第五章 あの日以降 ~事件翌日からの真子の物語~ ①
文字数 3,505文字
行かなかった。
母は、そんな娘に何も言えなかった。
「学校、行きなさい」とは言えない。
昨日の娘の姿を思い出し、心が痛んだ……。
昨日、家に入るなり、娘の真子は、
緊張が解けたのか、狂ったように、泣いた。
真子は、悔しさと惨めさゆえ、大泣きした。
母は、何も言わずに、抱きしめてくれた。
母の優しさに触れ、さらに真子は、泣いた。
しばらくして、母は泣きじゃくる娘の手を
そっと無言で握り、洗面所へ連れて行った。
母は優しく、娘の体操着を脱がせた。
そして、体操着と濡れた服やスカートを
洗濯機にいれた。
母は、真子に見えないように、
そっと涙をぬぐった。
そして、母と娘はその日、真昼間に
風呂に入った。
しくしく泣き続ける我が子の身体を洗い、
シャンプーで髪の毛も洗いながら、
母は、また涙を流した。声を出すまいと、
必死にこらえながら。
風呂から出ると、真子はすぐに寝入った。
母はホッとした。
寝ている時だけは、悲しみやショックを
忘れられるであろうから……。
母は、そっと、娘に布団をかけて、
障子を閉めて、洗面所に向かった。
濡れてしまった娘の靴を洗い、娘の服や
スカート、靴を干しながら、母は
また泣いた。声をあげて、泣いた。
そして、翌朝、真子は、いつもの時間に
なっても布団から出てこなかった。
母は、真子にギリギリまで声を
かけなかった。
娘の気持ちは、痛いほど分かった。
真子は、その日、一日中布団の中にいた。
「もう外に出れない」と思った。
外に出たら、終わりだ、と。
外に出て、学校の子に会ってしまったら、
絶対バカにされる。
あの日以降、真子は、外へ出れなくなった。
外に出るのが怖かった。
時々、近くの市立図書館に本を借りに
行った。
でも、それは同級生や学校のみんなが
絶対に学校にいる時間に…だった。
みんなと会わない時間帯に図書館に行き、
いっぱい本を借りて来て、家でその本を
読む。
それが、真子の日課、日常となっていく…。
真子は、いつの間にか、本好きな、
読書好きな女の子になった。
いや、読書の時間だけが―本の世界に
入り込み―、現実の痛みから逃げる、
幼い真子が見つけた方法だったのだ。
学校に行こうとしない娘のことを
母は少しも咎めようとしなかった。
母は、娘の苦しみ、葛藤を分かっていた。
無理して学校に行かすことが適切だとは
全く思わなかった。
少しずつ、回復していき、自分から
行ける日が来るだろうと、考えた。
だが、当の真子は「また、学校に行こう」
とは全く思っていなかった。
いや、「絶対に、学校なんかもう2度と
行かない!」と、一人静かに決めていた。
家の中で一人で本を読んだり、テレビを
見ているのが安全だと思った。
そうすれば、誰にも馬鹿にされないし、
あんなことに巻き込まれることもないんだ
から……。
でも、寂しかった。
一人で家にいるのは……。
真子は、大親友のみどりが来てくれるのを
待っていた。
このあと来るのでは、明日こそ来るのでは、
とずっと待っていた。
でも、同じ頃、みどりは葛藤していた。
罪責感に苦しんでいた。
だが、真子の方では、みどりに対して
怒りも、憤りも全くなかった。
第一、 真子は知らない。
みどりが自分の腕を掴んだと言う事実を。
と言うより、憶えていなかった、真子は。
義時にずっと追いかけられ、生男には
裏切られ、みんなの前でおもらしを
してしまったこと、これらこそ、
真子の、あの日 の記憶の全てであって、
思い出したくもない記憶なのだった。
そう、だから、みどりのことは一切、
『一連の事件』の記憶に入っていなかった。
このことを、みどりが知っていれば、
みどりは足取り軽やかに真子を訪ねることが
できただろう。
そして、二人の人生は違ったものとなって
いたかもしれない。
真子は寂しかった。
真子は、みどりを待っていた。
頭の良いみどりなら、自分が外に
出れないワケも分かってくれてると
思っていた、最初は。
でも、みどりは何日待っても、1週間経っても
来てくれなかった。
ついに、1か月経った。
でも、みどりは来なかった。
真子は、いっそ、みどりの家に行ってみよう
とも考えた。
だが、みどりの家の隣が、あの義時の家だ!
