1.

文字数 2,019文字

 家に帰る前の一時。バスが来るまでのちょっとした空き時間。俺は自動販売機で缶コーヒーを買った。千円札を入れた後30円を入れ、ボタンを押す。缶コーヒーも入れ替わりが激しいようだ。並んでいる缶も随分と変わった。しかし、前はどうだったかは思い出せない。覚えても、またすぐに入れ替わってしまうのだろう。

 そんなことを考えながら缶コーヒーを取り出す。その後にお釣りとして出て来た小銭を取り出す。100円玉が9枚。缶コーヒーには悪いが、この両替が目的なのだ。もちろんコーヒーも飲みたい。しかし、優先順位が小銭の場合、小銭を取り出してコーヒーを持って行くのを忘れることがある。俺はそんな経験を何度もしてしまった。なので、先にコーヒーを取り出さねばならないのだ。

 冬の夕方だ。頬を打つ風は冷たい。ホットコーヒーは俺の冷たい一時を暖めてくれた。空き缶をゴミ箱に入れ、先ほどの小銭のから100円玉を3枚取り出し、俺は戦いの地へと歩き出した。

 俺はUFOキャッチャーというものを一度も成功させた事が無い。偶然に見つけたこの丁度いい空き時間とゲームセンター。ここでしばらく挑戦しているが、やはり上手く行かない。家でやるゲームはそれなりに上手く出来るのだが。

 こんなボタン2つの単純な遊びにも関わらず、一向に何もゲット出来ないのが悔しかった。自動販売機のコーヒーのように、この景品もその内に変わってしまうのだろう。そして、俺の予定やバスのダイヤもその内に変わっていく。この対決は今しかできない。こんな遊びもたまにはいいだろう。この謎のキャラ、宇宙に飛び出した町奉行、遊び人のルードさんという奇妙なデザインも気に入った。きょうも三回勝負させて貰おうか。

 100円を手にして、念を込める。そんなことに意味は無いはずだ。ボタンの調整が重要なはずだ。しかし、ついついそんなことをやってしまう。チャリンと機械に投入し、ボタンが光り出す。さーて、少しは慣れて来たから、精神を集中してやってみよう。

 こういう時は、周りの音が良く聞こえてしまうことがある。それによって集中を乱されることもある。それを乗り越えるためには、目の前の何かをしっかりと見つめることだ。

「たいこの、たつじん!」

 後ろの方で何かが聞こえた。どうやら『太鼓の達人』が始まってしまったらしい。ゲームセンターというのは、様々な音や音楽が鳴り響いている。このUFOキャッチャー付近でもそういったものが鳴り響いている。その筈だが、今は何故か後方に存在する『太鼓の達人』の音が気になってしまった。そして、ボタンに触れている手が震える。そして、

「ダメだった……」

 と、口に出してしまった。こう、スカッとなってしまったつかみ(?)が何も持たないまま穴(?)まで動いて、カパッっと開いて元に戻る様子は、非常に空しい光景だ。さて、今日はあと2回出来る。もう一度念を込め、100円玉を投入する。ボタンが光り、再びの闘いが始まった。じっくりと狙いを定め、

(あ、これ知ってる曲だ)

 と思ってしまった。あのゲームは流行りの曲から昔の曲、クラシック音楽まで幅広い曲で遊べる。どこかで耳にした曲が太鼓を叩く音と共に俺の耳に響いてくる。ただ、曲のタイトルが何だったか、歌っている人は誰だったかが思い出せない。そして、俺の手は乱れ、

「ダメか」

 また失敗。どうも今日は巡り合わせが悪いのかもしれない。もう一回は止めておこうか? とも思ったが、バスが来るまで時間があったため、最後の勝負になだれ込むことにした。こうなったら、目を閉じてやってしまうのもアリだろう。こういうものが上手く言った覚えがある。それが何だったかは思い出せない。

 100円玉を投入し、ボタンが光ったのを確認すると、俺は目を閉じた。ボタンの感触を手で確かめる。さて、どうするか、と考えていると再び、

(あ、これも知ってる)

 という思考に向かってしまった。相変わらずタイトルと歌手は思い出せないが。だが、ここに来て太鼓のリズムが気になって来た。猛烈な速さだ。もしや、これが噂の最高難易度『鬼』ではないだろうか? 眼を閉じたまま、その太鼓のリズムを聞くのが面白くなってきた。少しだけ沈んでいた気分も心地よくなってしまう。これは一体なんだ?

 そこで気付いた。自分はUFOキャッチャーで遊んでいたことに。ボタンを長く押し過ぎて、当然の如く何も獲得できなかった。ガーと動くのを見つつ、後ろを眺めた。太鼓の達人の前には誰も居ない。猛烈にたたいた後に風のように去って行ったのか。一体どんな人がプレイしていたのだろう?

 色々と思ったが、もうすぐバスの時間なのでゲームセンターから去ることにした。外に出ると先程よりも少し冷たさが増していた。そんな冷たい風に囁いてみる。

 太鼓の達人は好い。日本文化の極みだ。

(終わり)
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