さらば、笑い刑事

文字数 1,578文字

 「笑っていれば、悪い人に見えない。」
 原井は無表情で布団の上に座っている。眠るでもない、起き上がるでもない。布団の上に寝間着のままで座っている。テレビをつけると、朝の情報番組で、アナウンサーもコメンテーターも動物の映像や食べ物の映像を見て笑っている。それを無表情で原井は、ぼーっと見ている。テレビの中でアホ面でニコニコしてる連中は、気味が悪いが、口角が上がっているだけで、悪い人には見えなかった。そうなのだ、笑顔であって、ゲラゲラ笑っているわけでない。原井はここを間違えた。「笑っていれば悪い人に見えない。」と母親が生まれた時からずっと言ってたが、それは笑顔でいなさいということで、ずっと大笑いしているってことじゃなかった。
 原井は小さな頃から疎外されることをひどく怖がっていた。一人で立っていられないというわけではない。一人っきりは怖くないが、大勢いる中で孤立することを恐れた。だから人里離れた場所で、誰にも会わないで生活することが出来れば、絶え間ない恐怖にさらされることはなかったが、普通に生活すれば、集団は避けることができないし、その集団での孤立だけは、惨めで寒々しいので、それだけはどうしても避けたかった。だから母親の言う笑っていればを真に受けたし、生活する範囲が広がれば広がるほど、笑いは大きなものになった。つまり、笑い顔は、原井にとって、社会に紛れるための仮面だった。
 たった一人、誰とも会わない朝の部屋では、笑う仮面をかぶる必要がない。笑いの仮面をかぶるのは、もう苦痛で仕方がない。あの笑っている顔の男は、自分であって、自分でない。影のようなものだ。ただ、その笑う仮面が表立って、自分の代わりに世界と関わりあってくれている。あの笑い仮面が、いるから、この世界に存在することができるのだ。つまり、影に、自分の存在を食われてしまった。
 朝日が顔に当たる。暖かな光が、原井を温める。この恩恵に目を細めているが、もし、ここで目を瞑ってしまえば、原井は笑い出し、影が表に出るに違いない。笑うような表情を作ると、仮面に存在を乗っ取られてしまう。
 だから、朝の、起きてすぐ、誰にも会わない時間は、たった一人で布団に座っている時間だけが、原井にとって、本当の自分なのだ。起き上がって、何かを飲もうとしたり、着替えたり、体を動かしたりしたら、たちまち、笑い顔になり、絶え間ない作り笑いをする仮面の自分に擦り変わる。
 「寝ているときは、笑い仮面も寝ている。しかし、俺は、笑わない夢を見ている。」
 原井は起きることが嫌になって、再び布団に入った。もう、笑う仮面に存在を取られてしまうわけにはいかない。そっと静かにして、自分のままでいたい。
 トロロロロロロロ
 電話が鳴った。ここで電話に出ると、世界に生活する誰かと話すと、笑い出してしまう。笑い仮面という影に存在を乗っ取られてしまう。もう少し、自分でいたい。そう思うが、電話の音が鳴り止まない。
 あははははははは、いひひひひひひ
 そのうち電話の音が笑い声に聞こえてきた。冷や汗をかくほど、動揺し、動悸が激しくなる。胃がせり上がるような、体の内部が裏返されるような残酷な痛みのようなものを全身で感じる。もう、自分は完全な病気だ。原井は覚悟して電話を手に取る。見たことのない番号だった。知らぬ誰かなら、笑うことなく、素で電話に出てみよう。
 「もしもし!」
 原井は笑うことなく、普通に電話に出ることができた。ビルから飛び降りるほどの勇気を持って行動した。全身がバラバラになりそうだが、同時に、影を遠ざけたことができたように思えて、気分が高揚する。
 「わははははははは、もう遅いって!」
 聞いたことがあるような笑い声が聞こえて、トドメを刺されたように心臓が締まるような苦しさがあった。笑い声とは、本当は、何か、残酷なのだ。
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