第2話 名前、警告、倒壊

文字数 2,390文字

 コンクリートの裂け目から、雑草が繁茂するマンション。その脇を黄色いボートがゆっくりとした速度で通過していく。突き当たりにある丁字路を右に曲がると、片側ニ車線の広い市道に出る。この道を数百メートルほど直進すると、左手に学校の正門が見える。
「名前、どうしようか」
 ユカリが飲料水――貯蓄した雨水を煮沸したもの――の入った水筒を鞄から取り出していると、アカネが訊いた。
「名前?」
「ほら、名は体を表すって言うでしょう? この子にも名前が必要だと思うの」
 君もそう思うよね、と笑みを浮かべながらアカネが猫に尋ねた。猫は勤勉な城兵のように、前方をじっと見つめていた。
 名前か、とユカリは心の中で囁いた。何かに名を付けた経験が無い彼女にとって、それは特別な儀式のように思えた。
「アカネはもう決めてるの?」水筒を傾け、口腔内を潤すように水を飲む。
「うーん、いくつか考えてはいるんだけど……」指先で前歯を何度か叩きながら、脳内で名前を選り抜く。「オコゲとか、どう?」
 ユカリは飲みかけていた水を思わず吹き出しそうになった。
「ちょっと安直じゃない?」口の端にからかいの笑みを仮止めして、ユカリが言い放った。「身体が黒いからオコゲって……」
「そうかなぁ、愛嬌のある名前だと思ったんだけど」くじ引きで一等を引き当てられなかった子どもの表情で、アカネが呟いた。「スミスミのほうが良かったかな?」
 五十歩百歩だよ、とユカリが言って、オールを漕ぐ力を強めた。アカネが水底に突き立てるようにオールを握り、微調整してボートを右折させる。
 前方では、照りつける鬱金色の光を受けて、水の道が真っ直ぐに伸びていた。道の左側には巨大なアルマジロを思わせる小高い丘があり、右側には鉄骨の建物や住宅の屋根が広がっていた。
 水に沈む前、この道は緩やかな上り坂だった。しかし、水上で生活する彼女たちにとって、土地の高低差はあまり重要な事柄ではなかった。むしろ気を配らなければならないのは、水流と建物の崩壊具合だった。地面に穴が空いている場所では水の流れが激しく、ボートの操作が困難になるし、倒壊した建物の脇を通るときは、崩れたコンクリート片などが降ってくる危険性があった。
「ユカリちゃんは思いついてる? この子の名前」
「候補は何個かあるよ」枝に付いた枯れ葉が落ちるような、さり気ない嘘。猫の瞳を見たとき、ユカリの頭に浮かんだ名前は一つだけだった。
「どんなの?」
「アクア。この猫、目が青くて綺麗だし、チャーミングだと思って……」気恥ずかしさが血流を加速させ、語尾が少し早口になる。
 アクア、と小声でアカネが復唱した。上質な肉を何度も咀嚼して旨味を確かめるように、頭の中で言葉の意味を反芻する。そしてだんだんと口角が上がり、「良いね、すごく可愛い」と屈託のない笑顔で応えた。
「よし、君は今日からアクアちゃんだ」と言って、アカネが猫の頭を撫でた。自身の正式な名前が決定したというのに、猫は相変わらず前を見つめていた。
「気に入っていないのかな」声に不安の色を滲ませて、ユカリが言った。
「不服申立てが無いんだから、平気だよ。それに、これくらいクールなほうが船長って感じがするね。船長はいつでも毅然としていなきゃ」

 ボートの二メートル前で、新生児ほどの大きさの魚が跳ねた。銀色の魚体とヒレの形から、シーバスの一種だろうと二人は判断した。ドプンという音が辺りに響き、飛沫が上がって、フラクタル幾何の模様が水面に広がった。
 突然、地の底から湧き上がってくるような叫び声。アクアが左手の信号機に向けて、鳴き声を上げた。懇願するように眉を下げ、二人の顔を交互に見据えながら、しきりに唸っている。
「どうしたの、アクア……」驚愕の仮面の下で、ユカリが呟く。
「あっちに行きたいみたいだね」アクアの唸る方向に指をさした。海水と雨風に晒された信号機は銅色に錆びており、レンズには幾筋ものヒビが入っている。
「何かあるのかな」
「信号機の根本に、お宝が眠っているのかも」
「まさか……」ユカリが冗談めかして笑ったが、語尾が微かに震えている。「あったとしても、なまこか貝ぐらいでしょ。私には、製菓会社にあった山積みのお菓子のほうが、何倍も魅力的だな」
  アクアの鳴き声に導かれて、二人はボートを信号機の側に寄せた。信号機の根本を覗いてみたが、サドルの取れた自転車が側に沈んでいるだけで、二人の興味を引くものはなかった。アカネが信号機の柱を掌で叩き、やっぱり普通の信号機だね、と嘆息した。
 そこへ突然、爆竹の炸裂する音が響き渡った。道を挟んだ向かい側にある雑居ビルの壁が、牛乳に浸したビスケットのように脆く崩れ、先ほど魚が跳ねた辺りに落下して水しぶきを上げた。
「進むよ」咄嗟の判断で、ユカリがボートを漕ぎ出した。
「オッケー」アカネが周囲の建物に気を配りつつ、オールを力強く握り、ボートを推進させた。

 鳴り響いた轟音に比べて、倒壊の規模は小さかった。隣家を巻き込んで崩れるようなことは無く、雑居ビルの四階部分が海の底に沈んだだけで済んだ。
「あー、驚いた」額に浮かんだ汗を手で拭いながら、アカネが言った。
「あのまま真っ直ぐに進んでいたら、危なかったかもね」ユカリが背後を振り返りながら言った。「アクアが叫んでくれて良かった……」
「教えてくれてありがとうね、アクア」
 猫は小さな欠伸をして、背中を反らせながら身体を伸ばした。自分の功績を誇示しているようでもあり、褒められたことによるはにかみを誤魔化しているようでもあった。
 建物の倒壊で波打っていた水面は、いつの間にかまた穏やかになっていた。太陽の傾き具合から、あと数十分ほどでクラスメイトが登校して、教室に集まり始めるだろうと二人は思った。アクアの背中を何度か撫でて、息を整えると、二人は再びボートを走らせて学校へ向かった。
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