番外編

文字数 6,270文字

 俺が神の子だなんて嘘だ。俺のことを普通の人間だと言ってくれた彼女はもういない。それでもあの瞬間だけは……自分が『普通の人間だ』と感じることができたのに。
 今年も空から雪が舞い降りる。俺はそっと手袋を外すと、手のひらに雪を乗せて、静かに溶かした。


 ――母を殺して数年。十七歳になった俺は、神学校に進学し、父と一緒に教会で暮らしていた。
 牧師だった父は、人の命を奪うことのできる手を持つ俺を、神の子だと言って回った。実際に信じていた人間がどれだけいたのかは知らないが、礼拝に来る信者の多くが妻を早くに亡くした父を見て、同情していたのはわかる。
 父と一緒に暮らしていた俺に、周りの人が『お父さんを支えてあげてね』とよく言っていたことを覚えている。
 厄介な手を持っている俺は、このまま社会に出られないとわかっていた。だから、神学校を卒業したら、父の跡を継いで、牧師になろうと考えていた。
 母親を殺してしまったことを、一生悔いていく。そのつもりだったのだ。

 十二月のある日――
「寒ぃな……」
 冬の礼拝堂は冷える。普段礼拝が行われているときは暖房を入れるのだが、ただ掃除をしているときは電気を切っていて、寒いままだ。
 俺は礼拝堂の中を、モップで掃除していた。そのとき、ギィと扉が開く音が聞こえた。誰
か入って来たみたいだ。
「あの、牧師さん……いる?」
 若い女の子の声だ。俺は反射的に身を隠す。
 今日は礼拝のない日。だとしたら悩み相談か? しかし俺は話を聞いてあげることはできない。俺が応じてあげたいところだが、この仕事は父のものだ。
 俺はまだ神学校のしがない学生で、彼女を導いてあげられるような大人でもない。将来的に牧師にはなりたいと思っているが、まだそのときじゃない。
 カタン。
 こっそり教壇のうしろにあるドアから出て行こうとしたが、モップを倒してしまった。静かな教会にその音が響くと、背中に彼女の視線を感じる。
「牧師さん、話を聞いてくれない?」
「……わかりました」
 ここまで来たら聞いてあげるしかない。しかし振り向こうとしたところ、彼女は「あ」と小さく叫んだ。
「あたしは穢れた人間だから……顔は見ないで」
「…………」
 俺は後ろを向いて立ったまま、女の子が口を開くのを待つ。しばらくして、女の子はぽつぽつと話し始めた。
「あたしは生まれた頃から父とふたり暮らしなの。父のためにバイトをして、ふたり分の生活費を稼いで……。それでも父はお酒を買って泥酔しては私を嬲って……。あたしはきっと、なにか自分でもわからない罪を犯してるんだと思う」
「だからここで祈っているんですか?」
「うん」
 俺は言いしれない怒りを感じた。親が悪いのに、彼女は自分を責めている。しばらくすると、嗚咽が聞こえてきた。辛かったんだろう……いや、今でも辛いのだろう。
 もし彼女の顔を見られるなら、どうにかして励ましてやりたい。『君が悪いんじゃない。悪いのは他の人間だ』と。
 だが、彼女はそれを望んでいない。だから俺に顔を見せたくないと言っている。
 俺は仕方なくつぶやいた。
「……好きなだけ祈って行ってください。それで気が休まるのなら」
 バケツとモップを持つと、俺は彼女に顔を見せないまま教会から出て行った。

