髪を切ってきて

文字数 2,306文字

「髪を切ってきてよ。」
陽子が言う。
「なんでだよ。」
俺は、ぶっきらぼうに言い返す。陽子とはかれこれ学生の頃から数えて3年近く一緒に暮らしている。昔風に言えば、神田川、同棲時代というやつだ。いや、ここは神田川から遠く離れた川崎の地。まあ、東京にもそこそこ近くて、家賃もそこそこ安くて、何でもそこそこ具合が俺達にはちょうどよかった。ああ、そうか今は同棲なんていう言葉は、死語になりつつあり、事実婚とかそんなふうに呼ぶんだな。
「いつまでも、もしゃもしゃとか、バンドやろうぜとか、ありえないから。」
大きなため息とともに陽子が追い打ちをかける。
「なんで、いきなりそんなことを言い出すんだよ。それにさ、俺、働いてんだろ。きちんと毎日というわけにはいかないけれど、週5日、コンビニでレジをさっさと打っているし、同時に品出しもしている、これでも案外戦力なんだぜ。それに、この髪、今のオーナーによれば、ギリギリセーフライン。ていうか、あまり気にされていないみたいなんだけどさ。」
「ともかく、切りにいって。さっぱりして。」
「ちょっと待てよ。陽子。たまに段ボール集配の夜のバイトもやっているし、俺達まあまあカツカツだけど、こうして何不自由なく暮らしてんじゃん。それと俺の髪と何の関係があるというんだい。」
俺の髪は、天然パーマだから少し伸びるとまとまりがつかなくなる。まして、湿気大国日本では雨が降る日など最悪だ。昔の漫画に出てくる小池さんのようになる日もあるが、俺はそれはそれで気に入っている。高校生の頃から始めたバンド熱は冷めやらず、今でも活動は続けている。たまにライブハウスの前座の前座をつとめたり、どこかのショッピングモールの野外無料ステージに立ったり。大学生の頃に出会った仲間と始めたバーナードというバンドは、何度かのメンバーチェンジを繰り返し、今、3ピースでまとまった。バンド仲間は、菅原という本屋でバイトしているメガネ男と(実家暮らしのため、悠々自適の生活)、プロをまだ目指している前田という少しオネエ系の野郎だ。前田は、日の出町で夜のバイトをしながら、曲をつくり、いつかメジャーデビューを企んでいるが、俺はとうの昔にその夢はあきらめた。いや、あきらめきれないでいるのかもしれない。
あきらめきれず、髪もギリギリまで伸ばしたまま、毎日、生活感あふれる詞を書き、いつか誰かの目にとまり、この想いを世の中に問いたいと思っている。たまに第二のゆずを夢見て、路上ライブもやるが、反応はかんばしくない。そもそも、俺らははたからみれば、どこまでも素人もどきなのだ。
「両親にさ、紹介したいしさ。いつまでも、夢を追うって。」陽子がつぶやく。
そうなのだ。陽子は、大学を卒業して地元の企業に事務職として就職した。かれこれまる2年。そうこうしているうちに、クリスマスケーキのような気持ちになるのかもしれない。だいたい今の日本で女性がずっと働ける職場というのは、本当に少ないし、やはり女は、就職してしばらくしたら結婚、出産、子育てと王道の人生を歩むのが幸せなのかもしれない。社会がいくら進んでも、消費税が10%になろうとも、基本的にそこのところは変わらない。ただ、男の方も終身雇用がくずれ、いつリストラされるかもしれないという危機感の中で生きなければならない時代だから、仕事はなあ。わかるんだ。俺がいつまでもコンビニでレジを打っていても、二人の未来は明るくないということも、だからって、髪か。
「ユーミンの歌にもあるでしょ、就職が決まって髪を切ってきた時にもう若くないって、思い知らされるとかなんとか。私達もそんな年なのよ。わかってよ。」
俺は、だんまりを続けた。陽子の言葉にも確かに一理ある。けれど、バンドマンのボーカルが七三でステージに上がれるか?思い切ってスキンヘッドというか坊主にする手もあるが、それ相応にバンドイメージというか世界観を創りあげておかないと、一発即発、事務所から、ああ俺達はまるまるフリーだから止めるマネージャーもファンも社長もいないということか。髪を切るということは、菅原と前田にその旨を伝え、俺達の夢を夢でなくし、ただのおじちゃんバンドで余暇に楽しく活動しようと烙印を押すことに同意してもらわなければいけない。そんなこと今の俺にできるのか?
「来週の日曜日までに、そこいらへんの千円カットですっきりさせてきてね。真一郎は、もとがいいのだからどんな髪型でも似合うわよ。そしたら、コンビニのバイトも考えて、どこか就職口を探すこともね。よろしくお願いいたします。私達二人の未来のために。」
陽子は、そう言い放つと俺がまるで同意したかのように納得し仕事に出かけた。俺は、初めてその一つ一つの言葉を放つ陽子の唇を見つめ、この女とはもう暮らしていけないと感じていた。本当に好きだったのか。千円カットって、何だよ。せめて、ヘッドスパまで贅沢にやってきたらと言えないものなのか。俺の夢は。俺の夢は、やはり日本武道館のステージに上がることだ。今の俺達には火星に行くよりも遠い夢かもしれないけれど、まだもう少し夢を見続ける権利は、あるのではないか。生活なんて、どこまでも続いていく。そうだ、人生は、思っているよりも長いのだ。ラジオから、ズーカラデルの「生活」が流れている。
さようなら、陽子。俺は、この髪を切れないよ。
二人で暮らしたアパ―トを後にした。一緒に暮らした3年の想い出など、一瞬の言の葉であっという間に跡形もなく消えていくものだ。とりあえず、オネエの前田のアパートに転がり込んで、二人で必死に曲でも作るか。
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