絶対に、近寄りたくなかった。
だから、真子は、みどりに会いに
行くことはやめた。
そして、真子は自分なりに結論付けた。
自分は、みどりに捨てられたと。
それでも、心のどこかで、みどりのことを
待っていた。
時々、クラスの女の子たちが、先生に
頼まれて、学級案内とかを持ってきた。
母がいない時は、居留守をした。
顔を合わすことなんて絶対にできない。
でも、玄関までそっと歩いていき……
―そう、足音を立てないで歩くのが
うまくなった真子だった―、
真子は、玄関の扉ののぞき穴から外に
立つ女の子たちを確認していた、毎回。
みどりがいるかどうか、それが気になるの
だった。
でも、みどりが外にいたことは一度も
なかった。
ある時は、いっぱい女子が並んでいた。
「あっ。めあちゃん、びぜんちゃんもいる。
はるえちゃん、びのんちゃん、
あかねちゃん、たるちゃん、
かりなちゃん……」と数えたが、
7人……。
やっぱり、みどりはいなかった。
一つ言えることだが、3年2組の担任、
管原綾子―兵庫県出身の23歳―から
したら、真子の家と全く正反対の方向に
住んでいるみどりに、学級案内や宿題を
頼むことはできないものだった。
少しでも早く家に帰してあげたいし、
遅くなればなるほど、帰り道で色々な危険が
あるから。
必然と真子の家の近くに住んでいる
クラスの女の子に頼んでいた、教師管原は。
それと、管原綾子は思っていた。
真子の大親友のみどりは、もうすでに、
真子の家に行っているだろうと。
だから、真子の家にやってくる女子達の
中に、みどりは一度もいなかったのだ。
だが、そんなことまで考えつかない
真子は、「みどりちゃんは、小3なのに、
みんなの前でおもらしをした、あたしが
嫌いになったんだ。
きっと、おもらしの友達なんか
恥ずかしいから、もう私には、
会いに来ないんだ!」
と決めつけていた。
だから、真子は、悲しかった。
大親友のみどりにまで捨てられた。
生男だけじゃなく、みどりにも……。
真子は、思い出した。
1か月も経っていない……。
誕生日の次の週-ゴールデンウイーク明け―
に、みどりと、おそろいの靴を履いて、海が
見える公園に出かけたあの日のことを。
そこで、二人は、指切りげんまんをした。
「一緒にこの靴を履いて、中学校も高校も
行こうね!一生大親友だよ」と。
しかし、その約束は、まだ2か月も経って
ないのに、破られてしまった。
真子はショックを感じた。
まさか、大親友のみどりに捨てられてしまう
とは!!
何か、自分の価値がゼロになってしまった
気がした。
そして、あの靴は、絶対にもう履かないと、
真子は決めた。
あの靴が、みどりとの約束の証しだった。
でも、みどりは来てくれない。
手紙も来ない。みどりは、
もう友達じゃないんだ。
だったら、あの靴なんて、もう見たくも
ない。
そんな真子だった……。
でも、だからと言って、真子は
みどりを憎んだり、恨んだり、嫌ったり
することは出来なかった。
どこまで行っても、みどりには来て
ほしかった。
みどりを待つ自分がいた。
みどりと会いたいと願う自分がいた。
みどりの家でなくても、みどりがよく行く
所に行ってみようと思った。
でも、できなかった。
自分が、みどりの所にいったら、みどりは
どんな態度を取るか……。
怖かった。
知らんぷりされるかもしれない……。
また、他に誰かいたらバカに、
されるだろうし、
みどりだって、みんなから
「おもらしした真子の親友」とバカにされて
しまうかもしれない。
みどりに会いに行こうと考える日も
あったが、ついに、真子は、みどりが、
来ないことが、みどりからの答えだと
悟った、ある日。
なぜなら、今まで、真子とみどりは、
どちらかが風邪をひいたりして学校を
休んだ時には、元気な方が相手の家を
訪ねていたから。
もちろん風邪の症状が悪い時は、玄関先で
親に「まだ会えないの。また今度ね」と
言われることもあったが、良くなった頃
なら、部屋に上がり、二人で読書をした。
それから学校での話しを片方が片方に
聞かせてあげるのだった。
そう、あれは、真子が小2の秋。
体育の授業中に骨折してしまい、
しばらく学校を休んだ時も、
みどりは来てくれた。学校帰りに毎日。
そんな、みどりが、今度は全然来てくれ
ていない。
真子は、これが、みどりからの『絶縁宣言』
に思えた。
そして、真子は、みどりのことを諦めた。
悲しかったが、諦めるより他になかった。
それからは、真子の記憶の中から、
みどり存在が遠のいていく。
大親友だった、みどりのことを、
真子は少しずつ少しずつ忘れていく……。
(著作権は、篠原元にあります)