◇◆◇

 それから数日経った。俺は薄情なことに、そんな女の子のことはすっかり忘れて、冬休み前の試験で頭がいっぱいだった。
 学校が終わって帰る途中、スーパーの前に大きな人混みが見えた。何ごとか気になった俺は、野次馬に紛れて前に進む。
「離せっ! あたしは何もしてないっ!」
「嘘つけ! ケーキを万引きしただろうっ!」
 セーラー服を着た不良っぽい女の子が、手と脚を引っ張られ、お店の中に連れていかれようとしている。
 万引きはいけないことだけど、さすがに大人四人がかりで連行しようとしているのはみていられない。それに……。
「お前みたいないかにも貧乏人みたいなガキは、一回鑑別所にでも送られればいいんだ!」
 いくら悪いことをしたとは言え、そこまで言われるのはひどい。女の子はキッと大人たちをにらみつけているが、目の端には涙の粒が見える。
 俺は自然と行動に出ていた。
「待ってください。彼女、俺の知り合いなんですよ」
「君は……確か牧師さんの息子の?」
「俺からしっかり言っておきますんで、今日は解放してあげてくれませんか? もちろん万引きしたケーキ代は払いますから」
「グリムくんが言うなら仕方ないな……。ガキ、助かったな!」
「痛っ!」
 大人たちがいきなり手を離したせいで、身体が地面に落とされる。
「大丈夫か?」
「……あんた、偽善者?」
 今度は大人じゃなく、俺に鋭い視線を向けてくる彼女。俺はそんな彼女に怯えることなく、ただ首を振った。
「そんなつもりはない。ただ見ていられなかっただけだ。大体牧師なんて最初から偽善者だろ」
 そう言うと、彼女はくすっと小さく笑った。
「あんた、面白いね。牧師の息子なのに、自分から『偽善者』だなんて……。あたしはイブ。助けてくれてありがと」
 手袋をしたまま、彼女の手を握って身体を起こしてやると、俺も自己紹介した。
「グリムだ。親は近くの教会で牧師をしてる。よかったら寄っていくか?」
「えっ……」
 戸惑うイブに、俺は手にしていたケーキを見せる。
「このイチゴのショート、二個入りだろ? 金払ったの俺だし、お前も食べたかったんなら、一緒に食べようぜ」
 俺が提案すると、イブは少し照れた風に顔を赤くして、うなずいた。

「飲み物は紅茶でいいか?」
「あ、うん……」
 イブは落ち着かないといった様子で、室内をきょろきょろ見渡す。教会の裏手にある俺と父さんの家は、一階建てのこじんまりしたものだ。
 父さんは今日、クリスマス前ということもあり、宗派の勉強会に出ているらしい。準備ができると、俺はトレイにケーキと紅茶を乗せ、運ぶ。
 イブの前に置くと、彼女は目をキラキラと輝かせた。
「わぁ、うまそう……! た、食べていいの?」
「どうぞ」
「いただきますっ!」
 フォークで大きく切って口に入れると、イブはなぜか涙を浮かべた。
「ど、どうかしたのか?」
「ごめん……あまりにもおいしくて。ケーキ、食べたことなかったんだ」
 ケーキを食べたことがないと聞いて驚いたが、イブは小さい声でその理由を話し始めた。
「うち……クリスマスやったことないんだよね。誕生日も。でも、クリスマス近いでしょ? クリスマスケーキを食べることができたら……あたしも人並みの人生、送れてるって実感できるかなと思って」
「人並みの人生……?」
 たずねると、一瞬イブは黙った。言いたくないことだったら、無理に話してもらう必要はない。俺は話題を変えるために、紅茶のおかわりはいるかと聞こうとしたが、彼女は覚悟を決めたように口を開いた。
「あ、あたしね、その……父さんにいじめられてるっていうか。小さい頃からちょっとうまく行ってないんだよね。自分で言うのも嫌だけど……」
 一生懸命笑顔を作ろうとしている彼女だが、息をひゅっと吸い込むと、また泣きそうな顔に変わる。
「あたしまるで家畜みたいに生きてるなって」
「家畜って……」
「ううん、家畜以下かも。イラついたら蹴られるし、必死に貯めたバイト代も全部奪われる。ヤリたくなったら襲われる……人間としての尊厳なんて、私には生まれたときからなかったんだよ。穢れてるよね」
 その言葉を聞いた俺は、先日教会を訪れた女の子のことを思い出した。あれは……彼女だ。
イブは、神に助けを求めに来た。悲し気に語るイブの手を、俺は握ってやりたかった。だけどそれは無理だ。手袋をしているから命を奪うことはないだろうけど、俺の手は人を殺したことがあるから。
 イブは俺みたいな本当の罪人じゃない。彼女が例え穢れていると自分で言ったとしても、俺はそう思わない。誰がなんと言おうが、俺は彼女のことを純真無垢だと信じている。
 彼女が普通の幸せな家庭に生まれていたなら、きっとこんな風にはならなかったはずだ。盗みは確かに罪である。だが、彼女はただひとかけらの幸せを求めていただけなんだ。
「ねぇ、礼拝堂に寄っていってもいい?」
 ケーキを食べ終えたイブは、涙を拭きながら俺にたずねた。首を縦に振ると、彼女は笑った。
「盗みをしたこと、きちんと懺悔しないといけないから。それと……あんたに会えたことにも感謝したい」
「俺は何もしてないけど」
「こうやってケーキとお茶をごちそうしてくれたでしょ? ……こんな風にしてもらったの、初めてだったから」
 立ち上がると、俺たちふたりは礼拝堂へと向かった。
中は相変らず寒い。イブはつけていたブレスレットをおもむろに外す。
「それは?」
「ああ、これ? パッと見わからないかもしれないけど、ロザリオなの」
 ロザリオを手にすると、イブはひざまずき、目を閉じた。
 俺もその横で神に祈る。『彼女にこれ以上の不幸が降りかかりませんように』と――

