつむき加減で表情はよく見えない。
「ねえ、わたしの家が水澄製菓って会社を経営してるのは知ってる?」
 僕も水澄さんに合わせ、少しだけゆっくり歩く。
「うん、聞いたよ。水澄さんが経営の勉強してるってこともね」
「経営学はお父さんに言われて仕方なくやってただけだよ。わたしは会社の経営なんか興味ない。普通の女の子として生きたかったの。でも、周りはわたしを普通とは思ってくれなかった。どんなに普通っぽく振る舞っても、普通の女の子として見てもらえなかった」
 感情が抜け落ちたように無気力な声。きっと過去に辛いことがあったのだろう。
 でも、すぐに生気を取り戻す。
「それでね、ふと疑問に思ったの。みんな普通って言葉を何気なく使ってるけど、じゃあ普通っていったいなんだろうってね。よくよく考えてみると、絶対的な普通なんてどこにも存在しない。何が普通で何が普通じゃないかなんて、結局は人それぞれだもん。そしたらね、普通にこだわるのが馬鹿馬鹿しくなってきたの」
 少し自嘲気味に微笑む水澄さん。
「だったら、お父さんの言うとおり経営の勉強をして将来は会社を継ぐかって言ったら、それはそれで違う気がするし。余計にワケわかんなくなっちゃったんだよね。そんな時、本居先輩と出会って、いろいろ教えてもらって、わたしも哲学に興味を持ったの」
「そうなんだ……」
 僕が小乗先輩から影響を受けたように、水澄さんは本居先輩から影響を受けてたんだな。
「あ、ごめんね。長々と一方的にしゃべっちゃって」
「ううん、水澄さんのお話が聞けて嬉しいよ」
 こちらが話を聞いている間はボロが出ることはないので、むしろありがたい。
もちろん、水澄さんのことが知れて嬉しいのは嘘じゃない。
「ねえ、金山さん」
 また水澄さんが手を引いてくる。
「あれ、一緒に食べない?」
 見ると、公園の駐車場付近にドーナツの移動販売車があった。いかにも若者向けといった明るい感じのお店だ。実際、僕と同じ年頃の女の子たちが列を作っている。
「うん、いいよ」
 僕と水澄さんは一緒にドーナツと飲み物を買って、公園のベンチに座った。
 夕方になって気温が落ちてきたこともあり、揚げたてのサクサクドーナツとホットティーがおいしい。水澄さんが選んだのは、ホワイトチョコでコーティングされたドーナツとホットココアだ。
ほんとに甘々なのが好きなんだな。さっきまで固かった表情が、いつの間にか綻んでいる。小さな口でちょこっとずつ食べてるところが小動物みたいで可愛い。
 僕は前々から気になっていたことを聞く。
「そういえば、水澄さんと小乗先輩はどんな関係なの? 従兄とか?」
「ううん、兄妹だよ」
「え、兄妹!?
「そ。ただし、お母さんは別だけどね」
 しまった。この質問は失敗だった。
「ごめん、聞かない方がよかったね……」
「ううん、わたしは気にしてないよ。でも、龍樹君は気にしてるみたいだから、この話はやめとこっか」
「うん」
 水澄さんが気の利く子でよかった。本人がいないところで本人が気にしていることを探るような真似はしたくない。
「あ、でも、これだけは言わせて。家庭の事情はともかく、わたしと龍樹君は仲が悪いわけじゃないからね。ただ、名字が違うし住んでる家も違うから、兄妹って実感があんまりないだけ。基本いい人だとは思ってるよ」
「そっか。でも基本ってことは、やっぱりちょっと変わってるんだ?」
 率直に聞くと、水澄さんは少し呆れた感じで微笑んだ。
「うん、変わってる。あんな高校生、どこにもいないよ」


