姉と妹

文字数 3,107文字

 会えないかもしれない人を待ちつづけるのは胸がざわつく。 でも行き交う人々の中で「その人」を見つけたい。

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 冷めたコーヒーカップをすすりながら、青信号で渋谷のスクランブル交差点に散らばっていく人々を見つめていた。

 赤になれば同じ箇所にまた集まり、ぶつかりもせず、すれ違っていく人々を見て万華鏡のようだなと思った。その一粒一粒が誰かの大切な人なんだなともぼやっと思う。

 周囲の建物は隙間なく青空に向かって立ち上がっている。交差点の中心に、太陽の光が押し広げるようにその存在を示している。東京の狭い空はまだ慣れない。

 この交差点に佇むと、自由の中にまとまりや秩序も見える街だけれど、一人で歩き出すと途端に孤独になって途方にくれる。だからちょっと俯瞰しようと有名な渋谷のスターバックスにいる。

 慣れないヒールを脱いで、カウンターチェアーの足掛けへストッキングに収まった足を置く。いつもなら『みっともない』というはずの姉もここにはいないのだ。心細くなる。

 あたしは両足の靴づれの痛みに立ち向かうように、もう一度ヒールに足を通して体を起こした。

 絹のような白い雨がさらさらと外の世界で降り出して、建物の陰に駆けていく人々を見た。日曜の、何百、何千人もの人の波の中で次々と花のように傘が開く。

「あ」

 雨の日にだけ咲く、大きなピンクのダリアのデザイン。その一輪花傘は確かに目立って交差点の上を滑るように移動していく。交差点を渡りきった花は、ロクシタンの黄色のオーニングの陰でしぼんだ。

 咄嗟に背もたれのトレンチコートを取ってあたしは走り出す。Gucciのバッグから誕生日に父からプレゼントしてもらった日傘を取り出す。晴れ間から止めどなくふりおちてくる白い雨が、今度は開かれた青いダリアの花傘に流れ落ちる。

 ロクシタンの一階の店に目もくれずに、2階へ駆け上がる。満席のようだった。一瞥して息を切らせながら3階へ上がった。

 若い張りのある女性たちの声がジェリービーンズをばらまいたみたいに店内を飛び交う。一人ぽつんと窓に手を触れている女性。姉の後ろ姿は見間違うはずがない。腰まで届く手入れの行き届いた長い髪。

「おねえちゃん!」

 しぼんでいるピンクのダリア傘の横に揃いの青い傘を立てかける。

「携帯の充電くらいちゃんとしておきなさいよ。どこにいるかわからないじゃない」
「ごめん……」

 おずおずと向かい席に着き、姉の顔色を伺う。姉がメニューを開いて指差した先に視線を送ると苺のティラミスとあった。

「梨花、苺、好きでしょう?あげるわよ」

 苺のシロップをしみこませたスポンジに、マスカルポーネクリームで苺がサンドされて、仕上げにココアパウダーがかかっているティラミス。苺のマリネもたっぷりと添えられていた。ほんのりビターで甘酸っぱかった。

「もう少しで、おねぇちゃん置いて新潟に帰るところだった」

 最後の苺のマリネを口にしてやっと二言目を発する。

「置いてって……別に会えなかったらあたしが会いにいくわよ」
「おねぇちゃん、勘当同然で出ていった分、戻りづらいって言ってたじゃない」
「新潟って言っても広いじゃない。わざわざ実家の近くで会わなくてもいいわよ」
「そっか。でも、お母さん心配してたよ。お母さんは東京の人と結婚してもいいと思うって。お父さんが古かったのよって変わらず理解示してるよ。だけど、お父さん最期はやっぱり、もう許してやらないとなって言ってたよ。あたし、ちゃんとこの耳で聞いたよ。49日は、戻ってくる?……」

 薄ピンクの上品なネイルの指先で髪をすくい上げた姉が窓の外を見やり、耳元の雫型のピアスが揺れる。グロスで濡れた唇が艶めく。東京に染まった横顔はなんだかおねぇちゃんの感情を奪ったように見えて、その表情は読み取れなかった。