「すごい! 雪が降ってる!」
 外に出ると雪がちらちらと降り始めていた。それを見たイブは、嬉しそうにくるくると回る。
「こうやって手のひらに雪を乗せようとしても、すぐ溶けちゃうね」
 ゆっくりと舞い降りてくる雪を見るため、俺が空を仰いでいると、イブは不思議そうにたずねた。
「あんたさ、その手袋で雪に触れたら濡れちゃうんじゃない? 取ったら?」
 イブはあっさりというが、俺は……。
「この手は呪われてるんだ」
 そう言っても彼女には何のことかわからないようだ。あまり人には話さないことだが、イブは自分の身の上を包み隠さず話してくれた。だったら俺も話すべきか。
「俺が触れると、人が死んでしまう。だから手袋は外せない」
「ふふっ、そんなわけないでしょ! ありえないよ」
「……見ててくれ」
 俺はゆずの実を木からひとつ取ると、手袋を外してそれに触れる。するとみるみるとゆずはからからになっていく。最後にはスカスカな茶色い出がらしみたいなものが残っただけだ。
「うそ……」
 これにはさすがのイブも驚いたようだ。目を丸くしている。
「実際俺は、母親を殺してるんだ。父は俺を『人の命を奪う権利がある神の子』って言いふらしているが……どっちにしろ、この手は俺にとって厄介なものなんだよ」
「……ふうん、でもさ」
 イブはじっと俺の手を見つめたあと、にこっと笑った。
「怯えることなんて何もないと思うよ。見てて」
 手を空に掲げると、雪が落ちてくるのを待つ。イブの手のひらに落ちた雪は、自然と彼女の体温で溶けていく。
「ほらね? あんたもやってみてよ」
 イブに言われるがまま、手袋を取った手に雪が降るのを待つと、ふわりと欠片が落ちて、ゆっくりと消えていった。
「雪はどんな人間に触れても溶ける。神の子だかなんだか知らないけど……あんたも普通の人間だよ」
 微笑む彼女はまるで聖母のようだ。何度祈っても、自分の中で悔い改めても、ずっと残っていた胸の中の重い塊が、だんだんと溶けていく。今まで自分を責めて来た俺だったが、初めて救われた気がする。俺も普通の人間。だったら……。
「お前も普通の人間だろ、イブ。家畜でもなんでもない。立派な女性だよ」
「じょ、女性!? 恥ずかしい言い方すんなっ!」
 イブは雪玉を作ると、俺に投げつける。俺はそれを顔面で受け止めた。手で軽く雪を落とすと、俺はイブに聞いた。
「お前さ、クリスマスは空いてるか?」
「突然なに?」
「ほら、うち教会だろ? クリスマス礼拝があるから、来ないかって」
「デートのお誘いってこと?」
 イブはにやりと笑う。俺もつられて笑ってしまう。
「そういうことにしておくか? ま、実際のところ、礼拝のあとにある炊き出しに人手が足りないから手伝ってほしかったってだけなんだけど」
「何それ! ムードも何もないじゃん」
 俺たちは互いに目を合わせると、どちらからでもなく噴き出した。

