第1話

文字数 1,915文字

 少し前の数字だが、令和元年中の特殊詐欺、いわゆるオレオレ詐欺の被害総額は三〇一億五千万円、被害総数は一万六千八百三十六件になるという。
 八年連続、毎年三〇〇億円を越している。
 オレオレ詐欺がニュースで話題になり始めてから何十年になるが、一向に無くならない。
 ニュースになる度に、警察から注意喚起され、自治体の広報や町内会の回覧などでも周知されているから、そんな犯罪は、皆に手口を知られてなくなるだろうと思っていたが、六十五歳以上のお年寄りが騙(だま)されるようだ。
「息子や警官になりすます電話には、騙されないよ。騙される奴はアホじゃないの」
と馬鹿にして自分は大丈夫と高を括っている。
 それにしても、どうしてそんなに簡単に騙されるのか、不思議に思っていたら、ラジオの番組で、心理学者の女性が、「信頼バイアス」という考えを、自身の例で紹介していた。
 女性心理学者は、ご主人から、「印鑑証明がない。どこにやった?」と聞かれて、「そんな大切なものは、(しっかりしている)自分が置き忘れる筈がないから、貴男がしまったのじゃないの?」と応えたそうだ。
「実は自分が終い忘れた」と告白している。
「自分は高等教育を受けて心理学を教えているくらいだから、間違わない自信がある」という、自身への過度の信頼があったようだ。
「信頼バイアス」の「バイアス」というのは、試験の点数に下駄を履かせる場合の「下駄」と同じ意味で、余分な点数を加えることだ。
 例えば、「警察官だ」「銀行協会の者だ」といわれると、日本人は、「お上」に弱い面があるから、「信頼バイアス」が働いて、疑うことなく、銀行カードやクレカを渡して暗証番号まで教えてしまうのだそうだ。
 ニュースでの特殊詐欺犯の供述に驚いた。
 犯人に依れば、「お年寄りは、事務的に話すと騙しやすい」とうそぶいたらしい。
 事務口調が「信頼バイアス」を効きやすくするのだろう。
 考えてみると、オレオレ詐欺ではないが、自分でも似たような経験がある。
 昔、外資系の会社に勤めていた。
 日本の本部は池袋にあり、自分の仕事場は渋谷支店だったが、本部に異動になった。
 引越しの日、池袋に出かけようとすると、事務の女性が廊下まで追い掛けてきて、「移る前に、フローティング・イクスペンス(浮動経費)の五万円を精算して欲しい」という。
 事務的に当然のことように話すので、何の疑いもなく、「そんなものか」と持ち合わせから五万円を手渡した。
 領収証は無かったが、彼女なら事務手続きはちゃんとしておいてくれるのだろうと疑わなかった。
 フローティング・イクスペンスというのは、交通費や交際費などの出費を、いちいち報告して精算するのではなく、五万円をあらかじめ会社から支給されていて、一定金額になった時点でまとめて精算する仕組みだった。
 だが数年後に転職することになり、経理から五万円を返金して欲しいと言われ驚いた。
 同じ社内の異動だから何も精算する必要は無かったのを、冷静に考えれば分かるはずなのだが、事務の女性はすでに何年も前に辞めていて確かめようがない。
 そういえば、もう一つ似た経験がある。
 住んでいる団地の自治会組長を一年間やった時、毎月自治会費を組員から集めて、会計担当役員の女性宅に持って行くのだが、ある月、集めた金額が「千円足りない」という。
 その二、三か月前から、渡したお金を確認するのを、その女性は自宅玄関ドアの『内側』でするようになっていた。
 その月も、内側でお金を改める手元を目の前では確認できなかったのだが、「足りない」と言われれば、「そうかもしれない」と千円をあらためて持参したのだった。
 だが、最初に持って行く前に金額は確認したから釈然としなかったが、ご近所同士でゴタゴタするのが嫌でそのままにしたのだ。
 翌月からはドア前で確認するようにした。
 二人の女性とも、とても人を騙そうとする人物とは思えなかったし、普段の仕事ぶりや付き合いからも、変な噂は聞こえてこなかったから、「信頼バイアス」が効いていたのだ。
「お前が女性に甘いせいだ。鼻の下をのばしていたのだろう」
と、どこからか天の声が聞こえそうでもある。
 そんな真面目な二人が詐欺師に「変化(へんか)」するのはどんな動機か背景があるのか。
 まともなOLや上品な奥様であれば、オレオレ詐欺の連中のようにプロではないから、相当の覚悟がいると思うが、二人とも普段どおりのすまし顔で、平気で真っ赤な嘘をついたのだ。
 その白い仮面の下には、どんな「腹黒の変化(へんげ)」の顔があったのだろう。
 それよりなにより、騙された自分が、「アホじゃないか」と認めざるをえないのが悔しい。
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