「雨、止んだみたい」

 太陽の下で、OLが宙に手をかざしながら傘を折りたたんでいるのを姉は指差した。

「あ、おねぇちゃんの傘目立つから分かったのよ、スタバから見えてここかもって」
「あたしも見えたわよ、ここに来たら見えたりしてって思って」
「すごい、さすが姉妹。考えることは一緒」

 呆れたように鼻で笑う姉。それは久しぶりに見た姉の笑顔だった。

 2人でスクランブル交差点まで出て青信号を待っていると、ポツッと脳天になにかを感じる。見上げると白い光の中から雨が舞い戻ってきていた。

「大人になっても、傘だけはお揃いだったわね」

 バサッと傘を広げた姉が言った。

「うん」

 続けてあたしも傘を広げる。

「ちっちゃい頃、お父さんが迷子になってもすぐ見つかるようにって、真っピンクのジャケットあたしたちに着させたの。あんた覚えてる?」
「あーそうだね。ピンクは好きだったけどあれ趣味悪かったわぁ」

 父の悪趣味な所を言い合いながら、青信号の合図であたしたちはアーバンな人たちの波に紛れていく。巨大液晶画面に一瞬映った新潟の天気も晴れだった。

「でも、お父さんの選んでくれたこの傘は好きよ」
「……うん、あたしも。でもあたしの誕生日におねぇちゃんの分も買ってくるって、それ誕プレ感なかった」

 姉はふっと笑って空を仰いだ。

「雨晴れ兼用、今日みたいな狐日和に最適ね」
「開いてなかったらおねぇちゃんと会えなかったかもね」
「そうね」
「お父さんが降らせたのかな。雨」
「東京の空の下、姉妹引き合わせるために?」
「そ。天国から」

 山手線の改札口に着くなり鮮やかな光がまた空から射し込んだ。たった数分の雨がまた止む。

「あー気まぐれな空。おとーぅさーん」

 そう空に声をかけてあたしは傘を折りたたみ、改札に入る準備をした。

「じゃ、おねぇちゃん、あたし行くね」
「梨花」
「ん?」
「帰ろうかな今日。もう遅いんだけど……」

 姉の、傘の柄に触れていた指先に力がこもっていくのが見えた。傘に隠れて表情が見えなかったものの、後悔の空気が差された傘の中一帯に充満しているのが分かった。

「いいよ。帰ろう一緒に」

 姉の表情を読み取る前にあたしはもう片方の手をぎゅっと握った。冷えた指先を姉は力なく絡ませた。

「きっと気まぐれに帰ってこいって言ってるんだよ」

 あたしたちは十何年かぶりに手を繋いだ。

「帰ってくるなら、今年はあたしがおねぇちゃんのキツネメイクしてあげよっか」

 地元の地区では毎年5月3日に狐の嫁入り行列というお祭りがある。夕暮後、狐に化身した白無垢姿の花嫁を中心に108人のお供を引き連れ町内を行列するのだ。花嫁と花婿はその年に入籍するカップルから公募で選ばれる。地元の人たちもそれぞれキツネメイクを楽しむのだ。

「やだ。あんたメイクがド下手なんだもん」
「うまくなったよ、あたしも成長したよ」
「赤い口紅は梨花の方が似合うかもね、梨花もメイクを覚えて大人の階段をのぼってるのか」

 姉は赤らんだ鼻に手を当てながら傘をたたんで前に向き直る。

「おねえちゃん結婚、来年でしょう?」
「そのつもりだけど」
「お父さんが、帰ってきたときは公募にだしてやれって、言ってた」

 脳裏に浮かんだ酸素マスク姿の父。最期まで気にしていた姉のこと。お互いに素直になれなかった2人。

「……早く言ってよそういうこと」
「だって……最期まで黙っとけって」
「ずるい」

 遠く離れた都会の真ん中で、あたしたちはとうとう声を出して泣けた。

 fin.
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