                                   ◇◆◇

――クリスマス。
父さんは教会の入口で礼拝に来た人たちに挨拶する。その隣で、俺はイブがいつくるかどうかずっと待っていた。しかしいつになっても彼女は来ない。
「そろそろ礼拝を始めるぞ」
 父さんも教会に入っていくが、俺はなんだか嫌な予感がした。俺も急いで教会に入ると、父さんが準備している間、信者の人たちの中でイブの知人がいないか探した。ここはそんなに大きな街じゃない。知り合いがいるかもしれない。
「イブ? ああ、あの不良娘かい? あの子だったら確か、アベニューDの安アパートに住んでるよ」
「何号室かわかるか?」
「二○二だったかねぇ」
「ありがとう!」
 偶然知っていたばあさんにお礼を言うと、俺は上着を羽織り、アベニューDまで急いで走った。

「……ここか?」
 いくつものアパートが並ぶアベニューDだが、その中で一番ぼろっちいのが今いるアパートだ。
 言われた通り、二○二号室まで向かうと、ドアが軽く開いていた。どうやら鍵を閉めておかないと、自然に開いてしまうみたいだ。このドアは完全に壊れている。
「イブ、いるか?」
 声をかけるが、返事はない。嫌な予感は次の瞬間確信に変わった。錆びた鉄の匂いが部屋中に充満している。ベッドやクッションなど、布製品にはすべて真っ赤な血。
 イブは、そんな部屋の中心に横たわっていた。腹には包丁が根元まで刺さっている。
「イブっ!」
 俺が駆け寄って呼吸を確認すると、彼女は虫の息で俺に言った。
「あたし……結局人間としては死ねないみたいだね……あんなクソ親父に殺されるなんて……」
「まだ間に合う! 今すぐ救急車を呼ぶ! だから、死ぬな……!」
「ねぇ、お願い。最後……あたしのために……祈って……」
 最後の言葉とともに、息が途切れる。くそ、なんでこんなことにっ……! 俺がもっと早くここへくればよかったのか? それとも、教会へ逃げてこいって言ってたら、イブは死ななくて済んだのか!?
「くそっ……くそっ!」
 俺はイブの亡骸を抱えて、涙を流す。白い手袋は真っ赤に染まっていたが、そんなことはどうでもいい。
 クリスマスは聖なる日じゃないのか? なのに、この不幸な少女の命を、神は奪うというのか?
「あ……あ……」
 後ろを振り向くと、そこには禿げて腹の出た汚い中年が立っていた。白いタンクトップには血飛沫が。ああ、こいつか。イブの父親は。最低最悪、生きるゴミ。人間界の悪魔だ。
 若い女の子に寄生した挙句、心も身体も命さえも奪って……!
「い、今から警察には行く! ちゃんと自首はする! だから……」
「だから、なんだ? 警察に行って自首すればイブは戻るのか? 一生懸命生きていたあいつは生き返るのか!?」
 俺は真っ赤に染まった手袋を脱いだ。
「主よ、人間である俺がこの悪魔を倒すことをお許しください」
「な、何を……っ?」
 イブの父親の首に手をかける。シュウ……と身体が溶けていく音がする。骨も肉も、血液も蒸発して、煙があがる。
「……もう二度と、イブの前に現れるな」
 そうつぶやいて俺は、彼女の身体の横に座ると、そっと手に触れた。イブは俺が触れただけで簡単に溶けていってしまう。まるで雪みたいに。

 外に出ると、また雪が降っていた。
 美しいものほど触れられないと言ったのは誰だろう。雪も虹も、青い空も、神が作ったものに、人が手を加えることはできない。
「イブ、お前の言う通り、俺は普通の人間らしい」
 俺が人に触ることができないのは、人の命以上に美しいものはないからだ。
 
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