 それから、僕は水澄さんといろんな話をした。
 好きな食べ物のこと、得意な教科のこと、中学校の時のこと、小学校の時のこと。
 どれもこれも何気ない日常会話だった。要するに、ただのおしゃべりだ。
 でも、水澄さんは楽しそうだった。
 僕は口調に気をつけたり辻褄合わせをしたりでとても楽しむ余裕はなかったけど、水澄さんの明るい様子を見られて良かったと思う。
 不意に、水澄さんの鞄から電子音が聞こえてきた。
「ちょっとごめんね。誰だろ?」
 携帯メッセージの着信音のようだ。
「龍樹君からだ。《もうじき暗くなる》だって」
「それだけ?」
「うん、それだけ」
 ずいぶん簡潔なメッセージだな。でも、言いたいことは分かる。
僕と水澄さんは互いに顔を合わせ、クスッと笑った。あの人らしい。
「じゃあ、お兄さんが心配してるみたいだし、そろそろ帰ろっか?」
「うん。でもその前に、金山さんの連絡先を教えてくれる?」
 きたか。
 当然ながら、鹿内光流の連絡先を教えるわけにはいかない。対策は考えてある。
「あ、それなんだけど、実はわたし携帯電話は持ってなくて……。パソコンのメールアドレスでもいいかな?」
 パソコンのメアドならいくらでも作れるので、金山専用を登録して使えばいい。
加えて、パソコンなら携帯電話ほど密に連絡が取り合えない。
いつかお別れする時のためにも、このくらい不便にしておいた方がいい。
「うん、いいよ」
 水澄さんから快い返事をもらった後、僕はメモ用紙にメールアドレスを書いて手渡した。
「ありがとう。帰ったらメール送るね」
 罪悪感という名の刃がザクザクと心臓に突き刺さってくる。本来、男子が彼女と連絡先を交換するには途方もない努力が必要なのだ。それをこうもあっさりと……。
 もう後には引けない。絶対に、なにがなんでも正体がバレないよう上手く事を運ばなければ――確実に社会的に死ぬ。
 それから、待ち合わせ場所であるショッピングモールの正面入口付近に行くと、小乗先輩が一人で待っていた。僕が「あれ?」という顔をすると、小乗先輩は「彼は先に帰ったよ」と短く答えてくれた。もちろん、下倉先輩のことだ。
 ……まあ、正しい判断だったと思う。今しつこく食い下がっても、かえって印象を悪くするだけだ。単にショックで帰っただけかもしれないけど。
 小乗先輩が水澄さんに尋ねる。
「智莉、お迎えは?」
「さっき外の駐車場で待ってるって連絡があった」
「そうか」
 さすが大企業のお嬢様。ちゃんとお迎えが来てるんだな。
「では、金山さんは私が家まで送るから、智莉はもう帰りなさい」
「うん」
 返事の後、水澄さんが名残惜しそうにこちらを見てくる。
「じゃあ金山さん、またね。メールのお返事待ってるね」
「うん。またね」
 別れ際、互いに小さく手を振る。
 水澄さんが背を向け、離れていったところで、僕はホッと肩の力を抜いた。
 よかったぁ、なんとかバレずに上手くいったみたいだ。今日のところはだけど。
 さて、面倒だけど、これから下倉先輩の家に荷物を取りに行かなきゃな。着替えはどこでしようか――
 不意に水澄さんが振り返り、早足でこちらへ戻ってきた。
 そして、迫るような勢いで僕の目の前までやって来る。
「ど、どうしたの?」
 思わず半歩を引く。まさか気付いた……とかじゃないよね?
「あのね……」
 水澄さんは少し間を置いた後、今にも泣き出しそうな顔で僕を見上げてきた。
「また会えるよね? また、急にいなくなったりしないよね?」
 心臓がぎゅっと絞られるみたいに痛くなる。今までで、一番痛い。
 でも、覚悟はもう決めた。
 水澄さんに親友が見つかるまでの間、僕が代わりになってあげるのだと。
「大丈夫だよ、水澄さん。絶対また会おうね」
「うん、約束だよ」
 今はこれでいい。今は……。
 水澄さんの後ろ姿が見えなくなった頃、小乗先輩がつぶやくように言う。
「厳しい道のりになるな」
「すみません、大変なことに巻き込んでしまって……」
「君が悪いわけではない。むしろ今は感謝している。あの子のあんな顔は初めて見たよ」
 よかった。やはり僕の選択は間違っていなかったのだ。
「私にできることがあれば何でも言ってほしい。あの子のために、できる限りの協力はする」
「はい……」
「では、帰ろうか」
 僕は小乗先輩と並んで外へ出る。
 西の空で夕日が沈みかけていた。


 家に帰ってパソコンを立ち上げると、さっそく水澄さんからメールが届いていた。

《今日は楽しかったよ。よかったら、また女子哲学部に来てね。本居先輩も熊楠先輩も新井先輩も、みんな大歓迎って言ってたよ。今度は、わたしも潜入を手伝うからね♪》
 
 あはは、水澄さん意外と大胆だな。まあ冗談半分だとは思うけど。
 こっちも冗談半分で返した方がいいのかな? 冗談じゃなかったらどうしよう?
 少なくとも本居先輩が大歓迎ってことはないはずだけど……。
 返事に迷っているうちに、また水澄さんからメールが届いた。件名は『追伸』とある。
 開いてみると、たった一文。

《今度は二人きりでデートしようね》

 え……!?
 ドクン、と心臓が跳ねる。全身が急速に熱くなり、汗が噴き出してくる。
 女の子からデートを申し込まれるなんて初めてだ。
 でも、これは鹿内光流に対してのメッセージではない。水澄さんが誘っているのは、あくまでも金山ひかりだ。落ち着け……落ち着け……。
 言い聞かせながら深呼吸をして、鼓動を鎮めていく。
 しばらくして平常心を取り戻したところで、新たな疑問が浮上してきた。
 女の子同士でデートって普通にするものなのかな? そこのところはよく分からないけど、軽い冗談とか比喩的表現とか、そういうものだよね? 
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